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アイアンハート  作者: 一花八果
序章:『弄ばれる運命』
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第四話:『金色のお姫様』後編

『ミッドランド』

 …大陸中部地方。資源が多く、鉱工業で有名。交通の要衝に位置し、交易が盛ん。馬の生産が多く、優秀な騎兵が多い。帝都学院は大陸一の知識の宝庫。オーレンフェルト帝国が統一した。

 太陽が沈み、ロスリムの街を夜の静けさが包む一方、ソジュ家の別荘は逆に賑わいを増していく。

 国王直轄地のロスリムを治める王国の重鎮、トーンゲール卿。近隣に大きな領地を保有するクゼノア伯爵。王都から招かれたリンツ第一王子は、リリーの最有力婚約者候補と噂されている。遠くサウスランドから足を運んだ招待客もいた。とにかく名前を挙げていけばきりがない。招待客の家族などを含めれば、名簿だけで小さな本が作れるだろう。

 庭園と一体になった大広間にテーブルやイスが並べられ、楽団の奏でる格調高い音楽を背景に、あちこちで招待客の話に花が咲く。供される料理は、どれも滅多に手に入らない最高級の材料を使い、一流の料理人が腕を振るった逸品ばかり。今夜の為に特別豪華に飾り付けられた会場は、さながら真珠の砂浜のようだ。また鯨油を贅沢に使ったロウソクがゆらめく光を放ち、宵闇の街でソジュ家の邸宅だけが幻想的に浮かび上がっていた。

 会場の一角から広がり、会場の雰囲気を変えるさざ波。どうやらソジュ侯爵とリリーが姿を見せたようだ。

 背の高い侯爵の腕に掴まり、しずしずと歩いていくリリー。長い裾を持った明るい色のドレスに体を包み、豪奢な金髪を高く結い上げている。職人たちが趣向を凝らして作った宝飾細工を身に着け、普段よりも数段大人びた印象を与える。少し伏し目がちに、しかし堂々と背筋を伸ばした立ち姿。彼女の美しさに皆息を飲んだ。

 ソジュ侯爵がこの場で一番高い身分にある第一王子に最初の礼をする。

「リンツ王子殿下、今夜はようこそおいで下さいました。我ら一同殿下のお越しを心待ちにしておりました。このように貧相な宴、とても王宮のそれには及びませぬが、心を尽くしてお仕えさせていただきます」

 リンツ王子は三十代半ばの小男で、突き出た腹を覆う為に多くの布を使った服を着ている。身長と手足の短さのせいで図体は肥満児にしか見えなかったが、顔は立派な髭を生やした年相応の大人だ。王子が作法に則った鷹揚な頷きを返す。

「うむ。悪くない宴だ。来た甲斐もあったというもの」

「もったいないお言葉、身に余る光栄です」

 リンツが腰を折ってリリーの手に口づけする。リンツの身長が低過ぎ、十六のリリーの背の方が高い為、彼女は背を屈め、ぴんと腕を伸ばしてキスを受けなければならなかった。子供っぽい外見に似合わない朗々とした低い声が響く。

「リリー、あなたに会える日を楽しみにしていた。少し遅いが、十六の誕生日おめでとう。以前からそうだったが、あなたは増々大人びて綺麗な女性になった。あなたがいなくなってから王都は色褪せた花のようになってしまったよ。わたしは気落ちして夜も寝られず、あのまま王都にいれば夜空に輝く星全てを数え上げてしまっていただろう。だがあなたの姿を重ねて愛でていた星たち、その美しさもあなたを目の前にしては霞んでしまう。ああ、リリー、わたしは本当にあなたの前にいるんだね。会えて嬉しいよ」

 歯の浮くような台詞にも動じず、リリーは口を隠して上品に笑った。

「殿下、来てくださって感謝申し上げます。私も会えて嬉しいですわ。ところで星を数えるのがお好きなら、お庭に出てご覧になって下さい。きっとその方が涼しいでしょう」

 リリーはだぶついたリンツの服と、その下の過剰な脂肪を指して言ったのだが、王子は気にした素振りもなく快活に笑った。リリーをたしなめようとした侯爵を手で制して、成り行きを見守っていた他の招待客にも聞こえるように言った。

