第三話:『金色のお姫様』前編
奴隷商人に捕らわれたジルは、皮肉にも当初の計画通りに移動した。目前に迫っていたティレの港で貿易船に積まれ、ノースランドの東端を回ってイーストランドに到達する。そして船はさらに帆を進め、イーストランド南東部の大都市ロスリムでジルたち奴隷を下ろした。
人が人に値段をつけている・・・・・・ジルはその様子を冷めた目で眺めていた。まだ自分の番は来ない。
鎖で数珠繋がりにされた奴隷たちが一人ずつ台の上に立たされ、集まった客が値段を叫ぶ。最後に一番高い値を言った者が買う仕組みだ。至るところでそんな光景が繰り広げられている。
奴隷には様々な種族の者がいた。人間、獣人、精霊種、見た目だけでは分からないが魔族もいるのだろう。
それに引き替え、買い手や売り手、つまり奴隷でない者たちは全て人間だった。ちらほらと褐色の肌が見える。そしてこの暖かく湿った塩混じりの風。ずっと暗い中に閉じこめられてきたジルにも、ここがノースランドでないことは分かった。言葉の訛り方からいってイーストランドのどこかのようだ……ジルは今いる場所に見当をつけた。
気付けば自分が一番前に立っていた。四肢を拘束する鎖が引かれ、数段高くなった台に上らされる。客たちの視線が自分に注がれるのを感じた。
まず売り手が声を張り上げて商品の魅力を訴えるところから始まる。
ジルは目を閉じる。しかし耳を塞ぐことはできなかった。
ロスリムの一等地に建つ豪華な邸宅の一室で、女の召使いが少女の長い金色の髪に櫛を通していた。
少女の名はリリー。南部イーストランドを支配するゴルドヴァ王国の名門貴族、ソジュ侯爵家の一人娘だ。
今年で十六になる彼女は王都でも評判の美人で、結婚を申し込む名家の子息は後を絶たない。それを疑う者も、直にリリーを見れば考えを変えるだろう。
良く手入れされた長い金髪、宝石を埋め込んだような青い瞳、細く整った鼻筋、柔らかみを帯びた頬の輪郭、まだ何者にも汚されていない桜色の唇・・・・・・
コルドヴァの天使とも呼ばれる彼女は、今は一時的に王都を離れ、父と共にロスリムの別荘で春を過ごしていた。あと数年も経たない内にどこかへ嫁いでいくだろう娘に、彼女を溺愛する侯爵が誕生日の贈り物としてこの旅行を提案したのだ。父親にべったりのリリーが断るはずもなかった。
そしてリリーへの誕生日の贈り物はもう一つある。
「お嬢様、これでよろしいですか?」
メイドの言葉を聞いてもリリーはしばらく答えず、念入りに鏡の中の自分を確認していた。ようやく納得したのか、よしと頷いて立ち上がる。
「お父様の方はもう準備を終えられたの?」
「ええ、外で馬車が待っております」
「もうお父様ったら、わたしとの外出の時はいつもそうなんだから。王国の紳士ならもう少し慎みを持たなければね。だって急かされているようじゃない?」
「ええ、ええ・・・・・・そうでございますね」
リリーは何一つ不幸など知らない華やかな笑みを浮かべ、待ちに待った買い物にでかけた。
ロスリムの港からほど近いところ、イーストランドでも有数の大市場の賑わいに近付くにつれ、馬車の窓から外を眺めるリリーの表情は目に見えて興奮し始めた。彼女の隣に腰掛けてその横顔を見つめるソジュ侯爵の顔も、段々と元気を取り戻していく。
政治に明け暮れ、胸の悪くなるようなことも数多くしてきた侯爵にとって、リリーだけが安らぎだった。若い頃から高みを目指し、より強い権力を求め、侯爵家の名を汚さぬ為に生きてきた侯爵。もちろんそれらを捨てるつもりなど毛頭ない。しかしそれを抜きにして、自分の娘には幸せになってもらいたかった。
