怠惰
私がガルペの集落に到着した頃には、丸々一日が過ぎていた。ガルペの集落は私たちの家同様すきま風の多そうな家屋で、中央には氷の像がいくつか立ち並んでいた。私の住んでいた集落と異なるのは、その家々の扉に釘を一本打ってあって、その釘に布が引っ掛けてあることだ。
布の一枚一枚にはそれぞれ刺繍で縫い取りがしてあって、色々な言葉が連ねてあって不思議にも思える。
私がそんなふうにふらふらとしていると、通りがかった子供たちが私を見つけてびっくりした顔をする。
「うわあ!?子供だ!!」
あなたたちもだと突っ込む間もなく、子供の一人が大人の手を引いてくる。私は妙に緊迫した雰囲気にちょっと圧されながらも、その大人に対して受け取っていた一枚の書状を見せる。彼女はゆらりとすべるようにしゃがみこんで、それからその書状を見てぽてっと首を傾げてみせる。艶など一つも無いようなしぐさだが、その容姿が抜群なだけに妙な色気がある。
「ああ、……ネーナ老のところのお子さんなのね」
彼女は眠たげな目をちょっと開いて、億劫そうに笑ってみせる。愛想笑いの極致のような笑みだが、彼女はそのまま私の頭をもぞもぞとなでた。
「ついていらっしゃい。長老のところに案内してあげるわ」
「あ、ありがとうございます……?」
私は丁寧に礼を言って、それからその後姿を追っていく。彼女の足取りはやはりしゃがみこんだときと同じようにすべるようで、幽霊についていっているような気分にさせられる。
「ここよ。あとは己自身にかかっているわ」
「は、はい……?」
なにがですかと聞き返す前に彼女はまたすべるように立ち去ってしまった。私はなんとなくわけの分からないままだが、結局覚悟を決めてどんどんどん、と三回扉を叩く。この扉を叩く回数は結構きまりがあって、一回かなしだと相当親しい仲、二回だと友人や親戚、集落の中の人は大体それだ。見も知らぬ人は三回ドアを叩く。
ぎぃ、と重たく湿った音を立てながら扉が開く。
「客人か」
しわがれた声が奥から響く。何かを燃やしたような灰っぽい匂いが漂っていて、ひどく不思議な気分になった。香木とも違う、ネーナ様のところとは全く異なる男らしいにおいがする。
いかめしく、ぞわりとした空気をまとった老人が向こうに座っている。若いころにはおそらくきりりとした気迫のある男前だったのだろうとうかがえる顔立ちをしており、皺の一つ一つにいくつの歴史が刻まれているのか分からない。いったい幾つなのだろうかと不思議にすら思える。クラスヴには豪華さなど一切見られない文様が織り込まれていて、ひどく不思議に見えた。クラスヴを織るときにはそれこそ家の歴史などを丁寧に織り込むはずだ。
「名を名乗れ、同胞よ」
「は、はい。ハイル・クェンと申します」
「そうか。ネーナのところから使いが来ておったが、そうとう慌てていたぞ。戻ることができたのは幸いだったな」
「はい」
「さて。お前にはひとつこの村でとあることをやってもらう」
「……は、一体なにをでしょうか?」
「とある男の性根をひとつ叩きなおすこと。これが出来れば、この村から出ることを許そう」
私はいっそぽかんとした。
「あのう、ひとつ訊ねても?」
「ああ、かまわないが?」
「……この、四つの村を訪れよというのは、どういうことなのでしょうか……?」
む、と相手はびっくりしたように私を見ると、それからニヤリとあくどそうに笑った。なまじ顔立ちが整っているがゆえに、その迫力がすごい。
「何も言わずに放り出すとはさすがネーナ。あの悪たれが長老に決まったと聞いたときはひやひやしたものだが、なかなかどうして肝の据わった子供を放り込んでくるようだ」
「はあ……?」
話の行方が全く見えず、私は首を傾げた。
「ああ、すまぬ。そもそもこの儀式はなんだったか、だな。とても十一の子供がするものではなくおおよそは初めの村に着く前に大人が保護するものだが、初めて外の世界を誰にも頼らずに体験するというのは、なかなか厳しいものでな」
「……あー、え、ええっと」
「よもや本当に来るとはおもわなんだ。だが来てしまった以上、村でなにか一つさせねばならないというのが、この儀式のならわしでな。これを終えたものは未だおらんが、まあ、ネーナのところのおぬしならばな」
どうもネーナ様は反抗期のときに何かしらやらかしているらしい。別の集落の人にすら伝わっているのだ。私はちょっと苦笑いして、それからその任務を請け負うことに決めた。
