感染
オォニの書いた話はめちゃくちゃで、文章は口語のままだったが、それでも話の内容は面白いものだった。その見た目をいちいち気にするよりは、私は彼が一つの作品を作り上げたことに驚いていた。話の筋がきちんと通っているし、話のはじめと終わりが一貫している。十枚ちょうどのそれは、彼の才能を示していた。
「と、まあ、総合して言えば、ダメダメですが才能はあります。物語を書いたのは初めてなんでしょう?発想はいいんですから、文章次第で死ぬほど面白くなりますよ。私もまあ素人ですけど」
「……つまり今の時点では読みにくいってことか」
「ええ、まあ。でもいいんじゃないでしょうか。読みにくいのは文章を直すだけで劇的に変わりますよ。発想は面白いですから、あとは読みやすさを追求すれば問題は全くなくなるかと」
私は彼と話し合いながら、その文章に赤入れのようなことをしていく。例えば口語のまま文体がめちゃくちゃだったり、台詞と地の文がわかりづらかったりするところはオォニの考えを汲み取りながら丁寧に書き直しをすることにしようと約束した。
ひとまずはそれでも、考えを形にすることを楽しんだ方がいいだろうと私は多くの紙を手渡して、彼の思うままにさせた方がいいだろうと考えた。数日の間こもりっぱなしであったが、一晩もかからぬうちに私の手元には彼に指摘をした部分を大幅に修正した、丁寧な原稿がいくつか出来上がっていた。
「……面白い」
前よりも、格段に書く力が上がっている。文才があるのだろう。私ではすぐに彼に指導ができなくなると思われるほどのものだ。
一番はじめの原稿を書き直してみた方がいいかもしれない。そう考えて私は居間のような場所においてあった最初の原稿を探す。
「あれ、たしかここに……」
私は首をかしげ、そしてヘフィーにうっかり間違えて捨てたということはないだろうかと尋ねると、彼女は「ああ、あれね」と答えた。
「兄がちょっとはまともに働く気になったみたいって婚約者の人に話したの。そしたら彼がその原稿を欲しいって言って、譲ることにしたの」
「は、はい?えっと、すいません。もしかしてその、渡してしまったんですか?」
「ええ、そうだけど……どうかしたの?」
まずい。
何が不味いって、あれはまだ未完成のものだ。創作活動は基本的に己をさらけ出すことゆえに、自信の持てない作品をどこかへやってしまった。
探さなければいけない。
「婚約者さんに会って、返していただくことはできますか?」
「難しくはないと思うわ。あなたはまだ子供だし、無下には出来ないと思うの」
婚約者の名前は、シィテルテ・ルリュイ。シィテルテの家の場所を教えてもらうと、私はすぐさまテルシュを身につけて走り出した。
「あの!シィテルテさんはいますか!」
「あら、子供じゃない。どうしたの、シィテルテに何か用事かしら?」
くらくらするような色香をまとった女性がふらりと顔を出した。ウェーブのかった髪はゆるやかに膝元までゆらゆらと綺麗に艶をまといながら揺れている。まろみを帯びたおでこが分けられた前髪から覗いていて、眉があまりに完璧な位置に収まっている。
「あ、あのう、すいません。シィテルテさんが、ヘフィーさんから貰ってきた紙、大事なものなんです。一度上げてしまったものを返していただくのは無作法なんですが……」
「あらあらまあまあ、それはシィテルテが悪いわ。子供のものを貰ってくるなんて。それに、あなた儀式の途中なんでしょう?オォニを更正させるなんて、子供に押し付けることではないけれど……」
「いえ。引き受けた仕事ですから」
「そう、そうね。それならしっかりやり遂げなければ。その紙、オォニの更正に必要なものなんでしょう?大人は協力を惜しまないわ。でも、いいこと、無理だと思ったらいつでも長老に言っていらっしゃいね」
「ありがとうございます」
シィテルテは狩りに出てしばらく帰らないということで、事後報告になってしまうがその紙を受け取って私は家に帰ることにした。
オォニは私が差し出した原稿をちらりと見て、それからぎゅっと眉を寄せた。