(その為にも、リリーの結婚相手は慎重に選ばねば。下手な者には嫁がせぬ。この子が死ぬまで苦労をせぬよう、この大陸で最も強き者……やはりこの件、多少無理をしてでも成功させる……)
リリーが窓の外を指差して歓声を上げる。
「着いたわ! お父様、ねえお父様!」
「……ああ、そのようだ」
「ぼんやりしないでお父様。早く行きましょう、皆売り切れてしまうわ」
侯爵の手を引いて馬車を降りるリリー。普段他の人間には絶対そんなことはしないが、父親だけは別だった。彼女に淑女らしく振舞って欲しいと思っている侯爵も、今のリリーに小言を言う気にはならなかった。誕生日を祝う日くらいは甘えさせてやろう。ロスリム近郊の貴族や有力者を招いた今夜のパーティでそれらしく振舞ってもらえばそれで良い。
二人はごった返す人の群れの中、お付きの騎士と使用人が体を張って空けた道を歩いていく。
リリーは見通しが利かずに顔を曇らせ、必死に背伸びしている。侯爵はそんな彼女を抱き上げる。
「きゃっ! お父様下ろして! もう子供でもないのに恥ずかしいわ」
「この方がよく見えるだろう?」
「……もう、子供扱いして」
頬を小さく膨らませるリリー。しかし侯爵の肩から下りるつもりはないようだった。高いところに上った彼女は、人ごみの向こうで行われている取引に視線を移す。
「二ゴールド!」
「金貨二枚出ました! 他にはないですか!」
「二ゴールド五〇シルバー!」
「さらに銀貨五〇枚上乗せです! 他には! 他にはいませんか! ……はい打ち切りです! 二ゴールド五十シルバー!」
カランカランと手に持った鐘を鳴らす商人の男。台の上で立っていた奴隷が鎖を引いて降ろされ、後ろの奴隷と数珠繋ぎにしている鎖を外される。棒を持った屈強な警備係がそれを監視している。
「ああ、買われちゃった。早くしないと本当に売り切れてしまうかも」
「お前がもう少し早く準備を終えていれば、そんな心配は要らなかったんだが」
「お父様、ちょっと静かにして」
リリーは首を伸ばして奴隷市場を注視する。
「どうだいリリー、好みの奴隷は見つかったかな?」
「う~ん、どれもぱっとしないわ。わたしより年下の男の子が良いって言ったけど、誰でも良いってわけじゃないみたい」
「お前は母親に似てわがままだからな。何なら奴隷商人に目当ての奴隷を探させても……」
「あの子よ!」
リリーが指差して叫んだ。
「……あれか? 中年の女ではないか」
「違うわよ! あの黒い髪の男の子!」
「はい寄った寄った! 今度はこいつを売るよ! 見てくだせぇ、この白い肌。どう見てもノースランド出身の子供でさぁ! 北部人の奴隷をお持ちの方ならよくご存知でしょう、こいつらは無茶な仕事にもよく耐えます! こいつはまだ子供ですが、もう何年かもすれば忍耐強い北部の男になるでしょう! 病気も無し、健康そのもの! しかも今は薄汚れちゃいますが、よく見れば上品な顔つきでしょう? こんな上物はめったにいませんぜ! さあ買った買った! 最初は二ゴールドから!」
ジルはひたすら視線を落とし、誰とも目を合わせないようにしていた。自分についての無遠慮な説明が為され、そして自分の値が上がっていくのを聞くことは屈辱的だった。
(僕はモノじゃない……僕はモノじゃない……モノじゃないんだ……!)
