爆発
グロちょいあり。
私は数日をゆうにその屋敷ですごし、ポルヴォルにいくつか素描を教わった。鉛筆と言う便利なものは存在せず、木炭を布で巻いてチョークのように動かし絵を描く。いつか鉛筆を再現したいとも思うが、黒鉛は黒鉛だけで固まらない。何を混ぜるとか結局覚えていないので、不便を感じたら考えることにしよう。
それはひどく汚れる作業で、木炭を触りっぱなしの私の手は幾度か来ている衣装すら汚してしまった。けれど筋がいいと言われ、風景の模写をするのもいいと教えられ庭に数度出ては色々と書き殴ってみた。見たものを見たまま表現するというのは難しいことであり、やはり富裕層に許されたものなのだと感じた。七日目を目前に手渡された絵には私の姿が綺麗に色絵の具で塗られていた。全体がほの暗く、だが私自身が浮き上がっているような絵であり、月光を浴びて窓の付近で長いすの上に座っている姿だった。
細く柔そうな手が布をつまみ、しどけなく赤くびろうどの布がはられた長椅子に寄りかかり座っている。あえかな息遣いすら聞こえてきそうな絵であったが、それでもなお私を表現できているとはいえないとフィズは言ってのけた。髪には偏光をもたせた絵の具すら使っているのに、それでもなお艶めきを表現しきれていないのだとか、目が一番美しいのにそれを表現しきるには足りていないのだとぶちぶち呟きながらも、それでもこれが今一番上手くかけたものだからと私にそれをくれたようだ。グリューのほうはべそべそ泣きながら何も渡せないことを謝ってきたが、そもそもそこまでされるいわれはないような。
私は精一杯謝意を伝え、約束の七日目の朝に門の方へと案内されていた。
「この庭ともお別れですね。あ、そうだ……温室によっていっても?」
「ええ、構いませんよ」
この時私はあの肥った男に何を言おうか考えていて、全く彼がどうなってしまうかなんて考えていなかった。かさりと足元の土に混じっていた枯葉が足元で音を立てる。季節はずれの花々が咲き誇るその温室の中は前に入ったときよりひどくムッとしていて、花の臭いのなかに甘く気持ち悪い、吐き気を催す臭いが混じり混んでいた。
嫌な予感がした。この臭いは、何処かで嗅いだことがある。私はくらくらする頭を一、二度強く振ってそれからあたりを見回し、とうとう彼を見つけてしまった。
「な……」
私は声がでなかった。花の強烈な臭いが襲ってくるように感じてめまいがした。ゆらゆらと揺れる姿は、確かに数日前まで私と話していたあの朴訥そうな男だった。
元の顔より大きく紫色に膨れ上がっていて、そして口の端から泡立ったよだれがこぼれている。尿と便が臭気を放っているのに、全く分からないほど花のにおいでむせ返っていた。
首を鎖骨の上に乗った肉の上にめり込ませてうつむき、そして苦しんだのか、ロープを引っかいたためにできたような爪の剥がれ。
私が原因だ、とすぐに分かった。
「げっ……う、あ、おえっ!」
「……す、すみません!直ちに人を呼んで参ります。あなたは外へ!」
死臭に染まった空気から吐き出されるように転がりでて、私は涙目のままえずいた。ああ、なんて短慮だったのだろう。涙がにじみ出てくる。なぜ私はあんなことを言ってしまったのだろう。人生ひとつぶん学んで、まだ学び足りないとでも言うのか。この人殺し。
ふらりと現れた旅人が、お前の病気の原理をよく知りながらそれでも治せないと口にした。今まで的はずれなことをやって来たのだとしたら、彼はどうしようもなく絶望したことだろう。
涙が自然に転がり落ちて、粒となる。ぼたぼたと落ちて、地面に染みをいくつも作る。
私が間抜けにすぎた。ただそれだけだった。
ひくひくと喉が上下し、自らへの嫌悪にひどく頭痛がした。
「……何事だ!」
「ポルヴォル様……実は」
「――なに?」
私は善良な彼らから責められる事を覚悟した。いや、どちらかといえば責められなければ気がすまないとも思っていた。私は私の重荷をそれによって軽くすることが出来るのだと、そう思っていたからだ。
