神話
出迎えてくれた女性は、物腰柔らかに私をラグマットの上に招き、座らせてくれた。
「小さくて可愛いわ。懐かしいわねえ、子供がこの集落に生まれたなんて、何年前のことかしら」
「さあ……六十年くらいは生まれていなかったですからね。うちの近くの、ナナキさんのところが最年少でしょう?この間家の前を素っ裸で駆けていきましたよ」
母の言葉に私は瞠目した。
あの十歳ばかりの子供が、六十歳。となると、一体長老は何歳くらいなのだろうか。
「おばばさまはいくつ?私は二歳だよ」
「あらあら、もう自己紹介もできるのね。おばば様は、ネーナという名前よ。年はねえ、そうねえ、ずうっと前に五百を超えたあたりで面倒になってね、数えるのをやめちゃったわ」
アバウトさが酷すぎる。あまりにも大胆な年齢把握だった。
私は若干引きつりそうになりながらも、こう口にした。
「おばば様はすっごく物知りなの?」
「いいえ、でも別の国には、普段ものを書いている石版や木の板よりずっと薄いものに文字を書いてね、それを紐なんかで綴じたりして、『本』っていうのを作ったのがたくさん置いてある場所があるのよ。そこの人たちはすごく物知りなんだそうよ?」
「へえっ」
別の国、という言葉に俄然興味が湧いてきた。
私はすぐさま別の国の話を聞きたがったが、それはまた後日改めてと断られてしまった。
「今日はデュメから子供を本当の意味で授かる日なのよ。デュメのお話は、お母さんたちから聞いたことがあるかしら?」
「ない」
デュメ、とはなんだろうか。神様のことだろうか。私はワクワクしながら膝を抱えてちんまりと座り込んだ。奥に置かれている燭台の火が、ゆらりと不気味に揺れた。
「むかあし、むかし。私のおじいちゃんが子供の時よりずうっと前のこと、この世界は光に満ち溢れている楽園でありました。光とその世界の住人は毎日おいしい果実を口にして、毎日おいしいご馳走を食べました。果実酒も山のようにできていて、陽気に酔っ払う声が山のように聞こえてきたのです。
ところが、光だけがあふれる世界は誰一人死ぬことはなく、誰一人眠ることさえできませんでした。光もだんだんと疲れてきてしまいました。そこで、光は世界の外から闇を少しだけ切り取って、世界に持ち込み、自分だけが眠りにつけるように布団にしてしまったのです。
光が眠りにつくと世界はたちまち闇に包まれ、死や眠りであふれるようになりました。光が気持ちよく目覚めると世界は生や活気で満ち溢れました。こうして世界には、昼と夜ができるようになりました。
ところがだんだんと光が寝ていない間の闇が、心を持ち始めました。そしてだんだんと大きくなり、光に思いを寄せ始めました。ある日光が寝ている間に闇が光と交じり合い、そして混沌が生まれたのです。
混沌はやがて、新たなるこどもたちを生み出しました。それが、今生きている私たちなのですよ」
なるほど、闇は布団であったのに、だんだんと人の心を持ってしまい、光と交じり合った、すなわち光を
愛してしまったのだろう。表裏一体であるがゆえに、そして、無防備なときに最もそばにいるがゆえに。
「けれど、闇のその行動に、光は深く怒りました。そこで、彼を殺してしまおうと持っていた光の剣で彼の心臓を貫きました。その流れる血からは『古のもの』という憎悪に身をやつした凶暴ないきものが、その体からは愛を求める心ができて、混沌はそれを飲み込んでしまいました。混沌は光に愛を求めましたが拒絶され、生み出した子供たちに愛を求めました」
ネーナ様はそう締めくくって、それから私の頭をなでた。
「混沌は、私たちに子供を与えますけれどね、容易に奪ってしまうものでもあるのです。私たちスニェーの民は、子供を大事に大事に育てます。だから、久方ぶりに生まれたあなたのことが愛おしくてたまらないの。だから、決して奪われないようにする儀式を行うのですよ。さて、それでは始めましょうか」
「ぎしき……」
彼女はそう言ってラグマットから立ち上がると、すべるように歩いていって、その背後にあった掛け布を取り払った。なんだか良くわからないグネグネした金属質のオブジェがその中に鎮座していて、私はその全容に首をかしげた。祠と言うのが適切なような、そんな形だった。
「さあ。いらっしゃい」
