風呂当番
台風が接近したある日、間の悪いことに、明雄は風呂の掃除当番だった。
ビュービュー吹きつける大風にバラバラと地面に打ちつける豪雨。
上空ではゴーという風が渦巻きながら、空気を切り裂いていくような音が響いている。
練兵場の水溜りはさながら池のようになっており、ビチャビチャと音をたて、雨風による無数の波紋を描いていた。
『さすがに今日のバスは中止だろうな・・・』
窓から外を眺めていた明雄はそう思ったものの、当番である以上、行かなければあとで罰直を受けるかもしれない・・・・。
『こんな日にわざわざ外にでたくはない』のが本音だが、明雄は覚悟を決めて風呂掃除に向かった。
扉を開けて外に出ると、いきなり横殴りの雨風に曝され、あっという間に傘が壊れた。
まるで平手打ちされているようにバチバチバチバチッと激しい音を立てながら、顔や躰が大粒の雨水に叩かれ、衣服は風にバタバタバタッと煽られる。
明雄ははじめ、兵舎の庇に沿って、雨風を避けて行こうと考えたが、すぐに無駄だと悟り、開きなおった。
衣服は瞬く間にずぶ濡れになり、下着から靴の中まで水浸しとなった。
歩くたびに靴の中がグチュグチュ音を立て、さらにベシャッとした感触で気持ちが悪い。
遠くに見える風呂場の入り口の奥に、雨煙に隠れ、微かに人影が見える。
監督役の古参兵が待っているようだった。
『念のため、この嵐の中に出て来てよかった、危ないところだった』
明雄は密かにそう思った。
風呂掃除に来たのは多分、自分が一番早いだろうとは思ったが、
【貴様!他人より遅れて来たくせにその態度はなんだ!】
と怒られることを懸念して、
「遅れて申しわけありません、佐野一等航空兵、バス掃除に参りました」
と恭しく挨拶した。
中に入ると、待っていたのは一条だった。
一条は、ズブ濡れになった明雄の情けない格好を見るなり、吹き出して
「なんだその格好は、まるで濡れ鼠だな」
と腹を抱えて笑った。
「とりあえず、そんな恰好では風邪を引くだろうから服を脱いで、躰を拭いておけ」
と一条は笑いながらバスタオルを投げて渡す。
明雄はこの嵐の中、苦労してやって来た挙句、笑われたことに対してムッとしたが、相手が一条であったことと、悪気がないことがわかっていたので気にしないようにした。
そして、言われるまま、服を脱いで躰を拭きながら、中を覗いてみるが、案の定、誰もいなかった。
「お前が一番早く来た。他の者が来るまでボチボチと掃除をしておいてくれ」
一条にそう指示され、明雄は風呂掃除を始めた。
そのあいだに1人現れ、2人現れ、掃除を始めだす。
しかし、結局、最後までその日のバス当番が全員揃うことはなかった。
「バス掃除、終りました。確認をお願いします。」
一条と仲のいい明雄が当番を代表し、掃除チェックの確認を願い出る。
一通りの掃除の確認のあと、一条は明雄たちをねぎらった。
「貴様たちは、この雨の中、よく来てくれた。ご苦労!今日は風呂が沸いたら先に入って戻っていいぞ」
それを聞いて驚いた明雄はたずねた。
「バス当番が一番風呂に入ることは禁止されていたはずですが・・・」
「今日だけは特別に許可する。ただし、他言するなよ」
そう言うと一条は目配せをした。
『本当に一番風呂をもらっていいんだろうか?』
一条に一番風呂に入ることを許可されたものの、明雄をはじめ、他の風呂当番の連中もそう考えて躊躇した。
一条のことだから、問題はないと明雄は思うのだが、上にバレてあとで罰直などされては困るのだ。
「心配するな、連隊長の許可はいただいている」
「そうなんですか?」
「うむ」
「なら遠慮なく、入らせていただきます」
当番に当たった連中の不安を察した一条が発したその一言で、明雄たちは安心して一条に礼を述べると、喜んで風呂に入った。
本当は連隊長からの許可はもらっていなかったのだが、バレたらバレたで一条は自分一人が責を負うつもりだった。
洗い立ての浴槽にタップリと張られた綺麗な湯に浸かるのは何ヶ月ぶりだろうか。
肩まで浸かれる湯に垢の浮いてない久々の風呂は本当に気持ちが良かった。
「一番風呂いただきました、ありがうございました」
湯から上がると、明雄とほか数名は、一条に礼を述べて各々の班へと戻っていった。
翌日、台風一過で空は晴れわたっていた。
まだ、やや地面がぬかるんでいたが、朝礼をするには問題がないと判断されたためか、通常通り練兵場で朝礼が行われた。
朝礼が終わると、一条があらわれ、朝礼台の前に立って叫んだ。
「昨日のバス当番の者は全員前に出てこい!」
一条の手にはバットが握られていた。
明雄をはじめ、数名のバス当番が前に進み出る。
それ以外の者は兵舎に戻っており、ガランとした練兵場にバットを持った一条と、その前に横1列に並んだ昨日のバス当番。
「貴様ら、ここに呼ばれた理由はわかっているな?」
一条が、バットを肩に担ぎ、明雄たちの目の前を左右に行ったり来たりしながら厳しく詰問するが誰も答えない。
それは明雄も同様だった。
「昨日、俺はバス当番の監督役だったが、バスが中止になったなどと、通達したおぼえはなかった。にもかかわらず、バス掃除に来なかった者がいる。昨日、掃除に来た者には悪いが、連帯責任という決まりだ。したがって全員同じ罰直を受けてもらう。全員、腕立て伏せ!」
一条が合図すると皆、腕立て伏せの恰好をした。
次々と一条がバットを振り下ろし、バンッ!バシンッ!と叩いていく。
このころになると、さすがに悲鳴を上げるものはいないが、痛いことに変わりがない。
いよいよ明雄の番になり、バシッ!と一条のバットが振り下ろされたとき、明雄は思わず大声を上げてしまった。
「痛ってー」
明雄は、自分が当番をサボらなかったこと、相手が一条であることから、
多少、手加減されるものと期待していた。
だが、一条の一撃は班長や、教官となんら変わることがなかった。
つまり、本気で殴られたのだ。
変に手加減を期待していただけに、その痛さは通常のものよりはるかに大きく、
その、自身の考えの甘さのせいで、明雄は大きく身悶えるのだった。