拳の中で爪が突き刺さる。
「出ました八ゴールド! 今日一番の高値だ! まだいますか! これで決まりですか? はい打ち――」
「一〇〇ゴールド!」
勝ち誇った女の子の声が響く。鈴を鳴らしたような声に全員がシンと静まり返った。
ジルが顔を上げると、ちょうど人ごみが二つに割れ、上等な身なりをした男の肩に乗った少女が歩いてくるところだった。
驚いて道を空けた客たちが、少女と彼女を肩に乗せた男に気付いて頭を下げる。
「侯爵さま……」
「ソジュ侯爵閣下!」
「リリーお嬢様……なんとお美しい」
ジルとリリーの視線が交錯する。無表情のジルにリリーが笑いかけた。とびっきりの笑顔を向けられ、ジルは奇妙な感覚に襲われた。
奴隷商人がポカンと口を開けてうわ言のように言った。
「金貨……百枚」
手から滑り落ちた鐘がカランと鳴った。
ジルは手枷を外されたが、鉄の首輪と足枷は外されなかった。侯爵の屋敷にいる他の奴隷も皆そうだった。
今彼はリリーの部屋にいる。市場からは騎士に連れられて屋敷まで行き、その後湯浴みをしたり着替えたりと身なりを整えさせられた為、直接二人が言葉を交わすのは初めてだ。ベッドに腰掛けてジルを見上げるリリーが、彼に名前を聞いた。
「……ジルです」
リリーは顎に指を当てて考える仕草をして、突然目を輝かせた。
「古代語で『春』という意味ね! すごいでしょ、ちゃんと勉強してるんだから」
ジルもそれは知っていた。春に生まれた彼に、彼の父が名付けたのだ。あまりこういうことに凝らないのが父らしい。そう考えた矢先、あの光景が脳裏に蘇った。頭の奥がズキリと痛む。
「っ……」
顔をしかめるジルには構わず、リリーは一人でしゃべり続ける。
「ノースランドの人はよく古代語を名前に使うんだって。なんだか素敵よね。わたしの名前にも意味があったら良かったのに……でも前にそう言ったら、お父様が、『わたしたちが古代語を使わないのは、名前に運命を縛られてしまうからだ』って言ったの。じゃあノースランドの人はどうして古代語を使うの?」
それが自分に向けられた問いだと気付くまで、ジルは数秒を要した。
「えっと……」
そんなこと考えたこともなかった。特異な慣習でも、その中で生きてきたジルにとっては取るに足らない当たり前でしかなかったからだ。
リリーは答えを待たずに口を開く。
「あ、そうだ、今夜はパーティーがあるのよ。知ってた? あのね、わたしの誕生日をお祝いする為にお父様が催してくれたの。わたし今年で十六歳になるんだから。ところであなたはいくつ? 十歳くらい?」
「十二です」
「へぇ! わたしより四つも年下なのね」
それからもリリーはよくしゃべった。ジルの知らない固有名詞ばかりで全然ついていけなかったが、そんなことはお構いなしだ。
一つ分かったのは、ここがイーストランド南部の大都市、ロスリムだということ。もちろん地図の大体どこに位置するのかも分かる。家庭教師に無理やり憶えさせられた都市名を自然な会話の中で聞くのは変な感じだった。
最初はジルも緊張していたが、奴隷と主人ではなく、姉と弟のような距離感で話すリリーを見る内に、少し気が楽になった。奴隷と言えば犬か家畜並みに扱われるというのが彼の常識だった。それから言えば、鎖に繋がれているとはいえ、今の彼は随分まともな扱いを受けている。少なくとも命を狙われたり、騙されたりするのよりはマシだ。
途中から話を聴くことを放棄していたジルの耳に、ふっと息が吹きかけられた。びっくりして飛びずさるジル。いつの間にかリリーがジルの前に立っていた。
「びっくりした? 女の子の話を聴いてなかった人にはお仕置きよ」
リリーは腰に手を当てて怒ったポーズを取っていたが、恥ずかしさで耳を赤くするジルを見て表情を緩ませた。
「ふふふ、そんなにびっくりしなくても良いのに」
ジルが黙っていると、リリーは顎に指を当てて考え込み、ポンッと手を打って言った。
「退屈しているのなら、ゲームをしましょう。だってまだパーティまで時間があるもの」
