誕生
ファンタジー定期的に書きたくなる病気にかかっています、あじふらいです。
なんか構想の時点で大長編になりましたが頑張って書ききります。
暗い、暗い、光も差さぬ海底が、ちょうど今のような場所なのだろう。私はゆらゆらと体を浮かせたまま、あたりの様子を探ってみる。だがしかし何も分からない。あるのはぼんやりとした感覚と、眼前を覆う暗闇のみだ。
水が体を通り抜け、呼吸も必要ないこの場所は、なかなかに不可思議なものだった。一体何が起こっているのだろうと興味を持ち、あたりを見回し周りに触れてみたが、どうも視力がよろしくないし体の操作がうまくいかない。
ようやく触れた周りは妙に硬く、私自身が萎えた体で壁をたたいているような気分だった。
閉じ込められたにしては、私自身が妙に落ち着いていると言うのもあった。なんと言うか、ここから出ようとか言う焦りが全く起こらないのだ。気持ち悪いくらいに思えたが、今はまだ出られないし、腹も減らない。かまわないか、と思っていた。
はて、とそうしているうちに思う。
この、私、とはどこの誰で、何をしている人間だったのだろうか、と。
それなりに頭を働かせてはみたのだが、結果から言えば、何一つ『私』に関する細かいことは思い出すことができなかった。たとえば名前、たとえば性別、その住まい、職業、年齢にいたるまで、ほぼ思い出すことができなかった。
覚えているのは日本語とちょっとした他言語と、それから住環境を満たしていたありとあらゆるもの。車や冷蔵庫、都会を覆うビルの群れ。海やその外の国にある美しい街並み。旅行と言うものをかなり頻繁に行っていたのだろう、たしかに故郷と呼べる場所は日本と言う場所だろうが、記憶の中からはたくさんの異文化を感じる。
細かいところまではっきりと覚えているわけではない知識はあれども、それをいついかなる用で習得したのかは定かではなかった。
ただ、興味と好奇心がやけに強く、妙に状況に対して適応力がある私のこの性質は、おそらく前世のものだろう。そうでなければ赤子特有の適切な態度だろうか。興味とは学習において最も重要視されるものであるから、結論は両方としておこう。
そうこうして日々をすごしていたのだが、ある日突然ここを出なければ、という焦燥が心をちりちりと熱し始めた。壁の中、私は体を包む液体に翻弄されてふらふらと揺れ動く。あ、まずい、と頭の中で何かが動転する。
がぼっ、という音が聞こえた気がした。周りは瞬く間にざざあ、という雑音で満ち溢れた。
そして、私はようやく今までの状況に整理がつくこととなった。
何か拘束から抜け出たような感覚と同時に無重力に投げ出された感覚がして、直後がしゃんともばりんともつかない全身を震わせるような破壊音に包まれると、吹き寄せる風に自分がぬれていることに気づいた。気管にでも入り込んでいたのだろう液体を咳き込むように吐き出して、苦痛のうめきと泣き声が私の喉から搾り出される。
あまりに重力に弱い小さな手足。自分と言う輪郭がはっきり外界に触れてようやく明らかになったその事実に、私はすっかり混乱していた。大人であったという感覚があったから余計にびっくりしてしまって、赤子のごとく――実際に赤子ではあるのだが――泣きじゃくっていた。
何か特別な力を持っていたとか、女神様に会ったとか、特別な使命を持っているとか、そういうことは一切無い。
ただ、前とは明らかに異なる世界に生まれ変わっていたのである。
壁だと思っていたのは殻であり、つまり硬い殻で覆われている卵を母が産み落とし、それと同時に誕生したのだ。産卵と同時に出産し、孵化する。私の知っている知識には少なくとも、前世の人類ことホモ・サピエンスは卵で生まれた記録は無い。
つまり、ここはまごう事なき異世界である、と言うのが私の持論だった。
それからしばらくは、ただ授乳されて母の手によりオムツ代わりの布を変えられるのだが、母の体には違和感があった。
冷たい、と感じるのに温かいと思えるのだ。いや、皮膚は確かに冷たいのだろう。冷気を発している。ただ、私がそれを温かいと感じるのだ。
人が、冷気を発しているのだ。愕然としながら目をかっと開いて、起き上がろうと手を伸ばすと、母はすっと指先を差し出してきた。
「あ?あう?」
ぺちぺちともみじのような小さな手で彼女の手を叩くと、ぼやけた視界の中、母が笑み崩れた。
「ハイル、ラストゥーレニャ!」
「ハイル?ィルゥ トラストゥーレ?ハーィ!」
