第十話:『獣の王国』
――数日後、ロスリムより北、ゴルドヴァ王国国境付近の山道――
当てもなく歩いた。行く当てなどあるはずもない。一刻も早くここを……彼女の死と忌まわしい記憶の場から離れたい、そう願って歩み続けるジルの足は、いつしか彼をゴルドヴァ王国の北の国境まで連れてきていた。
腰に差した立派なこしらえの剣以外は荷物らしいものを持たず、ドブネズミの生皮のようなぼろぼろの衣服。こんな状態で衛兵になど出くわせば怪しまれることは避けられない。
だからこうして人里を避け、険しい山道を辿っていたわけだが、そういう道を通っていた以上、ここで彼らのような人種に出くわすことも当然と言えた。
「おいガキ! こんなとこで何してる?」
「家出かぁ? 感心しねぇなぁ、ヒヒッ!」
草むらから音もなく現れる数人の人影。一様に汚い衣服に身を包み、不健康そうな顔を下卑た笑いに歪めている。
「山賊か」
「おいおい、聞いたか? 賊だってよ。坊ちゃんそりゃあひどくねぇかい? 俺たちはただこの辺を通る商人や旅人やらから通行料を徴収してるだけの役人さ!」
「……」
「そうとも、御法度を破って国境を越え、密輸を行う不届きな輩から罰金を徴収してるんで!」
「……さっきは通行料って言わなかったか?」
ジルは茫洋とした目を男たちに向け、かすれた声で応じた。
「うるせえ黙れ! おい、野郎共いつまでくっちゃべってやがる! さっさと身ぐるみ剥げ!」
「へいへい」
「悪く思うなよ……」
三人の賊がジルを取り囲む。ジルは足をふらつかせながらも、手だけは剣の柄に置いた。
「お!? やるかあ?」
「良い剣持ってんじゃねえか! あれは俺がいただくぜ!」
それを見て賊たちは色めきたち、自分たちもまた腰から手斧を引き抜く。
(ここで死ねば……どうなる?)
そんな危機的状況において、ジルの心は恐ろしいほど凪いでいた。
男たちの斧、そのざらついた刃の光が首元に迫る。引き延ばされた時間の中ではハエの止まる速さでしかないそれを、ジルはしかしまったく避けようともしない。
(ここで死ねば……楽になるか?)
死が目前に迫る。怠惰で安穏とした死が、すぐそこで手招きしていた。
(〝生き残るのです、若様〟)
「――ッ!!」
斧の刃がジルの首を断つ寸前、息を吹き返したようにジルが動く。寸前で攻撃を躱された男がたたらを踏む。
「なんだこいつ!?」
「やれ! 押しつぶせ!」
ジルの耳が風切り音を捉える。本能に従って身をひねると、耳元を投擲された手斧が回転しながらかすめていった。
「死ね!!」
背中から振り下ろされる一撃を横に飛んで躱し、振り向きざまにサーベルを振り抜く。
「ギャッ!?」
顔面に傷を受けた男がのけぞり、残る二人がひるむ。
そしてその隙が致命的になる。
瞬きもさせない鋭い踏み込みから繰り出すジルのサーベルが、二人の男を一馬身ほども後ろに飛ばす。木の幹に折り重なって倒れた二人の賊は、胸元に大きな赤い口を開けぴくりとも動かない。
「……」
「ぐぅぅ……」
鼻を押さえて痛みにうめく賊を見下ろし、ジルが低く呟いた。
「お前たちではまだ――」
「グッ!?――」
水平に一閃、驚愕に見開かれた男の首がこてんと転がった。
「――僕が死ぬ理由には足りない」
ジルはそう言うと、二、三歩踏みだし、そして膝を着いた。
「限界か……」
疲労と空腹、抗い得ぬ命の束縛が彼を地面に縫い付ける。
「……?」
その時、かすかな匂いが風とともに流れてきた。
その匂いに釣られるようにしてジルは四つん這いで草をかき分けていく。
しばらくすると少し開けた空き地に行き当たり、そこに覆い被さるような大きな岩を屋根にした野営地があった。おおらくさっきの山賊たちの寝床だろう。
良い匂いの原因はそこで煮える鍋、もっと言えば、その中にある何かのスープから漂ってきていた。大方ジルを見つけて大急ぎで出て来たというところだろうか。色んなものが散乱していた。
「くっ……はぁ……くそ」
気力を振り絞ってそこまで這い、ジルは鍋に手をかけた。
ジュウッ!
熱したバターが溶けるようにジルの皮膚が鍋に張り付く。だがジルはそれすら構わず鍋を傾けた。
「ヌグ……ヌグ……グッ!? ゲホッゲホッ!」
咳き込み、口と舌と喉を火傷しながらも、鍋の中身を丁寧に飲み干していく。味など分からない。そんなものを感じる部分が自分の中にはあったか……。
スープを飲み干し、ジルは地面に仰向けに倒れ込む。
「……」
空の青さが、震えるような広さで風を包み込んでいた。
目を閉じ、頬に風を感じていると、幻覚か、はたまた夢か、闇の中にあの純真なエルフの少女の顔が浮かんだ。その顔は……少し不満そうにも見えて。
だからジルは、彼女を安心させるように心の中で呟いた。
(きっと……いきるよ……あきらめたり、しない…………)
そしてジルの意識は深いまどろみに包まれていった。
「ん……ぁ……」
頬がくすぐったかった。何か湿ってざらついたものが触っている。
目を開けると、何者かの黒い瞳と目が合った。
「おまえ……」
馬だった。栗毛に黒いたてがみを持った雌馬だ。
(どうしてここに馬が……?)
