帰省
一週間後に特攻隊に配属。
そんな慌ただしい中、明雄は帰省を許されて急遽実家へと戻る。
家族との別れの挨拶をしてこいということだ。
「ただいま」
そう言って玄関を開けると、母親が驚いて出てきた。
「明雄!どうしたの?」
「ああ、帰って来た」
「帰って来たって、お前、軍隊は?」
「軍にはまた帰るよ、一時帰省しただけだから」
「そう、なんか追い出されたのかと思ってビックリしたわよ。それより元気そうでよかった」
母は嬉しそうに明雄の身体をポンポンと叩いて言った。
「元気だよ。それより父さんは?」
「今は仕事よ、それより帰ってくるなら帰ってくるで、なんで先に手紙の一つもよこさないの?」
「ごめん、なんか急に帰省が決まって時間がなかった」
「まあ、今日はあんたの好きな惣菜でも拵えようかね、なにがいい?」
「なんでもいいよ。それよりちょっと部屋で休んでていいかな?」
「ああ、ゆっくりと休んでればいい」
「お父さんには、早く帰ってくるように伝えておくから」
そう言って明雄の母は外へと出かけて行った。
明雄は自分の部屋へ入り横になると、ふと文机の端に掛けられた絵馬に目をやった。
それは美沙が奉納した絵馬だった。あの日、神社で拾い上げてから美沙に渡し忘れたままになっていたのだ。
『この絵馬も懐かしいな・・・渡し忘れていたけど、どうしよう・・』
明雄は色々考えるが、結局、渡さないほうがいいという結論に達する。
すでに美沙は忘れているだろうし、なによりも、美沙にとって嫌なことを思い出させるかもしれない。そう思ったのだ。
日暮れになって、母が父と一緒に帰宅する。
「ただいま」
と玄関から両親の声が聞こえ、明雄は出迎えに起き上がる。
ふと縁側の外を見ると、誰もいないはずの美沙の部屋から明かりが漏れていた。
「おかえり、美沙ちゃんの部屋って今誰かいるの?」
明雄は出迎え端に訊いた。
「なんでも美沙ちゃんのお婆さんが空襲で焼け出されて、疎開に来てるって話よ」
そういえば、そんな話を美沙からチラッと聞いた気がしていたが、一条が病院に運ばれてからが慌ただしく、すっかり忘れていたのだ。
「まあ、一杯飲め・・・」
夕飯時に、明雄は父からビールを勧められる。
「俺、まだ未成年・・」
「固いこと言うな・・・」
固辞する明雄のグラスに父は無理やりビールを注いだ。
「一度、自分の息子と酒を飲んでみたかったのだ。この機会を逃したら、次はいつ飲めるかわからんからな」
次と言われて、明雄はドキリとした。自分が次にこの家に戻ることは多分ないのだ。そう考えると、最後の親孝行と思って、明雄は黙って酌を受けた。
初めて口にしたビールは、明雄にとって苦いだけだった。
「それで、ここにはいつまでいられるんだ?」
父が訊く。
「明日の朝には帰るよ」
「そんなすぐにか・・・」
「すぐ配属先へ向かう準備があるから・・・」
「配属先が決まったのか・・・・場所は?」
「鹿児島・・」
「鹿児島か・・・」
「うん・・・じつは特攻隊に配属が決まった・・」
特攻と聞いて両親の箸がピタリと止まる。
「特攻・・・・・か」
「上から家族に挨拶に行って来いと言われて」
「それでこんな急に帰省したのか・・・」
「うん・・・」
それ以降、両親との会話は止まってしまった。
父は黙ったままビールを手酌すると、一気に飲み干し、カツンッ!と大きな音をさせて、ちゃぶ台にグラスを置いた。
「母さん、今日は疲れたから先に寝るぞ・・・明雄も明日早いならあまり無理するな」
「父さん・・・」
明雄が口を開こうとしたが、父親が制した。
「もう、なにも言うな・・・。男が自分で決めたことだ」
そう言うと、父は寝室に籠ってしまった。
久しぶりの実家、久しぶりの自分の部屋、久しぶりの温かい布団で明雄は安らかに眠りに入った。
夜半頃、尿意を催した明雄は縁側を歩いてトイレに向かった。
両親を起さぬようにそっと部屋を通り過ぎようとすると、すすり泣く声が聞こえた。
耳を澄ますと母の声だった。
「あの児の無事をずっと願って、元気に帰省したことを喜んでいたのに・・・・。いくらお国のためとはいえ、自分の子供が死ぬとわかって喜ぶ親がどこにいるのか・・・」
そう父に愚痴を零しながら、声を押し殺して泣いているようだった。
気丈に見えた母のやりきれない気持ちを慮ると、明雄は両親の部屋の前を通ることができず、自分の部屋の前の縁側の雨戸を静かに開けて出て、庭先で用を足した。
『母さんを悲しませてしまったな・・・・』
小便をしながら夜空を見上げると、月が煌々と輝いていた。
美沙の悲しむ顔を見たくない一心で、一条の代わりに特攻隊に志願した明雄だが、それがかえって、母親を悲しませる結果になってしまったことが悔やまれた。
『自分が死んで、悲しむ人がいるということを、自分は終ぞ気がつかなかった・・・・』
そう考えると涙が込み上げてきた。その夜、明雄は布団に戻っても、眠ることが出来なかった。
翌朝、兵舎に還る際、両親が駅まで見送りに来てくれた。
「腹が減ったら、汽車の中で食べろ・・・」
と乗降口に乗り込む明雄に母が握り飯の包みを手渡してくれた。
昨晩のことを考えると、食欲が湧かず、朝飯にほとんど手をつけなかった明雄に対する母の気遣いだった。
『自分達も食べてないのに・・・』
両親もまた、とても食事をする気にはなれなかったらしく、用意した朝飯はそのまま明雄の握り飯となった。
差し出された包みを明雄が受け取ると、母が両手で明雄の手を握り締めた。
その小さな躰のどこにそんな力があるのかと思うほど強く握られた手に明雄は、つい「痛っ!」と漏らしてしまった。
「母さん、痛いよ・・・」
それでも母は明雄の手を離さなかった。
母の手が震えていることに気がつく、と同時に、明雄の手の甲に母の涙が滴り落ちる。
長い様な、短い様な時間が過ぎる。
やがて、列車の発車の合図があり、後ろから父が母の肩を軽く叩く。
「母さん、そろそろ・・・」
そう言って手を放すように促した。その父の目も赤くなっていたのを明雄は見た。
『自分はなんて親不孝な決断をしてしまったのだろう・・・・・』
明雄は、両親を悲しませてしまったことを詫びることもできず、涙を堪えながら、敬礼して、震える声で「往ってまいります」と告げることしかできなかった。
汽車が走り出すと同時に堪えきることができなくなった母が、その場で泣き崩れた・・・・・・・。
駅が見えなくなっても、母の悲痛な泣き声は明雄の耳に残ったままだった。