父親と思しき人物も私に対して輝かんばかりの笑みを向けているのだが、とりあえず、彼らはひどく楽しげで、私も釣られて両手をあげたり、這ったりしていた。
こんなにも無邪気でいられるのは、おそらく前世の『人として生きてきた』つまり成長の証と言うものがあまりはっきりと覚えていないからだろう。ただ、人格だけは妙に達観していてちぐはぐだ。人としてこの先やっていけるのかどうか、我が事ながら心配である。
ものの数ヶ月ほどで言葉をおぼろげながら系統立てることができた。きっとこれは間違いなく名前だろうというのが、『ハイル』。何度も呼ばれていれば、さすがにわかる。母も父もにまにまと笑っていて、大変楽しげだ。
発することばはほとんど変わりが無いが、興味を示して仰ぎ見たり、母や父のすねを叩いて見上げてみれば、父母もまたその物の名前を教えてくれた。
そう、目が良く見えるようになったのは生まれてから一ヶ月位してからだったのだが、最も驚いたのは、父も母も、まだ十代の若者のようなしなやかな美しさをたたえた、輝く白髪に白皙の美男美女だったことだ。
中性的な美しさを持つ父はそのまま少年をかたどったビスクドールが動いているかのようであり、母はまさしく絵画の中から抜け出たような、そんな玲瓏な雰囲気をまとっていた。
一度水場を覗いたとき、私の顔を見ることができたが、両親から生まれるにふさわしい、玉のような子供だった。ナルキッソスではないが、水面を見て自分の成長を確かめるのが楽しく思えるくらいには美しい。
そしてその美しさに関連することだ。
おそらく人間ではない、と言うのが私の結論だった。
なぜか寒さに対して異様に耐性が高く、かわりに暑いのが苦手である。たとえば家、外が吹き荒ぶ風雪に覆われている。家の壁にはざらりとした土が使われているが、窓などの所から容赦なく風が吹き込む、日本であれば信じられない設計になっていた。。これはわざとで、風が吹き込んでもいささか涼しいな、位にしか思わない。
さらに体からは冷気を発しているのだ、確かに人ではありえない。
家の中に暖炉はあることにはあるが、調理と服の乾燥以外には使われない。料理もまた作った後に冷ましてから食べる。冷えかけが熱々という変な気分になる食生活である。
衣服は、民族衣装のような幾何学模様や鳥、角の生えた鹿の模様が織り込まれた大きなフリンジのついた奇抜な色の布を首や肩に巻き、そして、下には真っ黒な袖つきの貫頭衣に、これまた極彩色の帯を締める。これを一揃いで、狩衣装――『クラスヴ』という。
狩りの際、雪の中で仲間を見失わないように。そして、弓などの誤射をしないようにするためだと父親に教わった。まだとても小さな私の体にはそのフリンジの布だけが巻かれている。
この布はテルシュといって、女性が嫁ぐときには母親から織り方を教わって作る。毛糸やその染めなどはほとんど外の商人に委託しているため、テルシュとそれについてくる帯だけは高級品だ。
風呂は、三日に一度瓶の水を沸かして、ぬるめのお湯で体を拭う。髪も同時に洗う。だが、ぬるめのお湯は熱い。風呂というものに日常的に入っていた私はあまり気にしていなかったが、汚れが落ちる分いささか熱いため、風呂を嫌がった半裸の子供が、私のいる家の軒先を叫びながら夜に走り抜けていく光景がたまにあった。
穀物は、この辺では取れないらしく村の男が外から毛皮や牙と引き換えに買ってくる。
さらっとした甘みの芋は、二チェッカといい、焼くとホクホクとした味がたまらない。これは外からもってくるものだが、寒い中貯蔵すると甘みが増すそうだ。
そして、もう一種類メジャーな穀物は、べべリアといい、細長い三センチくらいの穀物で、木に生るのだという。木からそれを棒で叩き落とす。熟していないものは落ちない。
味は、生だと胡椒のような辛味で、そのまま蒸すと淡白なねっとりしている芋のようになる。ただ、殻をつけたまま乾燥させると、サクサクになって粉にでき、その味はまろやかな味に変わる。
これらは母親と父親の言葉を総合したものだから、また自分で食べてみようと決意した。
言葉もものを見せられながら、徐々に体得していった。紙はないが、石板を引っ張り出してきては白い粉でそこに指で書いていく。どうやら白墨のようなものはないらしい。母音六音から子音二十六音があって、発音はだいたい巻き舌っぽくなる。
紙は高価だったり、希少であったりしてなかなかに手に入らない。たいていは板に蝋を薄く塗りこめて、そこに獣の牙をくくりつけた枝でもってひっかき、跡を残して文字を書くようだ。