ジルは体を起こし、周囲を見回す。
さきほど久しぶりに飯を食って、疲労で気絶した時から、どうやらけっこうな時間が経ってしまったようだ。あたりは暗く、中天には月が昇っている。
そして後ろに目をやると、そこには若い男が目を丸くしてこちらを見つめていた。
「――ま、待ってくれ!」
喉元に突き付けられた刃にまた目を丸くし、男はジルに命乞いをする。
「ぼくは賊じゃないよ! 頼むから話を聞いてくれ!」
「……?」
「えっと……その、そろそろ剣を下ろしてくれてもいいんじゃないかな?」
ジルはその言葉には耳を貸さず、その男をよく観察する。
その男はいわゆる獣人だった。頭の上からぴょこんと突き出た三角耳、丸っこく人なつっこそうな顔……。
「猫系……」
「ちがう、犬だ! うわわ、ごめんなさいユルして!」
犬系と名乗ったが、獣人に知り合いの多くないジルにはどう見ても猫系の獣人にしか見えない。それはさておき、男の素性は謎だった。首から下をマントに包み、おそらくその下には鎧を着ているのだろう、音で分かる。
賊の首領か何か、そう思いかけたところで、男は意を決したように自分から口を開いた。
「その、君にお礼を言わなくちゃならない。ぼくの命を助けてくれてありがとう」
「……?」
「ぼくの名前はアルベルヒ=ニブルヒム。ジルベール王国の騎士だ」
ジルベール王国――ゴルドヴァ王国とイーストランドを二分する獣人の王国、ゴルドヴァ王国とは泥沼の敵対関係。いつか学んだ知識がジルにそう教えた。そしてここはゴルドヴァの北の国境、いつの間にか獣人の勢力圏に入り込んでいたか。そこまで考えたところで、さきほどの言葉がひっかかった。
「僕がいつお前の命を助けた?」
「それについては君に心あたりがないのも無理はない。君はここにきてすぐ気絶してしまったからね」
アルベルヒと名乗った男は広場の一角を指さした。
「ぼくは縄で芋虫にされてあそこに転がっていたんだ。こいつはルンボ、ぼくの馬だ」
栗毛の馬が小さくいなないた。
「君があの賊たちをやっつけてくれたのはすぐわかったよ。だって君の服は返り血でべっとりだし、君が這ってきた方向に彼らの死体があったから。君が気を失っている間にルンボが自分の拘束を解き、そしてぼくの拘束も解いてくれたんだ! すごいだろう!」
「……」
「いや、分かってる、すごいのはぼくじゃなくて馬の方だよな。だがそんなことはどうでもいい、とにかく君が奴らを倒してくれなければ、ぼくはどこぞの奴隷商人に売られるか、慰みに殺されていただろう。ありがとう、本当にありがとう……だから――早くその剣を下ろしてくれ!」
「いや、一つ答えろ」
「な、何だい!?」
「どうして捕まった? 王国の騎士が山賊相手に何してる?」
「うぐ……それは……言いたくない」
「そうか」
ジルはゆっくりと剣を振りかぶり……。
「わーーーー待った待った! 話す、話すよ!」
やけにうるさいやつだなと思った。ジルは耳を手で押さえながら剣先で先を促す仕草をする。
アルベルヒは顔を背け、恥ずかしいことなのか一息に小声で言った。
「……度胸試しさ」
「……?」
「度胸試しだよ! 仲間の騎士たちがぼくのことを意気地無しって笑うんだ! 父さんは冷たいし、母さんは母さんで子ども扱いしてくるし。……だから、国境近くまで行って、証拠にゴルドヴァのクソ兵士の首でも持って帰れば……いいかなって……その…………」
「……」
「わかってるよ! そんな目で見るなよ! ぼくだってバカなことしたって思ってるさ。十分反省したよ、ふん縛られてる間に、たくさん時間はあったからね……」
ジルはそれを聞いてようやく剣を下ろすと、森の中を指さして言った。
「はぁ……首なら奴らの首を持って帰ればいいんじゃないか?」
アルベルヒはそれを聞いて腰を抜かす。
「な、なんてことを言うんだ! 君は! そんな……こと、でも……」
「最初から人間の首を持って帰るつもりだったんだろう? やつらは人間族で、善行を積んでるような輩じゃない。なぜ躊躇う? ……それとも、怖いか」
「……君は命の恩人だが、意地悪な人でもあるんだな」
「……」
「いや、ごめん……そうだな、君が正しい。ぼくはばかなことをしようとしてた」
ジルは感情の読み取れない顔でアルベルヒを一瞥すると、興味をなくしたように歩き出す。背中越しに呟いた。
「家があるやつは……家に帰れ」
その背中にアルベルヒが問う。
「待ってくれ! 君はどこに行くんだ?」
「……」
そこで何故自分は振り返ったのか、ジルには自分の心が分からなかった。しかしとにかく彼は振り返り、しばらく考えてから言った。
「獣人の国ってのは、良いところか?」
「……? ああ、とても良いところだと思う。まあ他の国に行ったことはないけど……」
「そうか、じゃあ道を教えろ」
「……え?」
呆気にとられるアルベルヒの隣で、馬がコツコツと足踏みした。