「シィテルテのとこに行ったんだって?」
「彼はいませんでした。ええと、髪がうねうねしてる女性からこれを受け取ってきました」
「……そう。じゃ、これ見られたんだ。シィテルテに。ああ、やめだやめ、こんな無駄な作業、やめちまったほうがいい」
え、と私の手に握られていた原稿が、まだくすぶっていた竈の中に放り込まれる。動くことさえ出来なかった私は、めらりと燃え上がる火にはっと意識を取り戻して竈の中に手をてらい無く突っ込んだ。
くすぶりかけの原稿を幾度かはたいて彼を見上げると、彼は信じられないものを見る目で私を見ていた。
「なにしてんだよ。……なんで……そんな目で俺を見るな!!」
じわりとその相貌は暗く染まっていた。シィテルテのことを聞いてから、彼はひどく動揺して、そして目の下にくまをくっきり作り上げるほどに夢中になっていたものを捨てた。まだ焦げて嫌なにおいを放っている紙をぎゅっと握り締める。少しばかり欠けているが、それでも問題なく直せるレベルだ。
それでも。
それでもだ。
私はオジールカのように命を燃やして書き上げたものがあると知っている。たとえ読者がそれを炉の中に放り込んだり泉に落としたりしてだめにしてしまっても、そしてどんなにあざ笑われても、びりびりに破いたとしても、それは読者の心しだいだ。どうすることも出来ない。
けれど生みの親であるオォニ自身がそれをするなんて。
「オォニさん」
「ひッ……やめろ、来るな」
私の何が彼をおびえさせているのか、私には分からない。今どんな表情をしているのか。鏡という便利極まりないものは、ここには無いのだ。
「あなたがあなた自身をないがしろにするのは、よろしくない」
怒りがあって、そして悲しかった。オォニは命を最後の瞬間に諦めたオジールカと同じだった。あの巨体が頼りないほどの縄に吊り上げられてぶらんぶらんと揺れているあんな光景に重なるなんて、なんて可愛そうな人だろう。
ああ、そしてなんて非道い人だろう。
「私が矯正するべきはあなたの性根ではなく、あなたの自信だ」
ひくひくと子供におびえるどうしようもない男に見えた。本当のオォニは、この姿だ。ようやく見つけることが出来た。自信を喪い、何も無くなって、ただただ自分の無力さにおびえる彼が、彼自身だ。
「なにがあなたをそんなにしたんです?」
「……い、いやだ。話したくない。もうこれ以上無様をさらすなんて……」
「はじめっから上手く出来る人なんて、いません。それに無様だなんて思ってもいません」
「嘘だ!」
「私は、あなたの書く話、とても面白いと思っています。だから竈に手を入れました。あなたの書いたものには、それだけの価値がある」
オォニがばっと顔を上げた。無様で弱い人だからこそ、空想に夢を見る。英雄譚を語るのはいつだって弱者だ。
「…………書く」
彼はそれだけぽつりと言い残して、紙を引っつかみ、その場を後にした。
「……よかった」
彼が立ち直ってくれて、本当に良かった。たった一人、私という読者がいたからこそできたことだ。読まれない作品は、辛い。オジールカが私に図鑑のようなあれらを渡したのが理解できた。
残る問題はシィテルテだった。
彼とオォニの確執をどうにかせねば、この問題は永久になくならない。時間差のようにじくじくと痛み始めた手は立て続けのことごとと相まってひどく私の心を苛んだ。それでも私はやらねばならない。
まず、シィテルテの聞き込みから始めることにした。小さい子供のこともあって、みな口が軽く、そして親切に教えてくれる。
「あー、シィテルテね。彼ヘフィーと結婚するのを決めたのはごく最近なのよ。それまではヲフリュに気があるそぶりだったけど、ヲフリュがオォニを春の言祝ぎに誘ってからヘフィーに近づき始めたの」
「ヲフリュさん?」
「ちょっともう!私がいること忘れて話してない!?」
「あらいいじゃない。儀式に必要な情報は惜しみなく渡していいって長老がおっしゃってたもの」
「もう!」
