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クロノスタシス  作者: 芽寺はじめ
イト
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朝起きて部屋の扉を開けたら、全身クリームのラブラドールが仔犬みたいに尻尾を振ってのこのこ入って甘えてきた。



昔からアイリスはなんにも変わってない。童心を忘れず、お婆ちゃんになってもこうして私に朝一で挨拶してくれる。




「おはよう、アイリス。散歩行こっか」



「ワン!」




いつも元気に返事して、私の部屋を出るアイリス。賢いアイリスはそのままリードを持ってきて、私に付けてとねだるんだ。



アイリスは、私が5歳の頃に一度やってきて、一定期間だけ一緒に暮らしていた。当時私たち家族はパピーウォーカーをやっていて、当時アイリスは盲導犬候補のわんこだったのだ。



それから10年。盲導犬として懸命に働いてきたアイリスは、今は引退して再び私たちのもとへ戻ってきた。



幼かった私は中学生になり、高校受験を控えてガッチガチになっていたこの時期に、両親からリタイア犬を引き取る話を聞かされた。そのリタイア犬がアイリスだと知った私は、すぐその話に乗った。



アイリスの散歩は、勉強で息が詰まった私に丁度いいガス抜きだった。アイリスも私のことをちゃんと覚えてくれていて、昔よく通っていた散歩コースもしっかりと尻尾を上げて軽やかに歩いていた。




