第七話:『執着』
ベッドの上で胡坐をかき、目の前に置いた金貨を眺める。
(王子は何の為にこれを……?)
痛い思いもしたが、これまで様々なことを学んできたジルには、この金貨の重みが理解できた。王族には大した金額ではないのかもしれないが、奴隷にポンと手渡すような金額ではない。
同時に、去り際に王子が言い残した言葉も気がかりだった。
同じ立場だった者……ジルとリンツとの関係を正確に言い表している。まさか王子が奴隷だったはずはないから、要するに……
(あの人は僕の正体を知っているんだ)
そう解釈するしかなかった。
しかしどうやってそれを知ったのだろう。彼がジルについて持つ情報といえば、年齢、名前、容姿くらい。もしかしたらノースランド出身だということも知っているかもしれないが、本当にそれだけで分かるものだろうか。
だが彼も一国の王子だ。一般人には得られない多くの情報を耳に入れているはずだ。そう考えれば少しは納得もできるが、やはり腑に落ちない。
また話してみる必要がある。
叔父に売られるか、あるいは何かの企みに利用される恐れもある。けれども相手は雲上人、こちらからは接触できない。今ここでいくら気を揉んだところでどうしようもなかった。
コンコン
ドアがノックされる。ジルは慌てて金貨を隠した。
「ジル、入るわよ」
「ラナ……!」
ドアを開けて入ってきたエルフの少女。レモン色の髪が細い肩の上で揺れる。
ジルは彼女が来るとは意外だと思いながらも、自然と顔を綻ばせた。
「どうしたの? 僕に何か用?」
だがラナは強張った表情で一言。
「リリーお嬢様が呼んでる」
「…………」
ジルは一瞬で表情を変え、静かに立ち上がった。
「失礼します」
リリーの部屋に入ると、中には数人の侍女とリリーがいた。またいつものやつだろうと内心毒づきつつ、それを顔には出さない。
ドアまで何も言わずに付いてきてくれたラナが、ジルの背中にそっと指を触れてささやく。
「また……ね」
喉につっかえたような声で、彼女の言いたいことが分かった。言葉にするのはつらすぎるのだろう。ジルも同じ気持ちだった。だからただ一言を返す。
「あとで」
ラナは背中を向けて去って行く。そちらには侯爵の寝室があった。
「ジル、こっちへ」
「……はい」
今日はドーチスをするらしい。侍女に用意させた道具一式とリリーがジルを待ち構えていた。
リリーは肌の上に薄い絹のガウンを羽織っただけの扇情的な格好で寝そべっている。夕日の光がその身に降り注ぎ、白磁の肌が透けて見える。
もしリリーが醜い少女だったなら……ジルは叶わない望みを抱いた。
「どうしたのジル? 目を背けなくても、思う存分見て良いのよ? ほら……」
リリーがベッドの上で膝立ちになり、美しい体の輪郭を見せつける。ジルには、リリーのピンク色の乳首が透け、下腹部にある金の産毛が下にいくにつれ濃くなっていく様子まで、全てがはっきりと見えた。
「……おいで」
リリーの広げられた腕の中に入り、背後から抱きしめられるジル。
「ねぇ、さっきの奴隷、お父様の奴隷よね? 名前はなんだっけ」
「ラナです」
「ふぅん……どうしてあの雌犬なんかの名前を知ってるの?」
ジルを抱く腕に力がこもる。不穏な気配を感じ取った時には、すでに彼は顎を押さえられ、無理やりリリーの方を向かされていた。
リリーはどんな表情の変化も見逃すまいと顔を近付ける。
ジルは彼女がどうしてそんな反応を見せたか分からない。
「それは、同じ奴隷……ですから」
「じゃあこの屋敷にいる奴隷全員の名が言える?」
「そ、それは……」
「あの犬とはどういう関係なの? ウソはつかないで」
正視に絶えないほどの距離でジルの目を凝視するリリー。理解できない恐れを感じながら答える。
「ただ一度話しただけです。名前は他の奴隷と話している時に知りました……これで良いですか?」
「…………」
沈黙がこんなにも痛いものだとは知らなかった。何か間違ったことを言って彼女の機嫌を損ねたのではないか……心配だけが募っていく時間は永遠に続くかと思われた。