私はその声につられるようにしてその前に歩み出ると、オブジェの前にひざをついて座るように促された。それから、私の額に枯れた木の枝を押し当てると、かまどから火を取ってきて、そして火鉢の中に一緒に投げ込んだ。
その火を眺めていると、徐々に煙が出てくる。その煙の香りはどこか白檀を思わせつつ、桂皮と丁子の混じったようなかぐわしいにおいだ。ぶつぶつ唱えられている言葉は舌の上で音を転がしているようで、意味もわからないのにひどく耳になじんでいった。
枯れた木の枝は燃え尽きて、そしてその欠片も残さず灰になった。ネーナ様がそれを右の手のひらで掬い上げ、そして左手に移すとそれをひとつまみ、私の額に塗りこめた。そして摩訶不思議な金属の像の前に残りを供える。
「さあ、これがあなたの子供ですよ。その灰を持ち帰って、慈しんでいらっしゃい」
喋ってはならない、と私の頭の中にささやかれた気がした。そして、部屋の中であるのに、隙間風ではなく、突風が吹いた。
がたがたと木で作られた窓が揺れて、次の瞬間留め金がかちりとありえない方向に振り切れ、窓が勢い良く開く。食器棚から木でできた皿が勢い良く吐き出されて、耳障りな音を立てた。ぴしぴしと顔に感じる雪の粒が痛みを与えて、感じないはずの冷たさを感じた。
目も開けていられないほどの中で、うすぼんやりと、私は突風の中に灰色の何かを見た気がした。それは灰を大事そうに抱えると、それから天に勢い良く登って駆けていった。次に瞬きをしたときにはもうその姿はなくなって、顔に髪の毛が襲い掛かってきたので、思わずぎゅっと目を閉じた。
私が目を開けると、部屋の中は惨憺たる有様に変わっていて、木のカップがころんころんと斜め前の壁にへばりついたラグマットから転げ落ちた。この家を巨人が持っておもちゃのように振ったように、全てがめちゃくちゃだ。
「今のが、混沌様よ。あなたの額に枝を当てて匂いを移して、それから木の枝をあなたと勘違いさせて、持って行かせたの。そうでなければ、私たちはすぐさまこの寒さに耐える体を失って、凍り付いて死んでしまうのよ。よく喋らなかったわね、偉い子だわ」
私は初めてこの世界の別な異質さを知った。神話が語ったとおりのことが起きている、しかも、人智を超えたそれが。
私の知らない世界であると言うことに改めて胸が苦しくなって、同時に、私の知らないことで世界があふれていると言うことに心がはやる気がした。
「ネーナ様、私――」
そうは言いかけたが、今の自分の語彙では心のうちを伝えることができそうに無くて、むっと顔をしかめて見せたが、案の定伝わることは無くて、私はネーナ様に抱き上げられた。
「心配することは無いわ。あなたが無事に儀式を終えて、今、やっとスニェーの一族に迎えられたのですもの。また混沌が来ても、あなたのことは守ってあげるわ」
デュメにおびえているのではなかった、と言いたかったが、神がいて、先ほどその猛威を目の当たりにした身としては、おびえていないとは断言できなかった。
素直にネーナの体に抱かれると、母と似た料理の香りと、それから強い毛皮をなめす薬剤の匂いと、父に似た獣の匂いが少しばかりした。
今生の私にはひどく安心できる香りであって、私は欲求にしたがって素直に目を閉じた。
目を覚ませば、全く何もかもが前と同じだった。多少めまいはしたが、これくらいは全く問題が無いくらいの不調だった。
「あら、ハイルおはよう。気分はどう?」
「うん、おはよう……ねむい」
「あらあら。起きなくっちゃだめよ、ハイル。さあ、いらっしゃい。顔を洗いましょうね」
雪を掬い取って目元をぬぐえば、母の目元はわずかに赤みがかっている。
「おかあさん、ないたの?」
「あら、うふふ。いえ、そうね、泣いたわ。ハイルがデュメに取られてしまうんじゃあないかと思っていたけれど、心配じゃなくなって、嬉しくって泣いたの。わかるかしら?……いつか、わかる日が来るわ」
「う、うん。えっと、あのね、おかあさん。今日もネーナ様のところ、行っていい?」
「あら。怖い目にあったでしょうに」
「でも、かみさまのお話とか、外の国のこととか、聞きたいと思って……」
ふと、母の目が寂しそうにしているのがわかって、私が不思議に思って母を見上げると、彼女は私の横にしゃがみこんだ。どこか痛みをこらえるような表情に、私は少しばかり自分がネーナのところに行きたいと言ったことを後悔した。