「アイリス、ウェイト。シット」




指示語を口にすると、横断歩道の前でぴったり止まり、ひょいと座る。得意げに私の顔を見上げたので、思わず笑ってしまった。




「グッド。いい子だね、アイリス」




アイリスも、口をぱかっと開けて笑っているように見えた。



信号が青に変わり、左右を確認した後、私は再びアイリスに指示を出す。




「アイリス。ストレート、ゴー」




そんなの簡単だよとでも言うかのように、アイリスはすぐに腰を上げ、すたすたと歩き出した。




「グッド」




言うことを聞いたらすぐに褒める癖は、私も幼い頃から変わっていない。



私もアイリスも、大切なことはちゃんと忘れていなかった。










でも、ずっとアイリスと一緒にいられるわけじゃない。



まだ義務教育中の私は、毎日ちゃんと学校に通わなければならない。アイリスの円な瞳に見送られながら出掛けるのは、なかなか心苦しいものだ。




「おはよーl美紗都みさと!」



「トモちゃん、おはよー」




アイリスと別れてすぐ、学校の友達に挨拶。これで少しは胸のつっかえが良くなる。




「聞いたよ美紗都。アイリス帰ってきたんだって~?」



「そうなの! 私すっごく嬉しくって!」



「何? その、彼氏できたみたいなリアクション。あんたまさか、初恋がわんことか言うんじゃないでしょーねぇ!」



「ち、違うよ! アイリスは家族だもん!」




トモちゃんは人をからかうのが大好きな子だ。いつもこうやってよく私で遊んでいる。



いじわるだけど、私の大切な友達。




「そういやさぁ、犬の寿命ってどれくらいなの?」



「うーん、犬種によって違うみたいだけど、だいたい12、3歳くらいかなぁ」



「えー!? じゃあアイリスとそんなに居られないじゃん!!」



「うん……でも仕方ないよ。人と犬って時間の流れ方が違うから」




トモちゃんに言われて、ちょっとだけ現実を見る。



アイリスと過ごした時間。楽しかった思い出。それは覚えている。でも、他にも大切なことがあったことを、私はついさっきまで忘れていた。



私とアイリスは、時間の流れ方が違う。



再会した時には、既にお婆ちゃんだったアイリス。別れの時は、刻一刻と迫っていたんだ。



もしかしたら、今こうしている間、アイリスは病気になっているのかもしれない。突然倒れて、病院に行ってるかもしれない。



私が看取る前に、アイリスがいなくなるかもしれないんだ……。




「美紗都?」




トモちゃんが顔を覗き込んできた。びっくりして、体が跳ね上がる。




「どうした美紗都? 顔色悪いけど。風邪?」



「う、ううん! 何でもない」




笑って誤魔化す。トモちゃんは眉を寄せながら首を傾げていたけど、なんとか納得してくれたみたい。



でも……胸に残る不安だけは、取り払うことができなかった。










ある日のこと。



窓を開けたらどんよりとした曇り空。気分は最悪。



そんな時も、扉を開ければ、いつだってアイリスが姿を見せてくれた。私の大切な家族は、いつだって私のそばにいてくれる。



けど、この日ばかりは違った。扉を開けても、アイリスは姿を現さない。




「……アイリス?」




不安が蘇る。



だって、まだそんなに経ってない。私は、まだアイリスと一緒に居たいのに。




「アイリス?」




名前を呼んでも、誰も来ない。



パジャマのまま部屋を出て居間へ行くと、朝食の準備すらしないまま、お母さんがサークルの前ですすり泣きをしていた。




「お母さん……どうしたの……?」



「ああ、美紗都……どうしよう……アイリスが……」




昨日まで、あんなに元気だったアイリスは。



サークルの中で、動かなくなっていた。












結局死因はわからなかった。



ごく稀に、こういう突然死という現象が起きるらしい。その稀なことが、よりによってアイリスに起こってしまったのだ。



アイリスが死んでから、胸にぽっかりと穴が空いた感じがした。悲しいとは思ったけれど、不思議と涙は出てこなかった。



アイリスのサークルは物置に片付けられ、家の中に唯一置くことを許されたものは、棚に飾ってある写真のみ。



私とアイリスの思い出の写真は、一瞬で遺影に変わってしまった。



お母さんはしばらく立ち直れなかったけれど、お父さんの励ましのおかげでなんとか気を取り戻すことができたみたいだった。



でも、私は。




「美紗都、もうちょっと食べなさい」



「……いらない」



「美紗都!」



「いらないってば! ほっといて!!」




毎晩こうして騒いで、部屋へ引きこもる毎日。



アイリスが死んでからいつもこの調子だった。トモちゃんには心配されて、やっと立ち直ったお母さんにも八つ当たりして。



私って、本当に最低だと思う。



心が荒んでいるのは、アイリスのことを覚えているからだ。だから早く忘れなくちゃと思う。これではろくに勉強にも手がつかない。



なのに、居間に行けばアイリスの写真がある。忘れたくても忘れられない。イライラして、すぐに八つ当たり。それの繰り返し。




「……何やってんだろ、私」




私は毎日、アイリスの散歩をしていた。



なのに、気付けなかった。アイリスが元気だと思い込んで、毎日毎日、いい子だねとか、そんな呑気なことを言って。



アイリスは、本当はすごくすごく苦しんでいたかもしれないのに。



真っ暗な部屋は、今の私にとってはすごく落ち着く空間だ。アイリスの思い出も、このまま闇に溶けて消えてしまえばいいのに。



だんだん目が慣れてきて、視界に入った時計に、少しだけ違和感を覚える。



それは、秒針が動いてないからだと気付くのに、ちょっとだけ時間がかかった。




「……電池切れ、かぁ」




面倒くさいけど、仕方ない。このままじゃ不便なので、電池を取りに居間へ向かう。




口から心臓が飛び出るかと思った。




「嘘……なに、これ……」




お母さんも、お父さんも、白黒になってぴったり止まっている。



鮮やかな茶色の木目テーブルは灰色に、クリームの壁は白に。



私とアイリスの写った写真は、昔の白黒写真みたくなっていた。




「あー駄目駄目、こんなんじゃ全っ然駄目。砂糖多過ぎ」




キッチンから声がしたのでそっちを見ると、私の通っている学校のものとは違う制服を着た男の子が、お母さんの手作りクッキーにケチつけていた。




「菓子作りすんのはいいけどさぁ、どうせならもっとうまく作れっての。バター少なすぎてぼっそぼそだし最悪」



「……誰?」



「あ? なにあんた、自分で呼んどいて『誰』はねぇだろ」




いや知らないし。お呼びじゃないし。



男の子はしばらく私を睨んでいたが、すぐ何か合点がいったらしく、すぐ食べかけのクッキーを全部口の中に入れた。




「なるほどねぇ。また自覚なしのパターンか。これだから女は面倒なんだよ」




あーやだやだ、と頭を掻く彼の姿に、思わず殴りたくなった私は多分悪くない。




「まぁしゃーねぇや。俺はイト。あんたは?」



「た……l鷹原たかはら美紗都」



「鷹原ね。まずあんたの部屋見せてくんない?」



「は?」




いきなりなんなんだこいつは。本当に殴ってやろうか。




「何キレてんだよ。あんたが世界の『時間』を止めたからこんなことになってんだろーが。マジでわかってねぇの?」



「あのさイトくん。悪いけど、私神様でも魔法使いでもないから、そんな超能力みたいなことできないんだけど」



「だから自覚がないっつってんじゃねぇか。いいか鷹原、この状況を作ってんのは間違いなくあんただ。あんたがあんた自身にとって必要のない『もの』に『価値』を見出した結果、世界の『時間』が止まっちまった。だからそれを元に戻すためにまずは部屋を見せろって言ってんの」



「わっけわかんない」




世界の時間が止まってる? そんな馬鹿なことがあるわけないじゃない。というかこれ不法侵入だし。その上クッキー食べちゃったし。



どう考えても弁明の余地がないので、警察に通報しようとスマホを出した時だった。



いくらボタンを弄ってもスマホが動かない。充電が切れたみたいだ。こんな時に……。



仕方が無いので家電から通報しようと受話器を取る。110を押して耳に当てるが、何かがおかしい。違和感がある。




「電話したって無駄だ。時間が止まってっからな」



「だからそんなのあるわけ」



「じゃあ聞くけど。その電話、呼び出し音とか聞こえてるわけ?」




それを言われて、ようやく違和感の正体に気がつく。受話器を取ってから、一度も音が聞こえていないのだ。




「う、嘘……じゃあ、本当に……?」



「だからさっきから言ってんじゃねぇか」




ため息混じりの呆れた声に、私は何も反論できなかった。



世界が、時間を止めた。そんな夢物語のような現象を、今まさに、私自身が身を持って経験している。




「そういうわけだ。ほら、さっさと部屋見せな」




面倒くさそうにしつつも鋭そうな彼の目から、どうやっても逃げられる気がしなかった。

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