ヲフリュさんはすっきりと髪をひとつにまとめ、くせの一切無い白銀を肩甲骨に垂らしている。テルシュは暑いのか腰に巻いており、いささか扇情的にも見えるが、野生の鹿のような張りのある筋肉のつき方にどこか少年っぽさが残っているような気がする。
「ヲフリュさん、えっと、オォニさんのことは?」
「ぜ、絶対内緒よ?」
そう前置きして、彼女は駄目駄目だが悪戦苦闘しながら頑張る姿にちょっとときめいてしまったらしい。
「ヲフリュはだいたい、だめなところがないものね。嫌味なくらいに」
「そうよお。それでオォニも引いちゃったんじゃない?ほら、戦いも上手いし、機織だってヲフリュのほうが格段に上手」
「……そうかなあ」
落ち込んでいる彼女はとてもかわいらしくあるし、応援したくもあるのだが、今はまだそこまで首を突っ込む余裕も無い。私はその場を辞去しようと思ったのだが、目ざとい一人に抱え上げられて手の火傷を見つかった。
「なあに、これ?」
「あ、いや、これはその。ちょっと不注意で」
「だめよ、ちゃんとお薬塗って、包帯巻いておかないと」
「でも、え、は、はい……」
私は強い視線にさらされて余儀なく包帯を手に巻かれ、薬をべたべたに塗られた。治りやすい年頃だからと比較的すぐに解放はされたものの、その夜の仕事にはすこしばかり遅れてしまった。
オォニの手から書き直された原稿を受け取ると、その読みやすさとあまりの面白さに何度も声を上げて噴出しそうになる。私はふう、と息を吐いて、そして目の前のオォニの不安げな顔ににっこり笑って見せた。
「すごく面白いです。もう誤字も脱字もないし、読みにくいところなんてまったく」
「そ、そっか。へえ、やっぱ俺はデキる奴だからな」
「これ、周りの家の人に配っていいですか?綺麗にインクで写して、紐を使って綴じてみたら、本みたいになるんじゃないかと思って」
「は、はあ?あのなあ……いや、まあ、悪くはない、けど……」
「すごく面白いですから、絶対みんな夢中になりますよ」
私はそれから写本作業に没頭した。数冊が出来上がり、手は少しばかり見せられないことになったが、一日で終わったそれを近くの家の人に配ってきた。この近辺では何も無い。平穏で、事件という事件はまったく起きておらず、ようやく現れた私が配った本。
「よかったら読んでみてくれませんか?」
最大限の便宜を図るよう言われている以上、それを読み始める大人たち。いや、子供もまたそれを読み始める。
平穏や暇は、娯楽を育てる最大の素養だ。やがて彼らは中毒のようにそれに耽溺していくことだろう。まあ、平穏な間だけだが、これはオォニの仕事足りうる。娯楽を提供する人間だ。
翌朝、私が外に出てのびをすると、どこかよどんだ空が呻くようにひゅるひゅると音を立てていた。
「いやな天気だな」
なんとなく嫌な予感がする。何か、良くない兆しでもあるのだろうか。いや、考えすぎだろう。いくらか天気が悪いくらいで落ち込むセンチメンタリズムは今必要無い。
「あ!昨日の子!!えっと、ハイルくん!」
まだ六十代後半の少女が駆けてきて、私の両肩をむんずと掴んだ。まばゆいばかりに輝くその瞳は私に暗いついて離さない意志を放っている。
「な、なんでしょう」
「昨日のあれ、面白かった!ねえ、アレの他の話ない?」
「新しい本ですか。あ、もし良かったら他の人にもその本貸してあげてください。どこが面白かったか話したりするのも楽しいですよ。ちなみに私は主人公が大きな木と喋る場面が好きです」
「いやー、やっぱりそこは良いよね!主人公の気持ちが定まるの!あ、他の人にも渡すんだったよね。じゃあ渡してきてから話するね!」
それから程なくして、その輪の中に昨日本を貸した二人がやってきて、興奮冷めやらぬといった様子で喋り始めた。もはや私がいる必要は無いだろう。本をまだ読んでいない人に渡すように言って、それからその場をそっと後にした。
作者の部分に、オォニの名を入れた。
それにどれほどの人が気づくだろうか。
娯楽の無い場所に娯楽を放り込む。