「お母さんは、あなたが幸せに生きてくれればそれでいいと思うわ。でも、ひとつだけ約束してほしいの。三十歳までは、ここにいると約束してほしいの」
「さんじゅう……?」
その数字には、何か意味があるのだろうか。
「あなたは私たちとは生きる時間が違う。いいえ、速さが違うの。あなたはこの狭い村を、三十年かけてちゃんと知って。そして、必ずあなたがここに帰ってくる場所にしてちょうだい。……今はまだ、わからないかもしれないけれど」
ふと、前世の情景をわずかばかり思い出した。あまたの景色を目にしていた『私』が前世のことをうろ覚えであるのは、元の世界を帰る場所だと魂が認識していないからではないだろうか、と。
母は私に忠告しているのだ、魂のふるさとを作るべきだ、と。
人の一生を経てもまだなお押しかたまらなかった私自身の土台を形作り、そして旅と言う知見でそのキャンパスを塗り重ね、一枚の絵を完成させることを、人生と呼ぶのだろう。人によって絵の具はさまざまで、それが私にとって、おそらくは、旅と言う行為だ。
けれどキャンバスがなかったら、色を塗ることさえできない。
私の前世は下地にすらなれなかった。
転生して、前世の知識を思い出すことはあれど、前世自体の記憶や風景を懐かしく思うことは無かった。
「わかった。三十まで、ここにいる」
母はその言葉に綺麗に笑みをこぼした。私が親の言うことだけを素直に聞いているのだと思っているのだろう、どこか寂しげな笑みでもあった。けれど、私は心底母に安心してほしいと思った。
「ぜったいのやくそく、ね!」
驚いたような顔に、私ははじけるように笑みを返した。母は今度こそにっこりと微笑み、「ええ」といって、「ぜったいのやくそくよ」と私の頭をなでた。
家に戻ると、父もまた目じりを赤くさせていたが、酒の匂いがつんとした。
「やだ、お父さんったら。飲みすぎよ」
「はは、ついついな。ハイルがまだここにいることが嬉しくってならないんだ」
「だとしても、よ。今朝は夜明けごろまでずうっと飲んでいたらしいじゃないの。全く、しょうがない人ね」
つん、と母がそっぽを向くと、えもいわれぬ色気が漂うが、父はそれを意にも介さないでちょっとだけ笑って、それから私の背中をとんとんとたたいた。
「いや、ね。やはり、嬉しいものだよ。俺はデュメ様のことは嫌いではなかったけれど、ハイルの横を通り過ぎていくとき、ぞっとしたんだ。ああ、俺の父と母はこのような怖さを乗り越えていたんだとね。心底ハイルがここにいてよかったと、そう思ってさ。すまない」
「全く。調子がいいんだから」
それでも母の声音に怒ったような色はもう見られなかった。しかし父は翌日も懲りずにぐいぐいと杯をあけてきたようで、母が翌朝つんと怒っていてひどく笑いを誘った。
デュメから逃れた子供たちは、両親から文字を習い始める。今までも私は父と母に習っていたからそれなりに習得していたが、この国――初めて聞いたがデザアル国と言うらしい――では、三つの公用語があるそうだ。
今私が喋っているのは北部で主に使われるスパシュイナ語と呼ばれるもの。交易都市の集まる中東部ではテットト語が用いられており、そして最もこの国で使用頻度が高いのが、シハーナ宗主国で使われるフュシュフィ語である。
フュシュフィ語は歯の間から音が抜けるのを利用して喋るが、歯をむき出しにして喋ったり笑ったりすることがシハーナ宗主国では忌まれており、そのためその国の人々は大体口元にヴェールをひらひらさせているという。そしてヴェールの習慣が無いこちらもフュシュフィ語を喋るときには口元を手で覆うか布で覆うかしなければならないという。
なかなかに面倒な決まりなので、フュシュフィ語で話しかけられてもたいていの人間はスパシュイナ語かテットト語で返答する人が多いらしい。
ちなみにシハーナ宗主国に住む主な種族は頭と手のみが存在し、その下は全てもやか、それに似た炎のような姿であり、愛を交わしたり子供を成すときに口を使用するため、そのような決まりが生まれたのだということを後々知ることになる。
慣れない言語とその音の聞き取りなどに悪戦苦闘しながら、私は文字の読み書きに延々と取り組んだ。
そもそも神という名称を使っていいものなのかどうか。超越的な存在を論じるにはどうしたらいいのか。神話と書きましたがしっくり行きません。作中では語り手のハイル以外ではこれらの存在を神とは呼称せずにいきたいと思います。