「聞いたかな? ご令嬢殿は少し暑いと仰せだ。なるほどここは王宮の大広間ほどは広くない。これだけ人がいれば暑くもなるだろう。慎み深いレディでも耐えられぬほどに。では皆、彼女の望む通り外に出て涼もうではないか! 今夜は彼女の誕生を祝う日、彼女の願いは我らの願いだ」

 場の空気を変える王子の声で、招待客が楽しそうに庭園へと出ていく。楽団が曲を変え、テンポの速い解放的な調べを鳴らす。

 その時ジルはと言えば、リリーの後ろで他の下僕と共に彼女のとても長いドレスの裾を引き摺らないように持っていた。

 ジルの視線はリンツの方を向いていた。リンツとジルの立場は、以前まで非常によく似ていた。国王の一番目の嫡子であり、何か無い限り父親が死ねば玉座に着くことが決まっている。しかし今、ジルは異国で見知らぬ貴族に仕える奴隷だ。もうあのチビの男と重なる部分はない。

 どこで道を誤ったのか……あるいは運命を捻じ曲げられたのか。


(父上、母上、ヤーナ……皆どこにいるの? 何をしているの? ……無事なの……?)


 王都を離れてから今までまともに人と話したことがなかった為、ガイエン王国とノースランドに起こったことをジルは何一つ知らなかった。噂だけでも得られればと考えたところで、ジルは目の前を行く少女の存在に気付いた。彼女なら、奴隷である自分の話も聞いてくれるかもしれない。

 ジルはパーティーが終わり次第、彼女に話を聞こうと思った。




 そして夜も更け、じきにパーティーはお開きになった。リリーは会場を後にして、今は動きやすい格好でイスに腰掛け、くつろいでいる。少女の使用人が髪に櫛を通し、また別の使用人がうちわで扇いでいた。使用人というのは自由身分の人間が給料をもらって働くもので、ジルの方が下の身分だったが、リリーはジルに何の命令もせず、ただ話し相手にさせていた。

「ねえジル、あなたも見ていたでしょう、あの子たちのびっくりした顔。あなたが『ドーチス』が得意だと聞いて驚いていたみたい。確かにあのゲームができる奴隷って珍しいかもしれないわ。ノースランドではあなたのような身分の子供でもやっているの?」

 『ドーチス』は難しいゲームで、何より駒や盤を十分に揃えるのにお金がかかるので、もっぱら上流階層の人間しか知らず、とりわけ男性がするものだった。ジルのような貴族の男子は戦争を学ぶ教育の一環として習わされるのだ。

 リリーからすればただの奴隷であるジルがこのゲームを知っているというのも、考えてみれば不自然に見えるはずだった。

 どう答えようか悩んでいたジルは、適当にでまかせを言った。

「前の主人がそれを好きで、遊び相手になるよう僕にやり方を教えたのです」

「ふぅん。前の主人って誰?」

 しまった……余計な情報を与えてしまったようだ。必死でウソをでっち上げる内に、あることを思いつく。この機会に北部について尋ねてみよう。

「僕は以前、ガイエン王国の王宮で国王陛下にお仕えしていました。しかしある日急に城から追い出され……何かただならぬことが起こったようでした。その、お嬢様は何かご存知ではありませんか?」


(言えた……!)


 ジルは苦労して舌を動かした。国王陛下の奴隷だったと言っておけば、持っている知識に変に疑いを持たれることもない。こんなに考えながらしゃべったのは初めてだ。舌と脳みそが焼け付くようだった。

 リリーが口を開けて声を上げる。しかしパーティの時とは打って変わった仕草に何かを思う間もなく、ジルの意識は彼女の言葉に吸い込まれる。

「そうだわ! どうして今まで忘れていたのかしら、あなたが北部出身だと聞いた時に話しておけば良かったのにね。知らないようだから教えてあげるけど、あなたの前の主人、つまりガイエン王国の王は……」