リリーの一言で金縛りから解ける。
「……じゃあ大丈夫」
「はぁ……」
しかし次の一言で体が凍りついた。
「ジルに手を出したらただじゃおかないんだから。あと、もうあの雌犬の名前は言わないで。次にあなたの口からあの雌犬の名前が出たら殺すわよ。あなたではなく、あの雌犬を。良い?」
小さく頷くジル。それで安心したのか、リリーが彼の頭を撫でた。
「よしよし、いい子いい子。あなたはわたしだけの犬だもの。ご主人様の命令は絶対なんだから。さあ、汚らわしい犬の話は終わりにして、今日もわたしに奉仕してちょうだい」
事後、ジルはメチャクチャになったリリーの部屋を一人で片付けていた。半狂乱になって彼女が蹴り飛ばしたドーチスの道具が床に散らばっている。今日はリリーがジルに奉仕させながらドーチスをしたが、彼女のせいで結局勝負はつかなかった。
駒を一つ一つ拾っていると、ドアの向こうから大きな物音がした。
「ん……?」
鎖の音を聞いたような気がしたジルが部屋を出てみると、床に手をついて動けなくなっているラナがいた。
「ラナ!」
「ぅぅ……ジル?」
「どうしたの!?」
「べつに……ハァ、ちょっとこけただけ」
「そうは見えないけど……」
ジルは肩を貸して立ち上がらせ、ラナをリリーのベッドに連れて行く。
「ちょ、ちょっと、ここお嬢様の部屋じゃないの?」
「大丈夫だよ。今は夕食の時間だから。――それよりどうしたの、侯爵に何かされた?」
ジルがラナの顔を覗き込むと、ラナは目を背け、毛布に顔を埋めた。
くぐもった声がそれ以上のお節介を拒む。
「別に何もない。本当に大丈夫だから。……それより、このベッドすごく気持ちいい」
「ラナ……」
ジルは話をしようと毛布に手をかけると、ラナの手がそれを払う。
「……ほっといて」
「・・・・・・・・・・・・」
ジルは強情に強がるラナの横に腰掛けた。
ラナは諦めたように呟く。
「疲れただけだって・・・・・・何も訊かないでよ」
「じゃあ、しばらくそこで休んでいなよ。僕が見張ってるから眠っても大丈夫だ。そうだ、何か飲むものを持ってこようか?」
そう言って立ち上がりかけたジルは、腕を下に引っ張られてストンとベッドに落ちた。
「ラナ・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
ジルは自分の手首を掴むラナの手を見つめた。弱々しい力だったが、強い想いを感じる。
「えっと・・・・・・片付けはしても良いかな? この部屋からは出ないから」
ジルが空気を読まずに言うと、ラナが彼の太股を小さな拳で打った。
「・・・・・・バカ。さっさとやれば」
ジルは苦笑して作業に戻る。
また駒を一つずつ拾っていると、ゴソゴソという衣擦れの音が聞こえてきた。顔を上げると、ベッドの端で毛布にくるまり、顔をこちらに向けるラナと目が合った。
泣き跡はあったが、落ち着いた表情だ。
「なにそれ?」
そう言ってジルが持つ駒を顎で指す。
「ドーチスっていう遊びで使うんだ。盤の上でこの駒を動かして遊ぶんだよ」
「それじゃあどうして床の上にぶちまけてるの?」
「それは、その・・・・・・リリーが暴れて」
「リリー?」
ラナのまなじりがつり上がる。
「なんだよ、そう呼ばされてるんだから仕方ないだろ」
「仕方なくない。少なくともわたしと二人でいる時は」
「まあそうだけど、じゃあ・・・・・・お嬢様?」
「・・・・・・」
ラナは多少表情を緩めたが、まだ不機嫌が残っている。ジルはため息をついて言った。
「お嬢様にもさっき同じようなことを言われたな。今度ラナの名前を目の前で口走ったら、君を殺すとか何とか」
ラナがびっくりして目を丸くする。
「え! ちょっとジル、あなた何か変なこと言ったんじゃないでしょうね?」
「何も言ってないよ! というか僕が悪いみたいな言い方するな!」