私に近づいてくるその足音にぎゅっと目をつぶった。そのひょうしに一粒涙が零れ落ちる。
「大丈夫か?」
「わ、私が悪いのです。私が……その病気の治し方を知らないと言ったから」
「それは違う。おい、手記をもってこい」
「はっ」
くせのないスパシュイナ語で書かれた手記は、朴訥な男のものだという。その冒頭にはこう記されていた。
『私が死んだ後の植物の世話の方法を詳細に記録しておきます。曲がりなりにもお家の庭を任されて来ましたが、私はどう見積もっても残りの命が季節一巡りほどしかもたないようなのです。ですからお客人の言葉は私の死に関係ございません。私は自らの意志によって死んだのです。お客人はいつかこの病気を治すことが出来ると信じて、私から一冊本を託します』
「こちらをどうぞ」
文章を読み終わった直後に手渡されたのは、分厚い紙の束だった。それは丁寧なイラストが付け加えられ、特徴や分類を事細かに書き記しているものだった。
「……なぜ」
震えるほどその束は重たい。その一つ一つが、彼の持つ知識だった。ニーへの図書館にある知識ですら、ここまでの物は無いだろう。細密画の技術はこの場所でなければ身につかない。
「なぜ、というまでもないだろう。こいつはお前に、お前自身の知識にそれを託したのだ。お前が受け取らなければこれは知識としての用を為さない美術品に成り下がる。それは芸術にとっては単なる一ページだが、世界の知識にとっては大きな進歩をもたらす」
自分とは縁遠いような植物のことをわざわざ知ろうとする人は、この世界には少ない。その辺の雑草なら抜いて終わり。仮にニーへであっても、このような図を用いるよりは文章にて特徴を表現するほうがより分かりやすい。絵を修めた人はそういう仕事があるとわからず、芸術性にのみ金を支払う強大なパトロンを求め続ける。
「ですが、彼が死んだのは……やはり私に責があります」
「そうか。まあ、多少は認めよう。だが、そのことでお前を責めるつもりは毛頭ない。なぜなら彼はこの家の人間を愛しているからだ。彼は愛のために、周囲のために死んだのだからな。お前の言葉はただの階段のひとつだ。その階段の一番上から突き落とさせたのはあくまで我々プラスティアーゾを治めるロスティリの家だ」
だとしても。
もっとやりようはあったはずだ。彼自身の『力』をどうにか出来ていれば、私は彼を救うことが出来た。
なんと、なんと無力なことか。この小さな体と手が恨めしい。前世の記憶などもってさかしらぶっても、結局私が生きているのは前世の理外の異世界だ。
「……ええ。そう、なんでしょうね。ですが、私は彼を忘れることは出来ないでしょう」
フィロー・デスタゥがその友を殺したときには、私には何の責任も無かった。殺された男は共同体へ不利益をもたらし、そして村を壊しかけていた。
今回のこれは、違う。
オジールカという男は何の罪も持たなかった。ただそこへ追いやった一言は、必ず私に原因がある。
はじめて死に加担したのだ。
それから丁寧に礼を述べて屋敷を去った。オジールカの死は屋敷を騒がせたが、それでも彼らは日常の中にいるようだった。彼らはもともと知っていたのだろう。オジールカはもうそんなに長くは生きられないことを。けれど死に方がまるで違うというのに、彼らは動揺するよりも、オジールカをたたえた。自ら命を絶つことを正しい選択だとしたのだ。階段を昇らせていたはずなのに、彼自身だけがその死に関与しているような様に、心が痛かった。
ほんの少しでも彼は生きていて欲しいと泣きじゃくられることを望んでいたかもしれないのに。
けれど、彼は死んでしまった。そのほんの少しの願いがあったのかどうか、語る口は閉ざされた。
彼がこの温室で死んだのは、少なくとも幸せに包まれて死にたかったからなのだろうか。死体は雄弁ということは聞いたことがある、けれど、今後どうしたって彼からその気持ちを聞くことは永遠にできないのだ。
いつか。
いつか彼のような人間に、自信をもって治してあげられると言えればいい、今度は嘘偽りなく、自分自身の力でもって。