 リリーが少し言葉を選んで言った。

「崩御されたそうよ」

「っ……!」

 ジルは少なからぬ衝撃を受け、目の前が暗くなるような感覚に囚われた。父が死んだ……あの父が? 片膝を着くジル。

 始めはいくつもの国に分裂していたノースランドを平定し、強大なガイエン王国を築いた、北の王。

 ジルの父親としての彼は、強く恐ろしく、誰よりも家族を愛した、尊敬するに足る男だった。

 あるていど予想はしていた。ぼんやりとはっきりしないあの日の記憶の中でも、父が血を吐く瞬間のことは鮮明に覚えている。ジルとて赤子ではない。生きる者には誰でも死が訪れるということを、頭では理解していた。

それでもやはり、直接父が死んだと聞かされるのは辛かった。

普通死者は丁寧に弔われ、国王ともなれば荘厳な葬式が行われる。遺された者は、死者の衣服に身を包み、硬く冷え切った体を棺に収めた死者の姿を思い出として記憶するものだ。けれどもジルは違った。ジルの中では、ついさっきまで元気そのものだった父が、いきなりにして豹変し、断末魔の表情を残して消えたのだ。今もその苦痛の色が残像として脳裏にこびりついている。

そしてリリーは打ちのめされるジルを待たず、さらなる驚愕の事実を告げた。

「噂では国王の弟がやったそうよ。なんでも亡くなった王様が遺書を書いたんだけど、その内容が彼の弟よりも息子の方を贔屓するもので、怒った弟が王を殺害。正式には病死ということになっているけど、それはあり得ないって皆言ってるわ。彼の息子は行方不明とのことだけど、十中八九生きていないでしょうね」

「おじ――」

「ん、なぁに?」

「い、いえ……何でも」

 慌てて口をつぐむジル。国王の弟は、ジルから見れば叔父にあたる。その人物が王を殺したというのだ。

(叔父上が!? 叔父上がやったというのか!)

 池に突然石を投げいれたように、ジルの心がざわついた。

彼の叔父……ケイラン叔父のことならよく知っていた。北部人なら往年の彼の業績を知らぬはずはなかった。兄と共に戦場を駆け、数多の敵を滅ぼした将軍、ドーリス王が勇猛果敢で名を馳せたのに対して、彼は智謀と策略が武器だった。しかしジルの前では気のいい叔父さんで、一緒に遊んでもらったこともある。その彼が父を殺したなど、俄かには信じがたい。


『兄上には息子がいる。まだ子供だが――』


「ぁ……!」

 その時、ぼんやりして思い出せなかったあの日の記憶が蘇った。導火線を火花が走るように、今まで不可解だった謎が解けていく。

(そうだ、父上を兄上と呼ぶ者は一人しかいない。それにあの声……あれは叔父上だ)

 今まで気付かなかった自分が不思議だった。自分から目を背けていたのだ、あの日の記憶から。父ばかりに気を取られ、他のことに目が向いていなかった。

 リリーは声を落とし、さらに言った。

「これはお父様の会話を盗み聞きして知ったことだから内緒なんだけどね、裏で帝国が糸を引いてたらしいの。帝国が領土拡大に熱心なのは知ってるでしょ? その帝国の拡大政策に対してドーリス王は強硬な姿勢を崩さなかったそうで、従属的な姿勢を取ろうとする弟と意見が割れてたみたい。そこで帝国は彼にノースランドでの地位と帝国との同盟っていう餌を与えて、国王を暗殺させたの。遺言状の問題が決定的な役割を果たしたのは間違いないだろうけど、半分は帝国がやったってことね」

 叔父に加えて帝国も父の死に関わっていた……もう何も言えないジルを見て、勘違いしたリリーが朗らかに笑う。

「フフフッ、まだあなたには難しかったかしらね、政治の話は」

 リリーが足を組み、熱く火照った息を吐き出した。

「はぁ~~、暑いわね。ロスリムは湿気が多いし、温度も高いから。それにパーティーのせいで興奮しちゃったみたい。汗が気持ち悪いわ」

 足を組んだことで絹のスカートが動き、音もなく彼女の白く健康的なふくらはぎを露わにする。

 帝国、王国、そして父と叔父・・・・・・それらのことを必死で飲み込もうとしていたジルは、リリーがこう言った時、とっさにはその意味を理解できなかった。


「ねぇ、ジル。わたしの足・・・・・・舐めてくれない?」


「は? もう一度言ってください」

 いつもと変わらない口調で答えるリリー。

「舐めてと言ったのよ」

「なに……を?」

「わたしの足って言ったでしょう? もう、おバカさんね」

(この人は何を言っているんだろう、気でも狂ったのか?)

