エピローグ:『優しい賭け』
「見えてきた」
「あれが……」
馬を引くアルベルヒ、そしてぼろぼろのジルは、騎士と従者のように見えなくもない。事実アルベルヒは騎士だったが……。
彼らが目指していたのは国境からほど近いジルベール王国の都市、山間の窪地に建設された鉱山都市、オルトゥガ。道中アルベルヒの語ったところによれば、彼は駐留部隊として王都から派遣されてきたそうだ。
「しかしジル、どうやって城門をくぐるつもりだい? ぼくが多少口利きできるとはいえ、獣人以外はすんなり入れないよ? やっぱりちゃんとした作戦を考えてから――」
「心配するな」
「そう言われても……。どうなっても知らないぞ?」
アルベルヒの心配するところももっともだった。獣人王国ジルベールは伝統的に獣人族以外の種族を奴隷の供給源くらいにしか考えておらず、それは同じように過激な差別政策を採るゴルドヴァ王国との長年の抗争の中で、弱まるどころか強化されてきた根深い業だ。
「アルベルヒ」
「ん、なんだい――って、え?」
振り返ったアルベルヒは、ジルを見て硬直している。つくづく驚かし甲斐のある男と言えた。
「これでも僕は人間に見えるか?」
「……ハハッ、いいや見えないよ」
■ ――― ◇ ――― ■
――鉱山都市オルトゥガ――
二人して夕方の街並を横切りながら、アルベルヒはしげしげとジルを、というか、彼の頭頂部に生えた二つの黒い耳を眺めていた。
「魔狼族か……話には聞いていたが、いざ目にしてみるとびっくりするな、魔族の変身能力というのは」
「気持ち悪いか?」
「いや? 命の恩人をそんなふうには思わないよ。その人がハエでもカエルでも龍でも、ぼくを助けてくれたことに変わりない。だから、君が魔族でもびっくりこそすれ、気味悪がったりしない」
「……そうか」
「実を言うと納得してるんだ。だって君のような子どもが大の大人三人を……その、あんなふうに……」
アルベルヒは無残な光景を目の当たりにしたことを思い出したのか、胸を抑えて顔をしかめた。ジルはふと、こいつは優しすぎて兵士には向かないと、そう思った。
「でも君が魔族なら、それくらいはできて当然だろう。お祖父ちゃんが言ってたけど、お祖父ちゃんが行った大昔の戦争で、龍族の戦士が一人で獣人百人をかみ殺したって」
「でもその代わり、人間は数が多いだろ」
「そりゃそうだ。だって人間みたいに龍族がうようよいたら、大陸はとっくに彼らのものさ」
そうこう話しているうちに、二人はオルトゥガを防衛する守備隊の砦にたどりついた。重厚な門構えが二人を見下ろしている。
「さてと……」
アルベルヒはジルの前に立つと、子どもに言い聞かせるように言った。
「いいかい、ぼくはこれから守備隊長のところへ行って、単独行動の言い訳をして、一発か、あるいはしこたま殴られてくる。そして盗賊に襲われ、捕らえられたところを君に救われた。君はゴルドヴァから逃げてきた奴隷で、その剣は盗賊から奪ったことにしよう。ぼくは君の扱いについて隊長から指示を受ける為、君を城内に入れた。これでいいね?」
「……別にいいんだぞ、お前が盗賊を倒して僕を助けたことにしても」
アルベルヒは一瞬悩む素振りを見せた後、誘惑を振り切るように頭を左右に振って答えた。
「ダメだ。ぼくが盗賊を一人で倒したなんて、絶対に誰も信じてくれない」
「だから首を……」
「そ、れ、は、終わったことだろう! 彼らの遺体はきちんと埋葬したじゃないか。彼らだって生まれた時から悪人だったわけじゃない。きっとゴルドヴァの劣悪な環境が彼らを悪事に追い込んだんだろう」
「……」
「それにだ、君がぼくを助けたことにすれば、君は得体の知れない脱走奴隷から、どこの馬の骨とも知れないがとにかく王国騎士を助けた功労者に格上げだ。そうすれば、きっと隊長も君のことを受け入れてくれるだろう。付け加えれば、君の服に付いて離れないおびただしい返り血がその証拠になる」
と、それがアルベリヒについて王国入りする筋書きだった。金もツテもアテもないジルには、この国で犯罪に手を染めず穏当に暮らしていくには、この優しく頼りない騎士を頼む他ないのだった。
とりあえず、今日を生きなければ。
「わかった。命令違反の体罰で死ぬなよ」
「不安にさせるなよ!」
■ ――― ◇ ――― ■
「いやぁ、よハッハ、よハッハ! ううぇいてぇ……」
ぼこぼこに腫れた顔をさすりながら、アルベルヒがジルの肩を叩いた。守備隊長は最初はジルのことを胡散臭い目で見ていたが、ゴルドヴァから逃げてきたというあたりから同情の目を向け始め、アルベルヒを助けるために三人の賊を斬ったというあたりから感心したようだった。その時のアルベルヒは騎士としては情けない限りで、事実隊長からは生ゴミに沸いたウジを見るような目で見られていたが、それがかえってジルの心証を良くするよう働いた面もあった。もっとも、彼が意図してそうした振る舞いをしていたかは謎だが。
