兆
雲取山の自衛隊員たちが最初に聴いたのは耳鳴りのような音だ。
小さいが気になる類の……。
だから一度気になれば、もう感覚が去らない。
自分の身体の中から聞こえる音のようでもあり、外部からの音のようでもある。
はっきりとはしないが、はっきりとしたような、たった一音だけのような、けれども和音のような、ビブラートはかかっていないが、しかしビブラートがかかったような……。
隊員たちは皆、その音を聞いているのは自分一人だけだと思っている。
人間という生き物の場合、人それぞれの心が繋がっていないから当然だ。
隊員たちは己の精神状態を秤にかける。
予想のつかぬ初めてのミッションに気を張り過ぎたか、と考える。
ついで、リラックスせねば、緊張を解かねば、と考える。
だから深呼吸をするものが現れる。
戦闘予定地域で実践配備中なので、その動きは派手ではないが、見るものが見れば内容はわかる。
内容がわかれば多くの者が、緊張しているのは自分だけではないな、と安堵する。
もちろん、気を引き締めながらだ。
けれども音は、まだ消えない。
しかも未だに全員が自分にしか聞こえていないと思っている。
『アレフ‐タヴ』という名の予言書に記述された攻撃対象が現れる刻限は正午だ。
時計の針は既に正午をまわっている。
音が聞こえて来たのが正午丁度。
刻限が二分過ぎると、そう考える者が現れる。
最初は数名だが、時の経過とともに増えていく。
仲間に確認したいが、その結果、音を聞いているのは自分一人、と知れることが怖い。
いや、怖いというより恥ずかしいという気持ちだが、そちらの方が心のハードルが高い。
だから訊けない。
けれども、それも正午から五分が過ぎ去るまでのことだ。
気の合う仲間が近くにいる隊員たちが情報交換を始める。
その結果に驚き、各隊の長に報告する。
各隊の長も同じ音を聞いているので唖然とするが、直ちにその上の長または作戦司令部に報告する。
その頃にはもう現場にいた全員が音を前触れと捉えている。
攻撃対象が間違いなくやって来ると確信する。
確信するが、まだ現れない。
だから気持ちがじりじりと焦る。
喉の渇きを覚える隊員がいる。
かと思えば汗が止まらない隊員がいる。
そもそも多くの隊員たちに事の真相が知らされていない。
地球外から何者かが現れる、それを攻撃粉砕するのだ、という命令を受けただけだ。
さすがに幕僚長は真実を知らされたが、それでも一部が伏せられる。
高い教育を受けた幕僚長は疑うが、知らされた内容以外に真実があるのかないのか、わかりようがない。
だから指令に従うまでだ。
安全な自衛隊施設のシェルターの中で……
幕僚長には聞こえない音が僅かずつだが高まっている。
隊員たちが、それを感じる。
攻撃対象の出現近し、と身構える。
……と思う間もなく音が耳を聾せんばかりに大きくなる。
一部隊員の鼓膜が破れる。
音が物理的となった効果だ。
正確に言えば、この宇宙の物理に従うようになった効果……。
だから今では音が誰の耳にも聞こえている。
雲取山の現場から二十キロ程離れた奥多摩町でも聞こえている。
さすがに音が小さいので気づかぬ者も多いが、気づく者もいる。
それぞれの家に帰った空子と星太には聞こえている。
次に起こったのは時空の歪み。
空の色彩変化が同時に起きる。
ヒトの目に映る色は濃い紫と赤のグラデーションだ。
が、スティミアテリコースの目にはどう映るのだろうか。
ついで毒々しい色の空がポロポロと零れる。
雲取山頂上空数百メートルに渡り……。
その向こうに見える色はヒトの目には耀き揺れる青だ。
輝青の部分に黒い異形が見え隠れする。
徐々に形が大きくなるが、攻撃命令はまだ出ない。
異形がまだ地球ではない異世界内に留まっているからだ。
学者により意見は割れたが、異世界のすべてで通常世界の兵器は効かない、という意見が大半であり……。
それで攻撃が控えられる。
が、スティミアテリコースがたとえ一ミリでもこの世界に侵入すれば、そのとき攻撃が開始される。
『アレフ‐タヴ』の中でスティミアテリコースはまたファラレッギーとも表記される。
両者の使い分けに法則性は見られないが、この世界に侵入するのはファラレッギーだ。
ファラレッギーの中でもファーリィサクトースと呼ばれる異形……。
その異形が、人間でいえば手の指を、ポロポロと崩れ落ちる濃い紫と赤色の空の淵にかける。
現実世界に侵入したファーリイサクトースの指先は人間程の大きさだ。
全体の形はまだ皆目見当がつかない。
「攻撃開始!」
ついに異世界と通常世界との戦闘の火蓋が切って落とされる。