 舐めるなど、犬猫のすることだ。それを他人に強要するとは失礼だと思い、ジルは顔に不快感を浮かべながら言った。

「どうして僕がそのようなことをしなければならないんです。あなたのことが理解できません」

「それはそうでしょうとも。まだ出会ったばかりよ。わたしについて何を知っていると思っていたの? ああそれと、なぜあなたがわたしの体を舐めなければいけないかですって? そんなの、わたしがそう望むからに決まっているわ。他に何か理由があって?」

 まるで自分が神であるかのような物言いに、ジルは呆れたように首を振る。

 まだ出会ってから一日しか経っていないと彼女は言ったが、それでもリリーの性格や好みは大体把握したと思っていた。

まず一目で分かるのは、本当に美人だということ。そして父親が大好きだということ。女の子には珍しく『ドーチス』を嗜んでいること。きっとちゃんと教わったり、上手な人と対戦したりすることが極端に少なかったせいだろう、彼女のゲームの腕はとんでもなく下手だったが、それでも上達の見込みはありそうだったこと。身分の低い者にも気さくに話し掛け、少々の無礼は気にも留めない大らかさを持つこと。一方で、正装をするような場では完璧な淑女を演じられること。

どのリリーも偽物ではないはずだ。

ならば今目の前にいるこの少女は何者だ? 奴隷という立場の弱い者に無理な要求を押し付け、しかもそれを何とも思っていない。ジルはがっかりして呟いた。

「あなたがそんなに傲慢な人だとは思わなかった」

「傲慢……?」

 リリーがそれまでの微笑みを消し、声のトーンを落とす。彼女の雰囲気の変化を察した侍女たちが仕事の手を止める。

「あなたこそ何を寝ぼけたことを言っているの? あなたはわたしの奴隷、わたしのおもちゃ、わたしの犬よ。 犬なら主人の言うことを聞いて、床でも地面でも何でも舐めなさいよ。わたしの足を舐めさせてあげるんだから、喜んで尻尾を振るのが当然でしょうに」

 言い返す言葉に詰まる。もう何を言っても彼女とは分かり合えないだろう。ジルは自分が奴隷であることも忘れて、四歳年上のリリーに忠告をした。

「・・・・・・それが人の死を知ったばかりの者に言う言葉ですか?」

 しかしリリーは今度こそさっぱり分からないといった様子で首を傾げる。

「死って……ああ、ドーリス王のことね。別に前の主人ってだけなんでしょう? 大して重要でもないはずよ。違う?」

 確かに奴隷にかける言葉としては正論だった。奴隷が主人に憎しみと恐れ以外の特別な感情を抱くことなんてない。まれに、寛容だったり気前が良かったりする主人を好ましく思うこともあるかもしれない、主人が変われば、その優しかった以前の主人を懐かしく思うかもしれない、しかしそれは義理や忠誠というより損得勘定だ。

 だがジルの嘘のせいで彼女は勘違いをしていた。死んだドーリス王は彼の父だ。父が重要でないと言われて、ジルは言いようのない怒りを覚えた。その勢いのまま、ジルは彼の名誉と尊厳を踏みにじる命令に反抗した。

「あなたの足を舐めろですって? もちろんお断りします」

背中に庇ったものを絶対に奪われたくないという決意に満ちた表情。落ちぶれても王族だ。幼い彼にも誇りというものがあった。

 リリーはそれを見て微笑んだ後、召使いに声をかけた。

「ねぇ、誰か執事を呼んできてちょうだい」

 少女の召使いがドアの向こうに消え、やがて初老の男性を連れて戻ってきた。

「はいお嬢様、何なりとご用命を」

「ジルが言うことを聞かないの。何とかしてくれない?」

「かしこまりました。この奴隷ですね」

 つかつかと歩み寄ってくる執事。その手には何かが握られている。

 そしてヒュッという風切り音を聞いたかと思うと、ジルは右の肩から背中にかけて激痛を感じた。たまらずうつ伏せに倒れ込む。

「ッ! ・・・・・・ゥゥ・・・・・・」

 鞭だ――そう悟った瞬間、また痛みが走る。


ビシッ!