「ゲーム?」
部屋の隅から何か道具らしきものを持ってくるリリー。ジルは女の子がよくやるままごと遊びかと思ったが、彼女が持ってきたのは意外にも、盤上遊戯の道具だった。
二人が興じているのは、実際の戦争を真似た『ドーチス』というゲームだ。ルールは複雑で習得する難易度は高いが、大陸で古くから上流層に親しまれている。出身国の違うジルも知っているほど有名だ。
単純に言えば、二人のプレイヤーが盤上で自軍の駒を動かし、相手の大将を討ち取るか、相手の駒を半数以上討ち取れば勝利となる。
しかし場合によっては勝利条件を変え、守備側が規定のターン数どこかを守れば勝ち、敗軍側が損害を押さえて戦場から撤退すれば勝ちなど、様々な遊び方がある。両軍の駒数も同じとは限らないし、戦場の形もまちまちだ。ちなみに数ある戦争を模した遊戯の中では珍しく、『ドーチス』においてプレイヤーは全ての駒を同じターンに動かすことが可能だ。
今回リリーが設定したのは川を挟んで両軍が睨み合う形で、ジルが守備側、リリーが攻撃側だ。攻撃側のリリーにはジルの二倍の駒が与えられているが、その代わり三十ターンを数える前に全軍の半数以上が川を渡らなければ敗北となるので、一概に有利とも言えない。守備側のジルは、川を渡る隙だらけの相手を待ち構えることができるからだ。
ちなみに二倍の駒があるというのは、必ずしも駒の数が二倍なのではなく、軍を編成する為に使える点数が二倍だという意味だ。例えば一般的な歩兵なら一つにつき一点、騎馬兵なら三点などと決まっていて、自分に与えられた点数内なら、好きに駒を選ぶことができる。ゲームが始まるまで相手の駒を見ることはできない為、如何に相手の弱点を突くような編成をするかも重要な駆け引きだ。
リリーがルールを説明する間、ジルは黙ってそれを聴いていた。駒の動かし方など知っていることが多々あったが、人によってルールが違うことはよくあることだったので、口を出さなかった。ノースランドとイーストランドでは大分ルールが異なるのではないかと心配したが、そうでもなかったようで、ジルは一度聴いてすぐに理解した。
リリーの先手でゲームが始まる。リリーは足の速い駒、馬に乗った騎馬兵と、地竜に乗った竜騎兵(『騎兵』とはその二つの総称)を前衛に据える。抜群の突破力を誇る竜騎兵を中央に、両翼に小回りの利く騎馬兵を配置している。一般的な突撃陣形だ。
最初の数手、ジルは駒の位置を調整するだけで、大きな動きは見せない。
リリーの前衛が川に入り始める。地上では無敵の彼らも、水の中に入ると途端に動きが鈍くなる。その隙を埋める為、後衛に配された砲兵が火門を開いた。曲射された砲弾がジルの部隊に降り注ぐ。リリーとジルがサイコロを振り、出た目から被害が計算される。ジルがいくつかの駒を盤の外に取り除いた。
リリーの部隊は前進を続け、中衛の歩兵部隊も川に入る。
ジルが軍を動かし始める。前衛に砲兵を置き、川岸の手前までそれを進める。
「砲兵を矢面に立たせるなんてバカね、慣れてないから仕方ないけど」
リリーの前衛が川の端に到達しそうになる。もう一手で川岸に着くだろう。
「初心者でも手加減しないんだから」
そしてリリーの前衛が川から上がって砲兵に殺到するが、竜騎兵と騎馬兵は一ターンに許された移動距離の限界に達し、砲兵の目の前で停止する羽目になる。
「ふ、ふん! 運が良いのね。はいあなたの番、早く撃ちなさいよ」
リリーの言うとおりに、ジルは横一線に並んだ砲兵に大砲を撃たせた。
二人がサイコロを振って効果を計算する。距離や自然条件によって細かく設定された大砲の命中率計算表を広げ、じっとそれを見つめるリリー。
「え……! 至近距離だとこんなに当たるんだっけ!?」
「知らなかったんですか?」
それを分かって突っ込んできたと思っていたジルも少し驚く。
とにかく計算をしていくジル。リリーの前衛からひょいひょいと騎兵が除かれていく。残った前衛の姿を見たリリーが呟く。
「穴だらけ……」
「あなたの番です」
