分隊長の叱責
人が人を好きになることは悪いことではないという。
では、人が人の好意に応えないということは良くないことなのだろうか?
一般的には人の好意には応えるべきだろう、そのほうが社会生活が営みやすくなるからだ。
だが、恋愛においてはそうだとは言い切れず、この問いに答えることは、難しい気がする。
何故なら、相思相愛になれればもちろん良いが、人の気持ちというものはそうそう思うようにいかないのがこの世の常だからである。
好意を寄せる想い人から相手にされない。
想わぬ相手から好意を寄せられる。
いずれにしても双方にとってまさに不幸だ。
想いを寄せる相手が振り向いてくれない、しかも、その相手には好きな人がいた場合、人はどうするべきなのだろうか?
明雄は美沙のことで教官に対し憤った。
教官が美沙に好意を寄せたことに対してではない。
自分の欲望を達成するために、美沙の愛する人、一条を恣意的に死地に追いやろうと画策した卑劣さに対して怒ったのだ。
だが、証拠はない。状況からそのように推測されるだけだ。
それでも、現状では一条がいなくなることと、件の教官のような卑劣漢から執拗に迫られることは美沙にとって不幸である。それが明雄には許せなかった。
そこで、明雄はまず一条に特攻を辞退するように説得に向かう。
「先輩」
「佐野か、どうした」
「ちょっとお話が」
そう言って、明雄は人気のない場所へ一条を誘った。
「単刀直入に言いますが、正直に答えて下さい」
「なんだ藪から棒に」
一条は訝かったが、後輩の頼みなので承諾した。
「先輩と美沙ちゃんは恋人同士だと、聞きましたが、それは本当でしょうか?」
一条はしばらく考え込むようにして黙ったが、やがて静かに答える。
「本当だ・・。隠すつもりはなかったんだが、黙っていてすまん」
一条は謝ったが、明雄は首を横に振る。
「いいえ、謝って欲しいのではなく、お願いがあるんです」
「なんだ、できる限りのことはするぞ」
「特攻を、辞退していただけませんか・・」
一瞬間を置いて一条は答えた。
「それはできない」
「何故ですか?」
「前にも言った通り、俺は連隊長と分隊長に恩義がある。それを曲げることは出来ん」
一条の答えに明雄は苛立って言った。
「そのために美沙ちゃんが不幸になってもいいんですか?」
「美沙はお前が護ってくれる。俺はそう信じている。それともお前は嘘つきか?」
「・・・・・・・・・・・」
そう言われて明雄は言葉に詰まる。
「これ以上話がないなら、もう行くぞ」
そう言って一条はその場を離れてしまった。
一条の意思は変えられない。
そう悟った明雄は分隊長の部屋へ向かい扉を叩いた。
「軍籍番号、佐志飛 第41908号 佐野明雄、1等航空兵であります」
「よし、入れ!」
「入ります」
入り口で敬礼して分隊長の前に進み出た。
「貴様が志願るとは意外だったな」
分隊長は一瞬、意外そうな顔を見せたが、すぐに表情を和らいだ。
「まあ、楽にしろ」
そう言われて、明雄はやや姿勢を崩した。
「貴様には兄弟は居るか?」
「居りません」
「両親は健在か?」
「健在であります」
「特攻に志願する心構えは立派だが、兄弟が居らんのなら一度両親と相談したほうが良いだろう。出直して来い」
「そのことについてでありますが・・・・。自分は、特攻に志願しに来たのではありません」
そう聞いて分隊長の表情がやや曇った。
「・・・・・・・・・・・・・・どういうことか?」
分隊長は椅子に座ったまま明雄の方に躰を向き直した。
「俺は特攻に志願するものは此処に来いと言ったはずだが・・」
「はっ!自分もそう伺っております」
明雄は姿勢を直立に戻した。
「では、何をしに貴様は此処に来た?返答次第では容赦せんぞ」
意気込んで来たはいいが、分隊長の威に押されてしまい、明雄は二の句を告げなくなってしまった。
しかし、いまさら何の用もありませんでしたとは到底言えない。
「実は、一条先ぱ・・、いえ、1等航空兵曹のことでありますが・・・」
意を決して、そう切り出した。
「一条がどうかしたか」
「特攻志願を退けて頂くことは出来ないでしょうか?」