まずもって人の心を根本から変えることは難しい。その男の名前と容姿(残念なことに私にはほとんど区別がつかない)と家を教わり、それからその近所の人に根回ししてもらった。近所の子供たちは私をうずうずしながら見ていたが、やはりわたしのことを撫でくり回したかったようだ。
男の名前はオォニ・リシュフィン。この近辺はフュシュフィ語のほうが高い影響力を持っているので名づけにはおもにフュシュフィ語が用いられるらしい。日常会話は北方で用いられるスパシュイナ語だが、シハーナ国民との取引上やはりフュシュフィ語の名前がついていたほうが有利になるそうだ。
その容姿はなかなか整っているらしい、とはいえ美形ぞろいのスニェーにおいて、ということを考えると相当だ。だがどちらかといえば女よりの気性をしていて、戦うのが苦手だという。しかし特に得手としていることもなく、彼は村の仕事から逃げてばかりいて困るのだという。
戦士の道に進んだが、中途半端。商売の渡りをつける交渉人にしてみたが失敗。採集に混ぜても途中で飽きてしまって、とうとう女たちの仕事にも混ぜてみたが、そこそこやったらあとは投げ出してしまう。体温を保つことには成功しているのだが、まったくもってそれ以上の成果を見せることも無く、あまりに遠出をすると暑さで倒れてしまうのだという。
「なるほど。ニーへくんだりに出て行くと、焼死するんですね」
「そんなところ、あいつにゃむかないわよ」
唯一の家族であるヘフィー・リシュフィンは唇を尖らして怒りをあらわにする。長い白髪を編みこんでいるその姿は非常に可憐といわざるをえない。パッチリした二重の目に、形のいい唇が感情豊かに微笑んだり怒ったりと忙しそうである。きゅっとくびれた腰、細い手足。少女というものの理想を体現したような見た目であり、さらさらした前髪は眉の下でぱっつんに切られている。
「飽き性なのよねえ。ほら、ここって何にも面白いことが無いじゃない?ここ数十年代わり映えしない毎日だし」
「それこそ貴重なものでしょうに。私のところは色々ありすぎて、正直もう少し静かにして欲しいという気持ちではありますが」
「でっしょー!なのに夢うつつで冒険に出たいとか、馬鹿なんじゃないの、って思うんだけどね」
「気もそぞろ、と」
私は憤慨しているヘフィーを丁寧になだめ、それから何か好きなことが無いか聞きだしてみることにした。
「好きなこと?えーっとね、よく分からないわ。ずっとぼんやりしてたし」
「ぼんやり……」
家族からの酷評にちょっとだけめまいがした。それはもはや彼の性質だと諦めるしかないのではないだろうか。ぼんやりして気もそぞろ、夢見がちな男が仕事にもつかずふらふらとしている。何かやっても長続きしない、と。
「……困りましたね」
「そうなのよね。私もう結婚も決まってるから、一年以内には何とかならないかしら」
「い、一年ですか」
結構長いと思ったのだが、彼女は「あっという間じゃない。期間が短すぎるかしら?」と首を傾げた。
「いえ、いえいえ、大丈夫です。何とかなるときは何とかします。無理そうなら謝ります」
「そうお?私はもう何とかしてみるって聞けただけで十分よ。あなたもちっちゃいのに大変よね。あーあ、子供が欲しいなあ」
私のことをニコニコしながら撫でている少女は、ひどく楽しげである。私もなんだかここ最近の怒涛の日々を思い出してちょっと疲れが出たのか、あくびを漏らした。そんなゆったりとした時間が流れるところに突然闖入者が現れた。
「ヘフィー!!ってお前さっきの子供じゃないか!?こんなところで一体何をやってるんだッ!!」
「あれ?…………ああ、そっか。あなたがオォニさんだったんですね」
息を荒げ、というには疲弊しすぎている様の男。確かに振りきってきたはずの男の顔立ちは見事なまでに整っているが、やはりどこか王子様然としている感じはある。私は今までの会話を思い出して、ポンと手を打った。
先日の会話は嘘だったのだ。いや、もともと自分の今の宙ぶらりんの状態を恥じているからこそ彼は嘘をついて、見も知らぬ他者に見栄をはって見せた。ただ、彼の想像の埒外だったのはその他者が私のように彼の地元に用があったというところだろうか。
「クソッ」