町からでてしばらくは暑さを感じていたが、地図の通りに歩いていけば北側に行くことができた。ひとまず自分の知っている寒さに到達してホッとする。ちなみにだが、私が走破したのはかなりの距離だ。いったいこの体の燃費はどうなっているのか気になるところではある。
ここ数日の美食にたいしてそれでもなお野生を失わなかった味覚はその辺でとらえてきたネズミっぽい小動物にたいしても喜んだ。このネズミ、地元では名前を聞いたこともない見た目であり、サテンのような手触りをした毛皮とつぶれた豚みたいな鼻と赤い爪が特徴的な、妙な生き物だった。
肉は固く野手に富んでいて、羊の肉に少しにている。だが塩をふって焼けばまあ大体はなんでも食えるものである。死後硬直が解けるまでの時間放っておくと間違いなく凍ってしまうので、先に火を起こしておく。
ぱちぱちと弾ける赤い色を見ていると、なんだか妙に自罰的な気分になってくる。テルシュが焦げないよう脱いだまま肉を焼き終わってかじり、残ったぶんは明日と思っていると、遠くの方から足音が聞こえてきて思わず身を固めた。
手元の小刀に手を伸ばし、テルシュを顔に被って警戒する。不規則な足音だが、二足歩行のようだ。私は静かにその姿をうかがって、それからほっと嘆息した。
「スニェーの民ですか!」
相手も間抜けっぽくテルシュを頭にぐるぐる巻いていた辺り、どうも警戒していたらしい。一応自分のテルシュを剥ぎ取ると、相手も苦笑しながらそれを取った。見慣れぬ色彩の羅列から、どうも集落が違うと色の違いがあるらしいと察する。
「こんばんは、どうも」
「君のような小さな子供がここにいるとは思わなかった。いや、まさか同胞だとも思っていなかったから」
「はあどうも。それで、あなたはなぜこの場所に?」
「ああ、うん。狩りをする人たちが古のものに襲われて、八方命からがら逃げてきたところさ」
はあ、と芝居っ気たっぷりに身ぶり手振りを添えて、彼は悲しげに目を伏せた。
どことなくいたずらっぽく、それでいてキリッとした風の姿はまさしく役者のような立ち居振舞いだ。どこぞで習ったのだろうかと不思議に思う。
「僕はこう見えて街暮らしでね。旅人には選ばれなかったが、それでも優秀であることには間違いないんだよ」
胸を自慢げにそらせると、彼はばっと手を広げた。……なんというか、残念な臭いがする。父のように。
「ところで君はなぜこんな場所に?」
「さあ、なりゆきで。あ、そうだ。それなら一つ聞きたいことがあるんですが」
「なんだい?何でも答えてあげようじゃないか」
「ガルペの集落って、どこにあります?」
それをたずねた瞬間、男はぎくんと面白いように身をこわばらせる。心当たりがあるようにしか思えないが、彼は首を横に振る。ギクシャクした動きに知っているなと思いつつ、「あ、村だ」と口走る。
彼の顔がばっとある方向に向いた。私はにっこり笑って、「知ってましたね?」と彼を下からねめつける。
「……い、いやあ。村には行かないほうが良いんじゃないかな」
「いえ、用事がありますので」
「行かないほうが良いんじゃないかな」
わたしの腕を掴んで引きつった笑顔のまま足を踏ん張る彼だが、妙にその体は軽い。おそらくは重心が高いことも関係しているのだが、一番は筋力というものが感じられない。だいたいこの体は多少子供が走り回る程度のことでは疲れない。だから疲弊するまでさんざ広場を走り回らされたというわけだ。それは『力』分のブーストを振り切った負荷が筋力の増強には必要だからだ。
少なくとも、目の前の男は私よりもそういう点で弱いと思うのだが、どうあっても彼はガルペの集落には行かせたくないらしい。私はふう、と息を吐いた。
「仕方がありませんね」
その足をちょんと払い、そしてわけも分からないまま横向きに倒れこみそうな体を受け止めて雪の上に横たえる。
「ガルペに用事があるので、失礼しますね」
「ちょっ、」
私を引き止める言葉が聞こえたような気もするが、それをあえて無視して力強く走り始めた。




