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アイアンハート  作者: 一花八果
第一章:『銀色の姫君』
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第一話:『逃亡者』その三

☆  ★  ☆  ★  ☆




 ジルは真っ暗闇の中を駆けていた。


 逃げなければ……それだけを考えながら、体がバラバラになりそうなくらい全速力で走る。


 その時後ろから声がした。


 ジル……助けて……ジル…………ジル………………


 声の主は誰か分かっていた。助けなければ……そう思って引き返そうとするが、誰かに押さえられたように体の向きが固定されている。


 いや、誰かが自分にそうさせているのではない。他ならない自分が、引き返すことを拒んでいるのだ。


 死と苦痛の潮が満ちる。足を踏み出すたびにずぶずぶと体が沈む。息が出来ない。


 それでも体は勝手に逃げ続ける。


 でも助けたい、その想いが後ろからジルの体を引っ張る。


 両方とも余りに強い力、ミシミシと骨が軋む。ブチブチと筋が切れる。


 やがて身体は半分に引き裂かれ、一方は砂の沼の中をミミズのように這っていき、もう一方は声の主を求めて波に飲み込まれた。


 意識はただ一人、どちらの身体からも置いていかれ、虚空に倒れ伏す。


 水辺に生えた木、海に浮かぶ岩、少しずつ少しずつ、水面が上がっていく。


 水は口に入り、肺を満たし、息が止まる、苦しさに嘔吐く。


 遠く頭上に揺れる水面に手を伸ばし、彼女の名前を呼ぶ。


何度も、何度も、無意味に……何度も……何度も…………



「――――っ!」


 ジルは汗だくの体をベッドから起こす。呼吸が乱れ、空気を欲して肺が悲鳴を上げている。


「ハァ……ハァ…………」


 ふと横を見ると、アルベルヒが二段ベッドの梯子に足をかけた姿勢でジルをのぞき込んでいた。


「……大丈夫か?」


 心配そうなアルベルヒの視線を見て、ジルは自分がうなされていたのだと知る。


「……何か言ってたか?」


「え? いや、意味のある言葉は何も」


「そうか…………起こして悪かった」


「はは……気にするなよ、もう慣れた」


 微笑むアルベルヒから顔を背け、ベッドから這い出るジル。


「顔を洗ってくる」


 その背中を見送りながら、アルベルヒは一人呟いた。


「聞かれたら、どうだって言うんだよ…………」




 音を立てて顔を洗い、地面に水滴をぶちまける。


 上着を脱ぎ、濡れたままの体を夜風にさらす。そのまま静かに腰を下ろし、瞑目して剣の柄に手を置いた。


「…………」


 そうして不動のまま、体が寒さに耐えかね、早くベッドに入りたいと訴えるようになるまで、頭が寒さ以外の感情に鈍感になるまで、じっと待つ。


 ジルはうなされて目が覚めた時、いつもこうして夜を過ごす。


 悪夢は深い沼のようなものだ。決して抜け出せず、思考は同じ場所を堂々巡りする。切り捨てた絶望も、打ち捨てた後悔も、この沼は全てを覚えている。全てを記憶し、手放さず、持ち主の心を傷つける為だけに存在する。


 浮かんでは消えていく失意と悲嘆の波間に、その時ジルはレモン色の髪をした少女を見ていた。


 寒風に疼く古傷に想いを馳せれば、いつでも脳裏に呼び出せる、彼女の姿を。


 美しい少女は半身を浴槽に沈め、熱い湯気の中でこちらに背を向けている。


“あたしもソジュ侯爵家から来たのさ”


「っ……」


 記憶に焼き付いた少女の幻影を掻き消し、今朝の出来事が頭をよぎった。


 百人の逃亡奴隷は今、砦の広間で眠っている。


 一年前にジルを受け入れた時のように、同胞への深い同情で彼らを受け入れた砦と町の獣人たち。


“――いいんじゃないか? 他に行くところがないのなら、ここにいても”


(脳天気な奴だ)


 この一年の間、寝食を共にした頼りない騎士は、次の場面では新参の女性に足を踏まれている。


“ああ、さっきから言おうか言うまいか迷っていたが、臭いぞ、君たち。早く身体を洗ってくれ”


 ジルは思わず目を開ける。


 自分の手を凝視し、古傷を確かめるように体をさする。


「僕は……ラナは…………?」


“水浴びがしたいねえ! 奴隷だった時はろくに水場も使わせてもらえなかったから、早く身体の垢を落としたいよ”