その言葉を聞いて一呼吸置いたあと、分隊長は人差し指で机を叩きだした。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「正気か?貴様・・・」
長い沈黙のあと、そう言って分隊長が重い口を開くと、おもむろに煙草を取り出し、火をつけて一服した。
重苦しい雰囲気の中、紫煙を燻らせながら、分隊長は明雄に尋ねた。
「貴様と一条はどんな関係だ?」
「一条1等航空兵曹は自分と同じ中学の先輩であります」
「そうすると、貴様は一条の後輩に相当るわけだな? その後輩が何故先輩の邪魔をする?」
「一条1等航空兵曹には、恋人が居りまして、その、特攻ということになりますと、その恋人が悲しまれるのではないかと・・・懸念する次第で・・あります」
明雄は消え入るような声で答える。
そして、ここで分隊長はきつく目を瞑った。
「・・・・・その一条の恋人は、貴様の血縁者なのか?」
「いえ、違います・・・・」
「・・・貴様は、その一条の恋人の分身か何かか?」
「・・・・それも・・・・・違います・・・・・」
それを聞いて分隊長の顔色が俄かに変わりだした・・・・
指先に挟んだ煙草の灰が、怒りに震えるその微かな振動で落ちた、その瞬間、
「この馬鹿野郎!!」
部屋中に分隊長の怒鳴り声が響いた。
「誰だって愛する家族や恋人が居るのだ!それでも、何故その家族の元を離れて、わざわざ戦地に赴いていると思う?それもこれも、皆、御国のため、愛する家族のためだろうが!一条にしたって、奴なりに苦渋の決断をしただろう。それを貴様にとって縁も所縁も無い一先輩の恋人が悲しむからとの理由で、その決断を蔑ろにするのか!そんなことは当事者間の問題で、門外漢の貴様の関与することでは無いだろうが」
ここで騒ぎに気がついた班長が分隊長室の扉を叩いた。
「分隊長、どうかされましたか?」
「何でもない、下がってよし」
分隊長は扉に目をやり、班長に下がるように指示を出した。
その後、煙草を灰皿に押し付けるように火を消すと、明雄に諭すように話し掛けた。
「なあ、佐野よ、俺だって本当は部下を死地に赴かせるようなことはしたくないのだ。しかし、これは上層部からの命令でな、各分隊毎に志願者数が割り当てられているのだ。この命令に逆らうことは出来ん、残念ながらな」
明雄は目を伏せて聞いている。
「貴様の行動は一条を心配してのことだろう。その気持ちは人として当然のことと思う、特に親しい間柄では尚更な・・。一つ、単刀直入に尋ねるが・・・・」
分隊長はこう前置きして訊いた。
「もしかして、貴様は一条の恋人に惚れているのか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
答えない明雄に分隊長が言った。
「このことは誰にも口外せん。貴様の正直な気持ちを知りたいのだ。好きでもない女のためにそこまで出来んだろう、どうなんだ?」
「はい、自分は一条先輩の恋人である、美沙さんが一人の女性として、好きであります。」
分隊長の重ねての問い掛けに、明雄は項垂れるように頷いた。
「そうか・・・・なら、貴様の気持ち解からんでもない。誰だって、愛する人の悲しむ顔は見たくないものだからな・・」
分隊長のその言葉と、誰にも打ち明けることの出来ない心情を吐露したこととが相俟って、明雄は感極まり、項垂れたまま涕泣した。
「そんな泣き腫らした目で出て行けば人目を惹くだろう。しばらくそこに座って居れ」
分隊長は明雄が落ち着くまで近くにあった椅子に座らせた。そして急に席を外し、すぐにサイダーを2本携えて戻ってきた。
「ほれ、貴様らこういった物が好きだろう、飲め」
そう言って一本を明雄に手渡した。サイダーを口にした明雄の涙はすでに止まっていた。
明雄が落ち着くのを見て、分隊長が口を開く。
「さっき、貴様は一条の特攻志願を退けるよう言ったが、本人の素行に問題が無い以上、志願を退ける権限は、俺には無い・・・。特攻志願しても、その人間を採用するかは上層部の意向次第だ。しかし、一条は優秀な奴だ、まず間違い無く採用されるだろう。これを避けるには、除隊するしかないが、奴にその意思が無い以上、任務に支障を来すほどの怪我でも負わない限り無理だろうな・・・・」
分隊長のその言葉を明雄は黙ったまま聞いていた。