美沙の母の危篤
海軍が新聞やラジオなどのメディアに事故の件を伝えたのは、葬儀など、すべてが終わった翌日だった。
実際は、もっと早く知らせるべき、との意見も、海軍内の議論にもあったが、折り悪く、帝国議会の予算編成の審議中であったため、軍事予算の取り合いで仲の悪い陸軍に、海軍の予算を減らす口実を与えるのではないかとの懸念があり遅れたのだ。
したがって、海軍大臣が予算編成を急がせるべく意図的に陸軍側と妥協し、議会で決定したあとの発表だった。
当然、その事実をあとから知った陸軍側は猛反発したが、あとの祭りである。
そして、実際に新聞報道があったのは、美沙の父の葬儀が終わった2日後のことだった・・・・・。
「明雄!ちょっと起きて・・明雄!」
明雄が母親からたたき起こされたのは、朝6時をまわったころだった。
『こんな朝っぱらからなにごと?』
と、まだ眠い目をこすりながら母の元に行くと、いきなり新聞を手渡された。
「ちょっと、ここ読んで!」
そういう母親の指先の文字を読んでギョッとした。
【帝国海軍、演習中に事故! 2月某日、海軍の演習に参加した潜水艦同士が衝突、追突された一方の潜水艦が沈没し、艦長以下、全員が死亡】
死亡者リストには艦長として美沙の父の名前と顔写真が載っていた。
「美沙ちゃんはこのこと知ってるのかねぇ・・・」
明雄の母は心配そうだった。
そして、明雄の耳を引っ張って囁くように念を押した。
「もし、美沙ちゃんがなにも知らないようなら、あんた、余計なことを喋っちゃダメよ」
明雄はうなずいたが、そもそも、こんなことを当事者本人に言えるわけがない。
学校へ行く時間を迎えて、明雄は気が重かった。
美沙に会うことが怖かったのだ。
だが、いかに気が重いとはいえ、時間は待ってくれない。
意を決して美沙との待ち合わせ場所に向かう。
待ち合わせ場所で見た美沙は意外にも明るかった。
というよりも、普段と変わらなかった。
『なにも知らないのかな?』
そんな印象を持つくらいに普通だった。
「美沙ちゃん、今日、新聞読んだ?」
「ん?・・読んでないよ?なんで?」
「いや、なんでもない」
「それより聞いてー。ラジオが故障したとかで、いま家でラジオが聴けないんだよ。ひどいと思わない?」
それを聞いた明雄は、美沙には例の事故の話をしてはいけないことを悟った。
「せっかく楽しみにしているラジオ番組があるのに、つまんない・・」
美沙は少し拗ねるように話した。
「明雄くんちにラジオ聴きに行こうかなぁ」
「あ・・うちも、今ラジオの調子が悪んだ・・」
「えーそうなの?もー最悪・・・あれ?お兄さんじゃない?」」
二人で歩いて学校のそばまで来ると、一条が校門の外に立っていた。
「お兄さん、おはよう、どうしたの?学校も行かないでこんなところに」
美沙は不思議がったが、明雄は一条がここに来ていた理由をわかっていた。
「おはよう、ちょっと佐野君と話があるので、先に学校へいっててもらえるかな?」
「また変な相談?」
美沙の口調は少し揶揄い気味だった。
「そう、男同士の話だから、女の子の美沙は聞いちゃダメ」
「はいはい、どうせ私は仲間外れですよーだ」
美沙はそう言うと、一人でさっさと校門を潜り校舎に入っていった。
美沙が校舎に消えるのを見計らい、一条は残された明雄に目配せをする。
2人で人気のない場所へと移動すると、一条が口を開いた。
「佐野君は今日の新聞を読んだか?」
一条は率直に切り出す。
「読みました・・・・」
「美沙はなにも知らないようだったが・・・」
「たぶん、なにも知らされてないと思います。ラジオも故障ということにされてるようですから」
「そうか・・・おばさんも、話し辛いのだろうな・・」
「ですね・・・正直・・僕も言いたくないです」
「隠し通せるものではないと思うが・・・美沙が事実を知った時のことを考えると、気が重いよ・・」
「同感です・・・」
「・・・雨が降りだしそうだな・・・・」
明雄と一条が仰ぎ見た空には暗雲が垂れ込めていた。
美沙の母は咳と喀血を繰り返すほど病状が悪化していた。
夫の葬儀後、心的負担から眠れぬ夜が続いたことで、体調を崩していたのだ。
しかも、肺炎を併発しており、医者に言わせると、非常に危険な状態であった。
医者から、葬儀の出席を控えるよう忠告されたにもかかわらず、無理をして出席した。
それが病状を悪化させた一因だった。
美沙の母は、朦朧とした意識の中で、これからの生活や美沙のことを考える。
蓄えはほとんどない。
義母への仕送り、美沙の生活費として義妹夫婦への仕送り、自分の入院費用、夫個人の生活費など、諸々の出費で生活自体ギリギリだったのだ。
遺族年金が支給されるが、以前と同水準の収入は見込めない。
加えて、病気で蝕まれた身体では雇ってくれるところもないだろう。
考えるほどに途方に暮れる。
また、心に大きな穴が開いたような、虚無感がどうしても拭いきれずにいた。
夫がいかに自分たち母娘を精神的に、かつ経済的に支えてくれていたか、改めて思い至る。
同時に、在りし日の夫を偲んで、自然に涙が溢れてくるのだった。
だが、悲しんでばかりもいられない。
夫に先立たれた今、美沙を遺して自分が死ぬわけにはいかない。
美沙のためにも病気を克服しなければ。
意識が遠のく中、そんな想いが美沙の母にはあった。
「・・・美沙・・・・ケホッ、ケホッ・・」
美沙の母の異変に、看護婦が気が付いたのは、昼前のことだった。
「先生!」
すぐに医者が呼ばれ、応急処置が施される。
「すぐに家族を呼んでください」
医者が看護婦にそう指示した。
美沙はそのころ学校にいた。
なんとなくだが、自分がクラスメイトから避けられている。
そんな感じを抱いていた。
『またなにか、自分がイジメの対象になっているのかな?』
そんなことを考えたりもした。
不安から明雄にも相談を持ち掛ける。
「クラスの雰囲気が何かおかしくない?」
「そう?気のせいじゃないかな?・・・」
明雄がそのように答えたので、美沙も気のせいだと考えることにした。
「木下さん、応接室に来てください」
昼休みに入って、担任から急に呼び出される。
「なんですか?先生」
「ご家族の方がお見えになってるので、すぐに下校の準備をしてください」
そう言われて、美沙はてっきり父が迎えに来てるのだと思った。
「お父さんですか?」
担任はしばらく黙ってから、「・・・・・違います・・・・」と短く答える。
応接室には叔母が待っていた。
「美沙、すぐに病院にいくよ」
「え?なんで?・・」
「お母さんが危篤なのよ・・病院からすぐ来るようにって」
美沙は耳を疑った・・・まさに青天の霹靂である。
担任への挨拶もそこそこに、美沙と叔母は外に待機させていたタクシーに乗り込んで病院へ向かう。




