第八話:『決別』
ジルは屋敷の地下にある奴隷の浴場で体を流していた。
体を洗い終わって湯船に浸かっていると、入り口の方から話し声が響いてきた。こんな時間に他の奴隷が入ってきたらしい。
ジルは目立たない場所に移動した。
「ーーあのガキ、今頃死んでんじゃねえか?」
「ガハハハッ! ちげぇねえ、あんなにブチ切れたお嬢様、初めて見たぜ」
公爵夫人の飼っている男の奴隷二人だ。ジルは「お嬢様」という単語に反応して聞き耳を立てる。
奴隷二人は浴場全体に響く大声で騒ぎ合っている。かなり興奮した様子だ。
「しっかし、もったいねぇなあ! ようやくギチギチだった穴が広がってきたところだったのによう!」
「ああ、そうとも! 今日であのかわいいガキの喘ぎ声が聴けなくなると思うと、さびしくなるぜ」
「そういや、来たばっかりのあいつをここで犯したこともあったっけなぁ」
「いやぁ、もったいない! けど……あのお嬢様に何か言う度胸はねえわな」
「ああ、あのままだとほんとに殺しちまうだろうな。殺さなくても、この屋敷からは追い出されるだろ」
バシャッ
奴隷二人は大きな水音を聞いて動きを止めた。
「おい、誰かいるのか?」
「見ろよ、戸が開いてるぜ」
「誰か出てったらしいな」
ジルは重い枷のはめられた足を必死に動かして駆ける。
(僕のせいだ!)
自分の行動がラナを危険にさらしてしまったという罪悪感と、早くしなければ彼女が死んでしまうという焦燥感が、ジルの思考をグチャグチャにかき混ぜる。
(見えた……!)
リリーの部屋に辿り着く。飛び込もうとしたジルは、鼻を刺す強烈な臭いに足を止めた。ラナの匂い、そして……血の臭いだ。
「ハァ、ハァ……ハァ」
心臓の鼓動が鼓膜を揺らし、呼吸が荒くなる。
ジルは目に見えない圧力が自分を押し戻すのを感じた。
見てはいけない……
ドアの取っ手を回す手が目に見えて震える。それでもラナを助けたい一心で扉を押し開けた。
「キャハハハハッ!」
甲高いリリーの笑い声が聞こえた。薄暗い部屋には彼女だけではなく、弩を構えた兵士が二人と、鞭を手にして立つ執事もいた。
そして彼らが目を向ける先には、天井を支える太い柱……おそらくラナはそこにいる。ジルからは柱の陰に隠れて見えなかったが、そう確信した。
ジルが一歩を踏み出したその時、リリーが勝ち誇った声で叫んだ。
「これでジルはわたし一人のモノ――!」
バシュッ! バシュッ!
間髪入れずに放たれる二本の矢。
静止したようにゆっくりと流れる時間の中で、ジルは柱の陰からラナが現れるのを見た。
ラナは糸の切れた人形のように、ゆっくりと横向きに倒れていく。
レモン色の髪がふわりと宙を舞った。わずかに垣間見える、ラナの見知った横顔。
気の遠くなるような時間の後、ラナが床に倒れた。
鈍く軽い衝撃が伝わってくる。
「ラ……ナ…………?」
「あら、ジルじゃないの! こんばんは。どう、見てちょうだい、あなたを惑わす性悪な雌犬は始末してあげたわよ」
リリーは自慢するように胸を張り、心から満たされた表情で微笑んだ。ゴルドヴァの宝ともてはやされる美しい容姿を、惜し気もなくジルに見せる。
ジルはラナの傍に膝を着く。
矢はラナの胸を深く貫き、致命傷を与えている。しかし彼女の傷はそれだけではないようだ。全身に鞭で打たれた傷があり、血が汗のように滲んでいる。ボロボロになった衣服の残骸が、その凄まじさを物語っていた。
ジルの体にも鞭の傷はあったが、それは痛みを与える為に手加減されたもの。こうまでされては痛みを感じることもできないだろう。
ジルがラナの体を抱き起す。
「……ァ……ァ…………」
「ラナ!」
燃え尽きたロウソクの芯が光にならない炎を出すように、ラナの口から息が漏れた。唇が形を変え、無言の言葉を紡ぐ。
「ィ…………ァ……」
「……………」
彼女の最後の言葉を聞き漏らすまいとしていたジルの背中にリリーの手が置かれる。
「ねぇジルってば――」
その手を叩き落とす乾いた音。
「なっ! なにするのよ!?」
「…………」
ジルは驚くリリーを無言で見返す。
そしてラナの耳元に何かをささやいた後、二本の足で真っ直ぐ立ち上がった。
「……あなたは間違っている」
「い、いきなり何? わたしが間違っているですって? 今すぐその言葉を撤回しなさい! あなたはわたしの犬……犬の分際で主人になんてことを言うの!」
「…………」
「あらあら……その雌犬を奪われて怒っているのね? うふふ、可愛いのね。でもいくらあなたとはいえ、犬がご主人様に逆らって良いはずないでしょう? 執事、調教のお時間よ」
「かしこまりました」
執事はジルに歩み寄り、彼の顔に拳を打ち付ける。ジルはまともにそれを受けて床に転んだ。
ジルが転んだ床はラナの流した血で濡れていた。
ジルは血だまりの中で拳を握りこんだ。
「く……どうしてこんなことができるんだ。僕もラナも、君たちと同じ心を持った存在なのに」