「む、むぅ……でもこれで砲兵は倒せる」
穴だらけと言っても三分の二ほど残っている前衛を使い、リリーがジルの砲兵を壊滅させる。結局彼らは一回撃っただけでその仕事を終えた。
次のターン、ジルが残りの部隊を前進させ、いよいよ両軍が接近戦に突入した。
最初は攻撃力に優れるリリーの前衛が押し込んでいったが、ジルは先ほど相手の前衛に空けた穴に歩兵を浸透させ、小規模な乱戦を発生させ、騎兵の不得意な戦い方に持ち込む。状況は一進一退だ。
しかしジルが全軍で迎え撃っているのに対して、リリーの方にはまだ大量の歩兵で構成された中衛が残っている。そこでリリーは膠着する前線の後ろで歩兵を二つに分け、両翼からジルの軍を包囲しようとする。
「あれ、川で身動きが……」
リリーの軍は川を渡る途中でジルの軍とぶつかった為、前衛は水から出ているが、中衛はほとんどが川に足が浸かった状態だ。川の中では移動力が下がる為、思うように部隊を動かせない。かといって前方には騎兵がいて進めない。リリーの軍はジルの二倍強の駒数だが、実際に戦っているのはその半分足らずだった。
それまで前衛を食い止めることに集中していたジルが、両翼後方の少数の歩兵を動かし始めた。リリーは包囲される危機を感じたが、大した数ではないと割り切って無視する。けれどジルはその少ない歩兵を川岸まで到達させたかと思うと、駒を一つ一つ持ち上げていった。すると歩兵の駒の底にある窪みから外れるかたちで、緑色の木片が残される。
緑色はリザードマンを意味する。木片とちゃんとしたリザードマンの駒とを取り換えていくジルを見て、リリーが驚きの声を発する。
「あ……!」
――リザードマンは魔狼族、龍族と同じ魔族の一種で、頑強な肉体と高い適応能力を持つ優秀な種族である。魔族に共通する性質として変身能力を持ち、人間と変わらない姿から、尻尾を生やして四足歩行する巨大な蜥蜴の姿に変化する。途中で変身を止めることで、人間の四肢を保ったまま鱗を生やし、筋力と防御力を高めることも可能。しかし完全に変身した時の力には劣る。リザードマンお得意の透明化能力も、完全に変身した時にしか使えない――
実際の戦争を盤上で再現する為に、『ドーチス』にはリザードマンという兵科が存在する。盤上で駒を使うという都合上、透明化こそできないが、歩兵の皮を被って相手を油断させ、ここぞという瞬間にリザードマンに変身して戦う。他にも、魔狼族と龍族が同じような使い方をされる。
ジルはごく少数のリザードマンを部隊に混ぜていたのだ。
リザードマンは長い尾と四本の足、低い姿勢を生かし、水中を滑るように動き回れる。ジルがリザードマンの部隊を川に侵入させても、彼らの動く速さは全く変わらない。あっという間にリリーの中衛を挟みこみ、横っ腹に食いついていく。
元々個々の戦闘力が高いリザードマンは、動きの鈍った人間の歩兵を次々と倒していく。
「でも数は多くないわ。これならすぐに倒せる」
その通りだった。水中のリザードマンは強いが、無敵ではない。数には勝てず、リリーの中衛に突破されてしまう。
「もう手は尽きたでしょ?」
ジルが小さく頷いた。
「……ええ、試合も終わりましたけど」
「え、うそ! あ……時間切れかぁ」
玉を弾いてターンを記録していた道具が、三十ターンを経過したことを教えていた。そして数えるまでもなく、リリーの駒は大多数が川を渡っていないままだ。ルールにより彼女の負けだった。
リリーが椅子の背に体を預け、ため息を吐く。
「はぁ……負けちゃった。リザードマンなんて反則よ」
反則呼ばわりされたジルが思わず言い返す。
「どうしてですか?」
「え、だって普通リザードマンなんて使わないでしょう? 魔族って駒あたりの点数がすごく高いし、あの気持ち悪い種族を軍隊に入れたい人なんていないわよ。あ、でも龍族や魔狼族は好きよ。格好いいもの」