「ゥアッ!」

 薄い衣服が裂け、剥き出しの皮膚に赤い筋が刻まれる。鞭で打たれれば、最初に一瞬だけ火傷するような熱を感じた後、凍てつく氷に押し付けられるような耐えがたい痛みを長時間味わうことになる。

 何もされない内に強がるのと、痛みを知ってから強がるのとでは意味が違う。腹の底から絞り出すような、低くかすれた声でジルが言った。

「イヤ……だ」

 リリーが歌うように命令する。

「もっとよ。壊れない程度に痛めつけて」


ビシッ! バシッ! ビシュッ!


 執事が踊るように腕を振る度、革の鞭が鋭く打ち下ろされる。あまりの痛みに体が鈍感になる頃、やっとのことで鞭の嵐が止んだ。

「ハァ、ハァ、ハァ……ウッ! グゥ……ハァ、ハァ……!」

 ぼろ雑巾のように床に転がるジル。もう反抗する気力もない彼の傍にリリーが屈み込む。

 見上げるとリリーの顔があった。彼女はその美しい顔を喜悦に歪ませ、その輝く瞳にジルの死んだような姿を映した。

「あらあら息を荒げちゃって。わたしずっと思ってたんだけど、北部人が忍耐強いのって被虐趣味があるからでしょ。楽しんじゃだめよ? あなたはわたしを楽しませなくちゃならないんだから。さあ、わたしの言うことを聞く気になった?」

 彼女の嗜虐的な笑みを目にした時、ジルが守っていた最後の砦も壊された。

 どうやってもこの状況から抜け出す術はない。守ってくれる者もなく、情けをかけてくれる者もない。自分から立ち向かうにはこの体は弱すぎた。

「…………」

 生き物の精気を吸い取って腐食させるカビのように、諦めがジルの体から自尊心を奪っていく。

 正しく気高い行いは、それを行う者にはいつだって辛い選択だ。反対に、堕落した行いほどそれを行う者に優しい。

 床を這って進み、リリーの足に口を付けた時、名誉と卑屈の間で荒れていた葛藤が静まった。プライドなんて冗談だとでも言うかのように。

細い足首を舐めようとしたジル。しかしリリーはジルの顎に靴を当てて持ち上げ、彼女を方を向かせる。

「つま先からじゃなきゃイヤよ。靴を脱がせてちょうだい。それに、ちゃんとわたしの目を見て。わたしの足を舐めるあなたの顔を眺めるのも楽しみの一つなんだから」

 イスに腰掛けたリリーが足を持ち上げ、誘うように足先を回す。ジルは鞭の傷で痛む背中を庇いながら、彼女の小さな靴を脱がす。

「ふぅ……そうよ、それで良いの。次はどうしたら良いか、分かるでしょ?」

 ジルは一瞬の硬直の後、リリーの足の指を咥えこんだ。周囲の侍女たちが彼に視線を注ぎ、注意を向けているのが分かる。

口の中に自分ではないモノが入り込み、彼女の汗の味、体の匂いと一緒になって五感を刺激する。

 言われた通り顔を上げ、リリーの視線を絡め捕るジル。彼女は恍惚とした表情で彼を見下ろす。

「あなたはわたしの奴隷、わたしの犬、犬ならご主人様を舐められて嬉しいでしょ? ん、はぁ……良いわよジル、そうやってわたしにあなたを見せて。うふ……んふふ……あなたの姿、とぅってもいやらしい……っふあ! ……ふぅ、上手ね、ジル。今度はこっち……」

「ん……じゅる……ちゅ…………」

 夜の静かな部屋では、下品な水音と湿った吐息の音がやけに響く。

 リリーが空いた方の足でジルの頬を撫で、潤んだ瞳で言った。

「ああ……好きよ、ジル。あなたを買って良かった……」

彼女の瞳に囚われたジル。その表情からは何の感情も読み取れなかった。


彼は感情を深海の底に捨て、残ったわずかな欠片を心の奥深くに隠した。誰にも見つからぬよう、誰にも壊されぬように……

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