そして、排泄。
これは面白いことに、個人での甕があり、その甕の中に一匹の虫が入っている。それが排泄物を糧に生きている。面白いことに発酵もしているからなのか、甕はほんのり暖かい。というかそうでないと虫自体が温度を保てないで死んでしまうからだろう。公衆便所のようなきついくささはないが、やはり臭うといえば臭う。初めてトイレに成功したのは一歳ごろ。這う動作から立って歩けるようになるまでにはもっと時間がかかると思ったのだが、この世界ではそうでもないらしい。
質量保存の法則は何処へやら、その虫が排泄することはなく、全てのし尿がその甕の中で処分されるようだ。完全に気体である二酸化炭素や窒素に分解でもしているのだろうか?いやまずその元素があるかも謎だ。ここは異世界であり物理法則が適合されるとは限らないし、金とか銀とかももしかしたら存在しないかもしれない。
ちなみに虫の全容ははっきり見たことはないが、見たいとは思えなかった。
一歳になるころには、単語だけではあるが喋ることができるようになり、あちらこちら家の中を這いずり回り、興味のあるものをじっと見つめては母親や父親を困らせていた。父親は数日留守にしたかと思えばでかい肉を抱えて帰ってくる。職業は猟師なのだろう。
乳離れを終えたため、そろそろ蒸したべべリアや火を通したニチェッカを良く潰して食べるようになってきた。
匙の上に載せられたそれらを含むと、粘性が思ったより高くむせそうになるが、何とか飲み込む。口の中でねとつくが、甘みがあって美味しいことには変わりない。
「ハイル、美味しい?」
「うん!」
「そう、良かったわ。ちょっと子供らしからぬと思っていたけど、あなたはあなたの生きる速度があるのだものね、あまり気にしないで大きくなりなさい」
「う、うん……?」
ニコニコした両親に囲まれながら、生まれてちょうど二年が過ぎたころで、今日は初めて外に出ることになった。夏の日のことで、私が外へ出ると温かい空気に包まれた。家の中はそうでもなかったが、今はそれなりに暑いと感じる。
さんさんと日が照る中、真っ白い雪原がどこまでも続く。白すぎて目に痛いくらいのその光景に、息を飲んだ。ぽこぽこと雪が盛り上がっているのは、家が埋もれているかららしい。吹き付ける雪に家の周りが覆われるからだそうだ。それでも量が積もらずに吹き飛ばされるため、側面の頑丈さが最も重要なのだと父は得意げに語った。遠くのほうには雪山や、ドーム型の建物が見えた。抱き上げられているから視線がかなり高く、楽しい。
「さて。それじゃあ、長老の家に向かいましょうか」
「そうだな。俺はオババ様のこと、結構苦手なんだよなあ」
「あら、それはあなたの体が弱かったからでしょう。すごくまずい薬を飲まされて、半べそをかいていたじゃない。懐かしいわね」
「うわ、やめろってば!俺だってハイルの前では格好いい父親でいたいんだから、しーっ!」
なんだかんだで父と母は付き合いが長いらしく、子供のころの話まで聞くことができた。大半が母の武勇伝と、父のかわいいエピソードであった。普通は逆だと思うし、この世界の常識でも確かにそうらしい。
「……さて、と。ハイル、今から会う人はね、この集落でも一番長く生きてる人なんだ。私たちと違ってしわくちゃだけど、ちゃんと言うことを聞くようにね」
「わかった!」
長老と言う言葉からすると、摩訶不思議なまじないを使うことのできる、よぼよぼのおじいちゃんやおばあちゃんのようにも思える。未知の人であるからやけに胸がドキドキしていた。
小屋の雪をもそもそと掻き分けるとドアが出てきた。父が扉のふちをてらてらと覆う氷を吹き飛ばしながら勢い良く開くと、その中からは四十がらみの綺麗といっても差し支えない女性がゆったり出てきた。髪も、肌も両親と同じく真っ白で、その目は金の混じりこんだ紫水晶をはめ込んだように輝いていた。鮮やかな紫色のテルシュが良く似合っていて、目じりのしわが大変素敵な人だった。
「あら、いらっしゃい!今日はハイルも一緒なのね。小さくて、とってもかわいいわ。まだ一歳なのでしょう、さあ、上がって!」
「二歳です。お邪魔いたしますわ、長老様」
なんとまあ、これでもしわくちゃと言うらしい。判断基準がどうなっているのか不明だが、よほど短命なのか、それとも若い時代が長いのか。とにもかくにも、私はその家の中に連れ込まれていった。