「しかしジル、君は字が、しかも共通語だけじゃなく三つの辺境語と古代語まで読み書きできるなんて、耳が生えたこと以上にびっくりさせられたよ」
「奴隷時代の主人が……」
「それは聞いたよ。でもほんとに良かった、ちょうど書記官の助手なんていう仕事が空いていて。いやぁ、ジルが古代語まで習得してると知った時の書記官の顔ときたら! ハハッ! ……それに、他にも雑用をもらえるそうじゃないか。これでしばらくは飢え死にせずにすみそうだね」
ジルはしばし瞑目すると、アルベルヒに向き直り、唐突に膝と腰を折る礼をした。
「ありがとう」
アルベルヒはびっくりして目をぱちくりさせていたが、やがて頭をかきながら笑った。
「命の対価を支払っただけだよ」
それを聞いてわずかにジルの口の端が持ち上がる。
「……やっと、――った」
「何か言ったか?」
「いいや、なにも……それじゃぼくは、これから同僚たちからも一発もらってくるから、しばらくお別れだね。ジルは今日はどうする? 日没まではまだ時間があるけど。今日は休めと言われてるんでしょ?」
「水浴びと着替えだ」
即答するジルにアルベルヒが笑いながら何度も頷いた。
「じゃあ、また夕食の時に」
「ああ。……アルベルヒ」
「ん?」
「これ以上顔に拳をもらうのは止めとけ。変形し過ぎてお前が誰だか分からなくなる」
「ご忠告どうも!」
ジルは立ち去るアルベルヒの背中を見つめていた。
(恩人なら種族は関係ない、か……そう思うのはお前くらいだ)
ジルはふと、彼に口止めの約束をしていないことに気付く。しかしすぐに不穏な考えを追い払う。
裏切られることにはそろそろ慣れてきたが、疑うことには慣れそうにない、きっと、永遠に。そう、ジルは優しい騎士の背中を見て思った。
■ ――― ◇ ――― ■
夕刻、紫紺色に染まる空の下、砦の広間では煌々と灯りが焚かれている。
アルベルヒの帰還を祝って、というよりはむしろ良い口実を見つけたと思った兵士たちによる、飲んで騒ぐ集まりが行われていた。
喧噪からはやや距離を置いて、ジルが柱の陰に体を預けている。松明を背に、揺れる光が地面を照らす。灯りも届かぬのは遠くに見える山々の黒い影。ジルはじっと山の方角を見つめる。
「何か変なものでも見つけたか?」
ジルの背後から声をかけるのは、酒で顔を赤くしたアルベルヒだ。 ジルははっとしたように彼を振り返るが、アルベルヒの顔を見ていつもの無愛想な表情に戻る。
まるで誰かの顔を思い浮かべていたかのようだ――と、アルベルヒは口には出さず思った。
「別に」
「じゃあ何を考えてたんだ?」
ジルは振り返らず、下の姿勢のままアルベルヒに横顔を向けている。
「別に」
「逃げ出してきた貴族のことでも考えてたか?」
ゴルドヴァの貴族の邸宅で奴隷として暮らし、そこから逃げてきたこと。それ自体はウソでも何でもなく事実だったが、それが全ての事実ではなかった。
ジルはノースランドの王族であり、その血は魔狼の力を受け継ぐ。こうして耳に生やした耳などはただの飾りみたいなものだ。
あまり自分について語れば、ボロが出るかもしれない。そうとは知りながらも、ジルは気付けばこう問いかけていた。
「どうして何も訊かない? おかしいとは思わないのか」
何故、アルベルヒ、そして砦の獣人たちは自分について必要以上に詮索しないのかと。
アルベルヒは肩を竦める。
「そりゃあおかしいとは思うよ。生まれついての奴隷にしては教養があり過ぎるし、盗賊たちの殺され方を見れば、君がただ者じゃないことくらいわかる。おまけにこの辺じゃ見かけない魔狼族ときた。そして種族を偽って王国にいる。バレたら重罪だぞ?」
アルベルヒは手の中で杯を弄びながら、ジルと同じ方向に目をこらす。
「でもボクも隊長も、それに隊の皆も、君を信じてるよ」
「秘密のある者を信用できるのか?」
「できるとも。少なくともボクは、命の恩人である君を疑うようなことはしない。獣人は恩義を重んじる。そしてボクは騎士だ。騎士ならなおさら、義に恥じぬ生き方をせよと教えられる。そして君の種族を知らない隊長たちに関して言えば、君がゴルドヴァで奴隷として酷い扱いを受けたということに同情しているんだと思う。そこに関してはウソじゃないんだろう?」
「それは本当だ」
「なら別に騙してるわけじゃないんだし、いいんじゃないか? 他に行くところがないのなら、ここにいても」
「……」
「でも……」
振り返ったジルに、アルベルヒは人差し指を立てて言った。
「でもいつか話してくれ、君のこと、君の背負った悲しみのことを。そうしたらボクたちは――友達になれる」
「……なんのことだ?」
「じいさまが言ってた。”夜に山を見つめてはいけない、死者の顔を映すから” 当たったいたかい?」
「……」
「ここにいれば大丈夫だよ。……ほら、辛気くさい顔してないで、酒でも飲もう!」
「…………もう寝る」
微笑みを浮かべるアルベルヒから顔を背け、ジルは柱の陰に横になった。
アルベルヒは呆れたように頬をかくと、騒ぎの輪に戻っていく。
夜は、ゆっくりと更けていった。