彼の心の底からの疑問に、リリーはさも当然といった表情で答える。
「間違っているのはあなたよ。同じ心ですって? フフッ、バカね、奴隷がわたしと同じ心を持っているはずないでしょう。エルフともなればなおさら、食欲と性欲ぐらいしかない単純な生き物に違いないわ」
ジルの反抗に面食らっていたリリーだったが、彼が黙り込んだのを機に勢いを取り戻し、なおも言い募る。
「そうよ、犬を一匹殺したくらい大したこともないわ。また代わりを買ってくれば良いだけのこと。奴隷なんてそこらじゅうに転がってるじゃない。……ああ、でもあなたは別よ? ジルはわたしだけの為に存在する奴隷、わたしの愛するたった一匹の犬なんだから」
そして床に広がる赤い血を指差し、彼に初めてそう命じた時と同じ傲慢な口調で言った。
「あなたはわたしの奴隷、わたしのおもちゃ、わたしの犬なの。犬ならご主人様の言うことは何でも聞かないとね。さあジル、その雌犬が汚したわたしの部屋を綺麗に掃除してちょうだい。もちろん、舌を使ってね」
「僕は……犬じゃない……」
「なぁにジル、何か言いたいことでもあって?」
言いたいことなど山ほどある。しかし今となってはどんな言葉も冗長に過ぎた。
だからたった一つのことだけを伝えよう。犬、犬と呼ばれるたびに毎回喉まで出かかっていたことを。
ジルは尖った犬歯を剥き出しにして叫ぶ。いや、吠える――
「僕は犬じゃない! 僕は――」
「――“オオカミ”だッ!」
暗闇を切り裂く黒い弾丸が走った。
「ぐああああぁぁ!」
兵士の一人が喉から血を流して倒れる。一瞬の出来事にリリーたちは呆然となって立ち尽くす。
今までジルがいた場所には、足枷と鎖だけが抜け殻のように残されていた。
振り返るリリーたち。その視線の先にいたのは……
「ガルルル…………」
……一匹の黒い狼だった。
「ま、魔狼族――ギャッ!?」
黒い狼は闇に溶け込み、人間の目には追えない速さでもう一人の兵士の喉を噛み切る。
執事が鞭を振りかざして狂ったように叫ぶ。
「この汚らわしい獣め、正体を現したな! こうしてくれるッ!」
風切り音と共に伸びる鞭の間、狼はわずかな間隙を縫うようにして走り、あっという間に間合いを詰めた。鞭を持つ執事の手に噛み付く。
「ヒギャアアアアッ! は、離せ!」
狼は執事を引き倒し、その上に乗る。
「や、やめ……やめろ、アアアアァァァァァァッ――!」
人間の柔らかい皮膚を容易く噛み千切っていく。恐怖に歪んだ表情が彼の最期の顔を彩っていた。
「あぁ……ぁ…………」
尻餅をつくリリー。衣服が汚れることも気にせず、自分を見つめる黒い狼から目を離せないでいた。
狼はリリーを前足で押し倒すと、その眼前に顔を近付けながら吠えた。
〈殺しはしない。なぜか分かるか? お前は僕の体に痛みを刻み込み、屈辱とは如何なるものか、それに耐えて生き残るにはどうしたら良いかを教えてくれた。お前がいなければ、僕はずっと子供の心のままだっただろう。だからお前を殺さない。感謝の印として命を与えてやろう〉
完全に獣化したジルの声は、ただの吠え声でしかない。だがジルはそれでも構わないと思っていた。
〈だがその命は僕がお前に与えたもの。僕が生きる限り、その命は僕の奴隷だ〉
リリーの瞳は変わり果てた自分の姿を映している。
〈そして決して忘れるな、お前が僕に与えた仕打ちを。僕も決して忘れない。そしていつかお前に報いを与えよう。だからその時まで覚えておけ〉
ジルは牙を突き出し、リリーの胸元に噛み付いた。
「イヤアアアアッ 痛いッ!」
服を切り裂きながら鳩尾まで牙を動かし、一直線の傷を刻む。
〈この傷を見て僕のことを思い出せ〉
ジルが彼女を押さえ付けていた前足をどけて後ずさっても、リリーは全く動かない。どうやら失神しているようだった。
ジルはリリーから離れると、四本の足を動かしてラナの傍に行った。
ラナの顔を覗き込むと、もうどこも動いてはいなかった。
もうこれはラナではなく、ただの亡骸……そう分かっていても、ジルはラナの顔を舐めずにはいられなかった。
狼の姿はなんて不便なのだろうか。舐めることでしか愛情を表せない。
ジルはラナの体を舐めて綺麗にしていく。もうラナと一緒にいることはできない……
(だからせめて綺麗にさせてくれ)
リリーに命じられてするのとは違う、技術がどうこうではなく、そうしたいからそうする舌の動きは、今まで彼が見せた中で一番優しいものだった。
彼がラナの体を舐め終わる頃、遠くから足音が響いてくるのが聞こえた。もうあまり時間は残されていないようだ。
ラナの額に口を付け、ジルは心の中で呟いた。
(もう辛いことはないよ。どこか暖かい場所で待っていてくれ…………)
足音がどんどん増えていく。鎧の鳴る音も聞こえてきた。
ジルは、昔父から教えてもらった言葉を彼女に贈る。死者を見送るノースランドの言葉だ。
(“お前の冬は終わった”)
そして長く尾を引く遠吠えを残し、彼は風のように去っていった。