佳日
やがて、夏休みも終わり学校が始まる。
明雄は一条の指導のもと、同じ中学校を目指して勉強を始めていた。
学校では美沙がイジメにあうことは全くなくなったし、なにごともなく平穏無事に時が過ぎて行った。
「ねぇ、見て、見て、見てー」
美沙がそう言いながら嬉しそうにやって来たのは師走に入って暫くしてからのことだった。
「なになに?」
「どうしたの?」
いつも通り宿題を始める準備をしていた明雄と一条が突然のことに手を止めて驚いていると、美沙が一通の手紙を笑顔で差し出す。
「お母さんから手紙が来たんだよ」
それは美沙の母からの手紙だった。
「なんて書いてあるの?」
明雄と一条は異口同音に尋ねる。
「お母さんたちがお正月にこっちに泊まりに来るんだって」
「へぇ」
「よかったねぇ」
「うん!」
美沙は嬉しそうに答えた。
両親と一緒に過ごせる。
美沙にとってはこれ以上はないほどの朗報である。
その知らせを受けた美沙の喜びようは凄まじく、その日は一日中、ほとんど鼻歌を歌っていたくらいに浮かれていたのだった。
そして元旦の朝を迎えた。美沙にとって待ちに待った日だ。
眠りから覚めた美沙は、眼をうっすら開き、大きく伸びをした。だが、布団の外に大きく突き出した腕が、刺すように冷たい冬の空気に刺激される。
『寒っ』
美沙は慌てて、すぐに腕を布団の中に引っ込めた。
『眠い・・・』
暖かい布団の中で惰眠を貪りたい。そんな気持ちを押さえ、やや寝ぼけながら、布団の中から再び片腕だけを出す。
近くにあった着替えと褞袍を手探りでムンズと掴むと、素早く布団の中に引き入れる。そして、さながらミノムシのようになりながら、布団の中で服を着替え、褞袍を羽織った。
美沙の父が見たら、きっと娘を窘めたであろうことは想像に難くない光景である。明雄や一条には見せたくない一面でもあった。
その日の目覚めは普段より早かったが、両親に会える嬉しさから前日はなかなか寝つけず、すこし寝不足気味でもあった。
しかし、そんなことはお構いなしに、気持ちの上ではすこぶる調子が良かった。
朝食が済んで片付けを終えると、両親が来るお昼頃まで、美沙は手持ち無沙汰だった。
冬休みの宿題もあったが、三が日くらいは勉強から離れたい。
ふと、窓の外に目を配ると、明雄がなにかしているが、美沙の位置からは垣根が邪魔してよく見えない。
「何してんの?」
興味を惹かれた美沙は明雄に声をかける。
明雄は美沙の声に反応したが、最初、その声がどこから聞こえたのかわからず一瞬だけ美沙を探した。
だが、美沙の部屋から声がしたことを理解するのに時間はかからなかった。
「あ、美沙ちゃん。明けましておめでとう」
美沙を見つけた明雄はそう新年の挨拶をした。
「おめでとう、明雄君。こんな朝早くから何やってんの?」
美沙は再び訊く。
「ベーゴマだよ」
「ベーゴマ?」
「そう、ベーゴマの練習」
「練習?見に行ってもいい?」
「いいよ」
明雄が了承すると、美沙は自分の部屋から玄関へ向かい外へ出た。
明雄は一人でベーゴマの練習をしており、美沙はそれを見物する。
「明雄君上手だねー」
美沙は素直に明雄を褒める。
明雄は少し照れながら首を横に振った。
「大会じゃ入賞もできないよ」
「大会があるの?」
「明日ね、神社でやるんだ」
ベーゴマに紐を巻きつけながらながら、明雄は答える。
「それで練習してるんだ?」
「うん、やってみる?」
「いいの?」
「いいよ、好きなベーゴマをあげるよ、どれがいい?」
明雄はベーゴマがたくさん入った箱を美沙の前に差し出して見せた。
「わー、大きいのとか小さいのとか色々あるね。どれがいいの?」
「厚みのあるやつが紐を巻き易くていいかも」
