第九話:『一歩』
夜明け前、店を開ける準備をしようとした鍛冶屋の親父は、自分の店の前で座り込むみすぼらしい少年を目にした。
「おいガキ、どけ」
少年は黒い瞳を彼に向ける。
「っ…………!」
(なんて目をしやがる……)
文字通り、生きることの苦しみや悲しみをその舌で舐めてきたジルの目は、深い黒に染まっていた。何もかもを汚されてしまったが故に、もう何者にも汚されない漆黒の色、それが彼の瞳だ。
「仕事を頼みたい」
ジルはそう言って首を見せる。そこには獣化しても取れなかった鉄の首輪がはまっていた。
よく見ると首輪には紋章が刻まれている。
「お、おい、そりゃあソジュ侯爵家の紋章じゃねぇか。もしかしてお前、脱走した奴隷か?」
「これを外してくれ」
「バカ言え! そんなことして誰かに知られたら、侯爵様に殺されちまう!」
「金はある」
「駄目だ駄目だ! 俺はそんな誰の血がついてるかも分からないような金は受け取らないぞ」
ジルが持つ金貨を指して言った親父だったが、ジルはわずかに口の端を上げて言った。
「古今東西の神に誓って、これは盗んだものじゃない。もらったんだ」
「だとしてもだ、俺がこう考えるとは思わなかったのか? お前を侯爵家に売った方が儲かるだろうってな」
するとジルは凄みを利かせた眼光で彼を射た。
「僕も脅し方くらい知ってる」
「な……! ガキのくせに何ができる!」
「少なくとも、侯爵家の屋敷を抜け出すよりはあなたを倒す方が簡単だ」
「ぐっ……」
鍛冶屋の親父は筋骨隆々とした大男だ。しかし今は遙かに体の小さい、しかもまだ十五にもなっていないような少年に気圧されていた。
だがそれだけではない。何か他の感情も芽生えていた。
脅されているという状況にも関わらず、彼に不思議な魅力を感じていたのだ。見るからに危険な少年だったが、相手を引き込む何かを持っていた。
「……いくら出す?」
「一ゴールド」
「それじゃ多過ぎる。俺はまっとうな商売を心がけてるんだ」
「…………」
「まあ良い、入れ」
「――よし! 外れたぞ」
首を傷つけないよう苦労して首輪を切った親父が声を上げる。ジルは首をさすりながら起き上った。
台の上に金貨を一枚置き、何も言わずにさっさと出て行こうとするジルを呼び止める。
「待ちな! さっきも言ったが、俺はまっとうな商売をしてきた男だ」
振り返ったジルに、親父は店の中を見せて言った。
「好きなのを持って行け。子供に売るようなもんじゃねぇが、お前には必要そうだ」
壁や棚には盾や剣などの武具がところ狭しと並び、誰かに使われる日を待っていた。
ジルは親父の顔を凝視した後、商品の方を見もせずに指で示した。
「あれを」
それを見て親父が豪快に笑う。
「だと思ったぜ! さっきからずっと見てたもんな」
親父が持ってきたのは一振りのロングサーベル。突くことが本分だが、重量を生かして叩き斬ることも得意な片刃の剣で、主に騎兵が使う武器である。にび色の鋼に細い溝が彫られ、ツタを模した護拳が美しい見事な剣だ。
「しかしお前にはちと重いんじゃねぇか? 持ってみな」
ジルはサーベルを受け取ると、流れるように自然な動作で鞘から抜き放つ。
親父はその一瞬の動作で、彼が剣に習熟し、筋力も申し分ないことを悟る。
「……問題ねぇみたいだな。しかしお前さん、見かけよりも力が強いんだな」
「人間種は弱いから」
「は?」
ジルは親父を無視してゆっくりとサーベルを振っていたが、やがてそれを鞘に収めて言った。
「良い腕だ」
「ハハッ! ガキに何が分かると言いたいところだが、そればっかりは否定できねぇな! ガっハッハ! おい坊主、良い剣には名前を付けるってことを知ってるか?」
ジルはサーベルを見つめながらしばらく考えた後、小さく呟いた。
「ディランガ」
「ディランガ……どういう意味だ?」
「古代語で『奴隷』」
「そ……そうか、まあ好きにしな」
そして今度こそ背を向けて立ち去るジルに、親父が声をかける。
「おいガキ、死ぬんじゃねぇぞ!」
ジルは前を向いたまま答えた。
「無茶言わないでくれ」
「ハハハッ! 違えねぇ」
豪快な笑い声でジルを見送る鍛冶屋の親父。
朝陽が差し込む外の世界に足を踏み出す。
その歩みを止める者は、もう誰ひとりいなかった。