ジルは首を傾げた。確かにリザードマンは美しくはない。けれどもその頑丈さや怪力には憧れる。ガイエン王国の軍隊にもごくごく少数だけリザードマンがいると聞いている。寒さを好まないせいで北部ではあまり見ない種族だったが、その反動か、ジルや、ジルと『ドーチス』をやった者は、よくリザードマンを使う。
「……? 定石を使ったつもりですが」
「定石?」
リリーが聞き返す。
「ジルはやっぱりこのゲーム知ってたのね? ルールを説明したわたしがバカみたいじゃない! はっ、もしかしてそれも計略の内!? あなたって可愛い見た目とは裏腹に策士だったのね!」
真実は違うのだが、確かに騙したと解釈されても文句は言えない。というよりジルは彼女の奴隷だ。どう扱うのも彼女の自由、煮て焼いても罪には問われない……
ジルはそこまで考えて初めて、奴隷という理不尽なまでに低い身分のことを理解した。
ノースランドにも奴隷はいる。しかし王宮で暮らす国王の息子の目に触れるようなところにはあまりいなかった。いたとしても注意を向けなかっただろう。普段食べている食事でさえ、北部の硬く貧しい大地を農奴たちが耕して作った物だったかもしれないのに。
奴隷になって初めて彼らの境遇に同情したのは、何もジルが他人のことを考えない傲慢な人間だからではない。そもそも身分が違い過ぎて、想像力が働かないのだ。
今は違う。
「…………」
他人に生殺与奪の権利を握られた今、目の前で機嫌を損ねている少女の命令一つで首が飛ぶ。
しかし幸いにもリリーは本気で怒ったわけではないらしく、すぐジルに「どこで習ったの?」とか、「初めて負けた」というような趣旨のことを言っていたが、ジルは短く。
「北部で」
と答えただけだった。
ジルは与えられた部屋で一人ベッドに寝転がっていた。疲れていたが、眠る気にはなれない。どうせすぐに起こされるからだ。
というのは、リリーがジルを買ったのは誕生日の贈り物としてであり、奥ゆかしさとは無縁の彼女が、もらったばかりの贈り物をパーティーで自慢したいと考えるのは自然な流れだった。
これからリリーの誕生パーティーで顔を合わすであろうゴルドヴァ王国の人間たちのことを考えていた。貴族や富豪、王都からもわざわざ招待客が訪ねてくるという。
(『――あの気持ち悪い種族――』……か)
リリーの言葉が頭に浮かぶ。
それは人間を至上とするイーストランド南部に独特の考え方なんだろうか。
彼女と話す前に執事を務める初老の男性から聞いた話だが、リリーはゴルドヴァ王国で五本の指に入る名門貴族、ソジュ家の一人娘らしい。名前くらいは聞いたことがあった。
イーストランドでは人間と獣人の間に根深い対立があるという。貴族であるリリーや、彼の周りの人間にしても、おそらく獣人などの亜人種を蔑視しているに違いなかった。
世間知らずの少年も、種族間の対立という問題の深刻さは噂に聞いて知っていた。ノースランドでは比較的穏やかだと言われるが、それでも相手が特定の種族だからという理由だけで暴力を振るう者は少なくない。イーストランドではどうだろうか。
北部に獣人の王国、南部に人間の王国があり、その両大国が長年争ってきた歴史を持つこの地方。国と民衆が一緒になって種族意識を高めてきた為、多種族はほとんど排斥され、奴隷にされてしまった。
大陸一豊かで、ロスリムの街も想像以上の賑わいを見せていたが、おそらくそれは、他種族を徹底的に弾圧した果てに得た秩序なのだろう。南部で言えば、人間種が上に、多種族はその下に。それが崩されることはあってはならない。そう考えると、リリーが無邪気にも人間の駒ばかりを選んで『ドーチス』をしていた姿でさえ、寒気を感じさせた。
「……僕が人間種でないことは隠さなければ」
ジルはまた一つ恐怖を知った。異国の地で敵に囲まれる恐怖を。
・人型種族
…大きく分けて、人間、獣人、精霊種、魔族、混血種の五つ。獣人には系統があり、犬(狐、狼を含む)、猫(虎、豹を含む)、熊、牛(水牛を含む)、兎、羊、などが代表的。精霊種にはエルフ、ドワーフ、ニンフの三種がいる。魔族は、魔狼、龍、蜥蜴がおり、いずれも変身能力を具える。混血種は子孫を残せない。