「……そんな、バカな……!」


 猛然と駆け出すジル。


 月光の差す廊下を駆け抜け、階段を飛び越えていく。


「見落とした……! ほころびを……!」




 角を曲がったところで、ジルは廊下に目を向けて動きを止める。


「…………」


 その視線の先には――


「ぁあ? 誰だっけあんた? ああ、そうだ、ジルっていったっけ。合ってる?」


「カミラ……」


 乱雑に短く切られた黄金色の髪、細く筋肉質な体、少し低めの張りのある声、……血に濡れた右手のナイフ。


「どうして分かったの? 設定は完璧だったはずだよ? 穴はない」


 そう言ってカミラは無造作に足下の死体を踏みつける。


「こいつは間抜けだったねえ。死んでも“え、どうして?” って顔で口開けてるよ」


 それは守備隊司令官代理を務める副隊長だった肉だ。


 カミラはぐっと踏みつける足に体重を乗せると、前屈みのままジルに獰猛な笑みを向ける。


「教えてよ、あんたを殺しちゃう前にさあ。今度人を騙す時の参考にしたいんだよねえ」


 かつて奴隷だった少年は、奴隷と銘打たれたサーベルを抜き放ち、奴隷を騙った女に殺意を向ける。しかし声音だけは淡々と、明日の天気について話すように乾いた口調で告げる。


「奴隷だった頃は自由に水浴びできなかった、か。ソジュ侯爵家では伽の相手をさせられる奴隷は特別に風呂に入ることが許されていた、いや、風呂に入ることが義務付けられていた。あんたは屋敷で奥方の性奴だったと言ったが、それにしては体が汚れすぎていた。屋敷からここまで、どんなにゆっくり歩いても一週間はかからない。あんたの汚れ方はどう見ても月単位で風呂に入らなかったやつの域だ」


「へぇえ! あの変人どもにも潔癖症なところはあったんだね、ああおぞましい。けどばれちゃったかあ、単純に役の作り込みが足らなかったんだね。あ~~あ、これやる為にどんだけあたしが水浴びするのを我慢したか、あんた知ってんのかい? しかしまあ、あんたには思い出したくない過去を思い出させちまったんだから、おあいこかねぇ?」


「ゴルドヴァの間者だな。目的は?」


 カミラがその表情に嘲りを浮かべて息を吐く。


「誰が話すと? あたしはね、例え死ぬ前に教えてくれって哀願されても、絶対に自分に不利になるような情報を話さないって決めてんのさ。まあそれに、今更知ったところで遅いしね」


パシュッ パシュッ


 砦内のどこかから、夜空に向けて光の球が打ち上がる。光球は上空で一際輝いた後、ゆっくりゆっくりと二つ並んで自由落下していく。


 その意味するところは明白であった。


「クソッ――!」


「おっと、レディを無視するなんて良い度胸だッ!」


キィィンッ!


 互いの得物をぶつけ合う二人。ジルは石を斬ったような硬質な音に違和感を覚える。


 次の瞬間、目の前で強烈な光が炸裂し、視界が眩む。


 そして、どこからともなく現れた透明な刃がジルを切り裂いた。


「…………」


「へぇ……! 勘で致命傷を避けたかい。やるねぇ、あんた。ガキの割には」


(影すら見えなかった……あれは?)


 ジルは距離を取り、血を流す額に手をやりながらカミラの持つ奇妙なナイフを観察する。


「ガラスか……」


「ご名答、綺麗だろ? 気にいってんだ」


 視界を奪った光は閃光玉の一種、ジルは先ほどの見えない斬撃が、光を透過する武器と視力を低下させる道具を組み合わせてできたものだと理解する。


「小細工だな……」


「あたしに殺された奴はみんなそう言って死んだよ」


 油断なく睨み合う二人。


「一つ聞かせてくれ。あんたは獣人か?」


 そう尋ねたジルに、カミラはしばし閉口する。やがてボソリと吐き捨てる。


「……この耳は本物だよ」


「そうか……」


 ナイフを構え直すカミラ、ジルもサーベルを持ち上げる。


「悪いが、あんたにはここで死んでもらうよ、坊や」


「お前たちの好きにはさせない」




 こうして、後にジルベール王国側で『オルトゥガ防衛戦』と呼ばれる戦いの幕が上がる。

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