彼はそう呟いて、それから息を吐き出してどかりと敷物の上に無作法に座った。じろりと私をねめつけると、懐に手を伸ばしてポケットから葉巻のような、ラウスクを取り出した。葉巻というよりはただの枝だが、その煙を吸っている老人は多い。主にうさを晴らすという用途らしいが、若いときからそれを吸う人間は結構少ないはずだ。
「ちょっと!ラウスクは煙くて嫌いだから、吸わないでって言ったでしょ!」
ヘフィーがそういって睨み付けると、そのラウスクをきまり悪そうに懐へ戻す。
「んで。俺の家に何のようだよ」
「いえ、長老にあなたの性根を叩き直すようにと言われましたので」
「あぁん?」
私はにっこり笑って見せた。彼は違和感を覚えたような、変なものを見るような目で私を見ていたが、ヘフィーがそれに補足をした。
「ネーナさんのところのお子さんの、生の儀式よ。この子、すごく珍しく無事にこの集落にたどり着いて、長老のところに行ったのよね。そこでオォニ兄さんをひっぱたいて性根を直してほしいと言われたらしいの」
「と、いうことです」
とはいえ、だ。あそこまで軽快に嘘をついて見せると、ものすごく変な気分になる。まるで何か見世物を見ているようなものだから、私はちょっと驚いてしまったのだ。目の前の今の男とは似ても似つかない人間を演じきっていたのだ。
「いちおう宣言しておくぞ。俺は変わらねえからな」
だからどうしてもあの弱そうな男のイメージが先行して、私はちょっと凄んで見せているその姿に笑ってしまいそうになる。一体どれが彼の顔なのか分からなかった。それだけに、やけに彼のやる気がない態度に引っかかりを受ける。
何がしたいのかわからない。
たぶん、彼自身も自分のしたいことが分かっていない。得意なことが無いと思っていて、彼自身を持て余しているからこそだ。
彼の性根を叩きなおすというよりは、彼の居場所を見つけることが私のすべきことである。オォニ・リシュフィンはまったく別のキャラクターを演じることが得意、というのは分かった。二重人格の類ではなさそうだ。私のことを分かっていたし、何よりどのオォニが本当のオォニなのかは彼自身も分かっていないのだろう。つまり、自分自身が未分化なんだと思われる。
自分自身の知覚は社会活動を通して行われることが多い――とはいえ、彼の現状から考えて無理やり関わりを持たせることは悪い方向につながるのではと思われる。ここはなにか別の手を……と考え込んだところで、ふと思いつく。
彼の才能は、芸術方面に関してはどうだろうか、と。
基本的にスニェーの人々は毎日をゆったりと生きている。忙しなく毎日を生きながらさらに娯楽を求める人々とは異なり、安穏とした日々を好む。それが保たれるのは彼らが狩りという烈しい命のやり取りを男女関わらず行うからだ。あまり男女の体格差があるわけではない我々にとっては、性差はちょっとしたものであり、それに従ってジェンダー、社会的性差もあまり無い。狩りの班が不在のときにも迷いこんできた獣を村の衆で取り囲んで殺すなんて朝飯前である。
基本的に丁寧に、ちまちまとした暮らしに大きな芸術の要素は入り込まない。だが前世を考えてみれば、このようなテルシュであっても芸術品のような扱いを受けたこともあったはずだ。
彼はもしかすると、創造するタイプの人間であり、ただ静かに日々を積み重ねることを倦厭しているだけのような気もする。物は試しだと鞄の中をまさぐると、ポルヴォルから手渡された紙束が手に触れる。ぐ、と喉もとの鉛を飲み込んで、私は別の紙を探り当てる。
「オォニさん。ひとつ、してもらいたいことがあるんです」
私は怪訝そうな彼の前に紙を十枚と、布で綺麗に巻きつけてあった木炭を引っ張り出して彼の手に押し付けた。
「なんだよ、これは」
「何か、お話を書いてみませんか?」
「お話ぃ?」
「ええ。まあ、息抜きというか、楽しみみたいなものです。突然自分が別の世界に行ってしまったらとか、ある日神話のような不思議な力が使える様になったらとか。色々想像して書いてみるんです」
「…………仕事じゃ、ねえんなら、いいけどよ」
オォニはそう言って紙を手に取り、そしてちょっとの逡巡を経て木炭を紙の上に滑らせた。
あくる朝、彼は私の前に紙を持って現れた。その顔にはくっきりとくまが出来ていたが、とても満足げな、満ち足りた表情をしていた。私は紙を受け取って読み始めた。




