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「ない」
「は?」
真っ暗な部屋を探し始めてから少し経って、イトくんが早速音を上げた。
「え、ないって……?」
「だから、ない。この部屋に、必要のない『もの』は」
空き巣みたいに散々荒らしておいて、出た結論がこれである。私はすぐさまダンベルを拾い上げ、彼の脳天をかち割ろうとばかりに振り上げた。
「えっ、ちょ、待って待って待って何それいや落ち着いて」
「女の子の部屋にずかずか入って散々荒らして挙句にないとか、怒られないとでも思ったの?」
「本っ当ごめんなさいすいません勘弁してくださいお願いマジで」
土下座しながらノンブレスで必死に謝っている。あんなに態度のデカかったイトくんはどこへ行ったのやら。
……なるほど、これがヘタレという生き物か。
「……ラブラドールの飼い主の筋力なめんな」
「え、そのダンベルってそういうことだったの? てかお願いそれ下ろして怖いマジでやめて」
これは面白い。振り上げたままでいればこちらが優勢というわけだ。
「このままちょっと聞くけど。その『もの』って私の部屋にしかないって決まってるわけ?」
「すいませんそうじゃないです可能性として一番高かったのがあなたの部屋だったってだけでああああ殴らないでええええ」
素直に殺意が湧きました。でも反応が面白いので命だけは許してやらんでもない。
「人は何かに依存すると時間を止めてしまい時には世界を巻き込むこともあるのですそれが今ここで起きている現象の正体でしてごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「……あー、つまり私は何かに依存してて、それが原因でタイムストップしてるってわけか」
「はいそういうことですすみません」
それなら確かに、私の部屋にあると考えた方が自然かもしれない。
けれども、私が一体何に依存していると言うのだろう。全くもって心当たりがない。部屋にないのなら尚更意味がわからない。
ふとイトくんは怯えて歪んでた顔をぴっと引き締め、突然キョロキョロし始めた。音もなく綺麗に立ち上がると、半開きだった扉を全開にする。
その瞬間、闇が光った気がした。闇は闇で深く暗いもののはずなのに、何故か眩しく感じられたのだ。
その不可解な現象を前にし、イトくんは「ビンゴ」と呟いた。
「……どうしたの? イトくん」
「やっぱり『もの』はこの部屋にあったんだ。あんたに必要のない、無駄な『価値』の与えられた『もの』が」
さすがヘタレ。突破口を見つけた瞬間にすぐ強気に戻った。
「え、でもさっきはないって」
「さっきは形のある『もの』を探していたから見つからなかったんだ。あんたに必要のない『もの』はいわゆる形のある『もの』じゃなかったんだ」
「……それって……?」
「“暗闇”だよ。この部屋の」
イトくん曰く、人は形のある「もの」にだけ依存するのではなく、「場所」や「環境」にも依存してしまうことがあるらしい。
私の場合は、私の部屋という「場所」と電気のついてない暗闇という「環境」が一致した「条件」に依存していたのだ。
私は、アイリスが死んでからずっとこの部屋のこの暗闇が大好きだった。それはつまり、必要のない「もの」に「価値」を見出したことでもあったのだ。
「こんな暗い中引きこもってたら、そりゃあ外が眩しくて嫌んなるだろうよ。そんなの悪循環にしかならねぇ」
「でも私……早くアイリスのこと忘れないと、それこそ前に進めない……」
「は? あんたそんなに犬嫌いだったの?」
「嫌いなわけない! だってアイリスは大事な家族でーー」
その瞬間、自分のしようとしていた恐ろしさに気付き、全身に悪寒が走り抜けた。
「へぇ……あんた、家族のこと忘れようとしてたんだ?」
「あ……違……私は……」
イトくんの顔が怖い。皮肉を口にし、ニヒルな笑みを浮かべる彼が怖い。
さっきのヘタレ具合が嘘みたいに、彼は不気味なくらいに笑っていた。
けどそれ以上に、私は自分が怖い。こんな酷いことを、今は亡きアイリスにしでかそうとしていたのだから。
「あんたが忘れようとしたのはアイリスじゃねぇ。アイリスを救えなかった自分の罪じゃねぇのか」
「……ああ……アイリス……私、なんてことを……」
アイリスを見殺しにした挙句、彼女の存在も忘れようとするなんて。
何が家族だ。何が大切な思い出だ。私なんて、私なんて……。
「アイリスを忘れる必要なんかねぇ。罪を忘れる必要もねぇ。あんたに必要なのは、それを忘れないことそのものじゃねぇのか」
イトくんは、生意気でヘタレで弱っちいけれど……私よりも、ずっとしっかりしていて。
「大切なことを忘れると、不必要な『もの』ばかりに気を取られて、最後にはなんにもなくなっちまうんだぜ?」
彼は部屋の真ん中で、制服のポケットを弄って。
「だから、忘れるな。アイリスのことも、その時間を過ごしてきたことも、全部受け止めろ。それがあんたにできる、唯一の罪滅ぼしだ」
折り畳みナイフを出して、器用に指先で刃先を出した。
「……尤も、今この時間はいつか忘れるだろうけど。それは別にどうでもいいや」
ダーツみたいに壁に軽く投げつけると、闇に白い亀裂が入り、ガラスみたいに派手に割れてガラガラと崩れた。
夢物語のような出来事があったような気がしたあの日から、一週間が過ぎた。
この日は生憎の雨。ざあざあ降りの中、私は傘を差して帰路についていた。
トモちゃんとも別れ、しばらく歩いていると、見慣れた景色の中に小さな箱が紛れ込んでいたことに気づく。
それは、電柱の陰でひっそりと存在しているみかん箱。中を覗き込むと、そこでぴぃぴぃ泣きながら助けを求める小さな命が。
少し悩んだけれども、見つけてしまったのは何かの縁だろう。そのまま見捨てるわけにもいかず、私はその命を壊れないようにゆっくりと抱き上げた。
「ねぇ、君。うちに来ない?」
また、家族が増えました。