「ううん・・・・・・一緒にいるのを見られたのがマズかったかな。ジル、これは本気で言うけど、くれぐれも人目につくような場所でわたしに声かけたりしないでよね。じゃないとわたし、お嬢様に殺されちゃうから」
「え、ぇえ? ・・・・・・うん、分かった。いや、よく分からないけど、ラナが危険だって言うんなら」
「はぁ・・・・・・ちょっとやばいかも。でも・・・・・・フフ」
ラナが急に笑顔になったのを見て、ジルは少し身を引いた。
「どうしたの、いきなり笑って? 気持ち悪いよ」
「えへへ、別に笑ってなんかないわよ」
ラナはゴロンと転がって顔を隠す。
ジルが首を傾げていると、またくぐもった声が聞こえてきた。
「ねぇ、ジル」
「なに?」
「二人きりの時は、わたしのことはラナって呼んでね」
「今も呼んでるじゃないか」
「そうだけど・・・・・・そうじゃなくて、わたしが言いたいのは、絶対に、何があっても、いつ何時どこにいてもっていう意味」
「は? ・・・・・・簡単なことをやけに真剣に頼むんだね。もちろんそうするけど、でもラナ以外に呼び名なんて無いだろ」
「わたしもジルのこと、ジルって呼ぶから、ずっといつまでも。絶対だよ、約束だから」
「約束は顔を背けてするものじゃないよ」
ラナがむくりと起き上がり、ずり落ちた毛布の下から顔を出す。
「ヤな奴・・・・・・」
「あはは、分かったよ、約束だ」
そこでジルが立ち上がり、ラナに顔を近づける。
「ちょ、ちょ・・・・・・なにするの!?」
ジルは赤くなったラナと目線を合わせ、至近距離で話す。
「ねぇラナ、もしかして・・・・・・」
「(ごくっ)・・・・・・」
「毛布の下、暑かった?」
「・・・・・・・・・・・・は?」
「え、だって耳まで真っ赤だし。そんなとこまで強がらなくても」
「っ! ・・・・・・・・・・・・このバカッ!」
ラナは毛布でジルに殴りかかる。
「なにするんだよ!?」
「バカッ、バカッ、バカッ!」
年相応の子供らしくじゃれ合う二人。
二人はその姿が誰かに見られているとも知らず、束の間の休息を楽しんだ。
時刻は夜、屋敷の廊下を歩く人影があった。ラナである。
ラナはリリーの部屋の前で立ち止まり、控えめに扉を叩く。
「お嬢様、お呼びですか?」
「ええ、入りなさい」
ドアの向こうからリリーの声がする。ラナはそっと扉を開けて中に入った。
真っ暗だった。ほとんど何も見えない。しかしエルフの優れた視力は、部屋の中心でイスに座るリリーの姿を捉えていた。
「おじょ――キャッ!」
突然暗闇からぬっと飛び出た腕に両腕を掴みあげられる。横を見ると二人の男がラナの体を押さえていた。彼女と同じ奴隷だ。
恐怖でラナの動きが止まる。助けを呼ぶ声も出ない。もっとも、助けを呼んだところで助かる見込みはなかったが。
コツコツと暗がりに響く足音。ロウソクに火が灯される。
リリーがラナの正面に立ち、動けないラナの顔に自分の顔を近付ける。ロウソクの炎で二人の顔が浮かび上がった。
そしてゾッとするような低い声で言った。
「この汚らわしいエルフめ、わたしの可愛い犬に手を出したわね。お父様に聞いた通りだわ……エルフの女は高慢でいつも澄ました顔をしているけど、本当はただの淫乱。見てくれだけは綺麗だから、男を騙すことはできるかもしれない。わたしには理解できないけど、お父様もあなたを気に入っているようだもの」
「……わたしを傷つければ、旦那様がお怒りになりますよ」
「お黙りッ!」
パンッ!
リリーの平手がラナの頬を打つ。
「ハァ、ハァ……わたしはあなたと違って、お父様のおもちゃを一つ壊したくらいではこの家を追い出されたりしないわ。愚かな女、身の程を教えてあげましょうか」
「…………」
「なぁに、その顔は? もっとぶって欲しいの?」
リリーがラナの顔を舐めるように触る。
「ぅ……ぃゃ…………」
「わたしには及ばないけど、本当に綺麗な顔……あなたをもっと痛めつけて、辱めたら、その顔はどんなふうに歪むのかしら」
ラナから体を離し、二人の奴隷に命令を下す。
「とりあえず、気を失うくらい犯してあげなさい」
そして拷問が始まった。