「じゃあ、これかなぁ」
美沙は明雄の差し出した箱の中から一つのベーゴマを取り出す。
それは上面に十文字の切込みが入ったものだった。
「ベーゴマはそれだね、ちょっと紐を持ってくるね」
明雄は一旦家の中に戻り、新しい凧糸を取って来た。
そして結び目を2つ作り、ベーゴマ用の紐にする。
水に濡らし、軽く絞ったうえで美沙に渡した。
「なんで水につけるの?」
美沙は疑問をぶつけた。
「新しい紐は滑りやすくて巻きにくいんだ。だけど、水に濡らすと馴染むのが早くなるんだよ」
「そうなんだ」
「だから紐が馴染むまで、水につけたほうがいいんだ」
「そっか。それで、これはどうやって巻けばいいの?」
「ゆっくり巻くから、真似してね」
「わかった」
「先ず、紐のバラかした箇所を平らな面と指で押さえて・・・・」
明雄は美沙にベーゴマの紐の巻きながら説明する。
美沙は明雄の真似をして紐を巻くが、すぐに巻きが崩れてしまい、上手く巻くことが出来なかった。
「最初の巻が肝心なので、そこをしっかりと巻かないと途中で崩れちゃうよ」
明雄は助言しながら、自分も巻きを崩して美沙と一緒にやり直す。
何度かの失敗を経て、ようやく美沙は紐を巻く事が出来た。
「じゃあ、今度は回すね」
明雄がお手本を示す形でベーゴマを回すが、美沙は何度失敗を重ねても回す事が出来なかった。
失敗の回数に伴い、徐々に美沙が不機嫌になっていくのが明雄にも見て取れた。
「もういい!飽きた!・・」
美沙が癇癪を起し、そう言いだし始めた頃、1台のタクシーがやってきた。
タクシーは明雄達の目の前で停車して、中から人が降りて来る。
初めに黒い軍装の男性、次に長羽織を纏った和装の女性が続いた。
女性の羽織は薄紫の梅の花文様で、和服は無地の紫色、薄青の帯という装いである。
「お父さん!お母さん!」
美沙はそう叫ぶと一目散に駆け寄り母に抱きつく。
ついさっきまで癇癪を起していたようには思えないほどの喜びようである。
「美沙。いい子にしてた?」
「うん。私ね、みんなと一緒におせち料理作ったんだよ」
「あら、それは凄いわね」
「お父さんとお母さんに食べてもらいたくてずっと待ってたんだから」
美沙は家の中に早く入るよう、母の手を引いた。
「ちょっと待って、美沙。あなたのお友達に挨拶しないと・・・」
そう言われてやっと美沙は明雄を思い出した。
美沙の母は明雄に近づいて軽く頭を下げて挨拶をする。
「明けましておめでとうございます。いつも美沙と仲良くして下さってありがとう」
「明けましておめでとうございます。僕のほうこそ仲良くしてもらって助かってます」
明雄はそう言った。
美沙の父も車のトランクから大きな荷物を取り出したところで、美沙の母から声を掛けられる。
「あなた。美沙のお友達・・・」
「おお、佐野君。明けましておめでとう」
「おめでとうございます」
「いつも美沙の面倒を見てもらってありがとう。明日、ご挨拶に伺いますから、ご両親によろしくお伝えくださいね」
美沙の父は、大きな荷物を両手に持ったまま美沙の母の隣に立つとそう言った。
「お父さん、お母さん、はーやーくー」
美沙が待ちきれないといった様子で両親を押す。
「わかったから、美沙。押すのをやめなさい」
美沙の両親はそう言ったが、怒ってるわけではなく、むしろ自分達を慕う娘が可愛くて仕方ない、そんな印象だった。
「あ、そうだ!」
途中で美沙は何かを思い出して明雄の元に戻る。
「これを忘れるところだった」
そう言って何かを拾い上げた。
それは明雄があげたベーゴマと紐だった。
「また遊ぼうね」
美沙は明雄を振り返りながらそう言葉を残し、再び両親の元へ駆け出すと、家の中に消えていった。




