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僕は全てを話した。
恋人が死んだこと。それにより、あらゆることに対する気力を失くしたこと。しばらく引きこもっていること。
包み隠さず、ひとつ残らず。今の僕における現状を、全てこの女子高生にぶちまけた。
話も後半になると、涙が溢れて喉も痛くなり、言葉にするのも辛くなっていった。それでも懸命に僕自身のことを語ると、少女はニコニコしながらうんうんと相槌を打ってくれた。それはまるで、小さい子供をあやす幼稚園の先生みたいだったけれど。
「ねぇお兄さ~ん。お兄さんの部屋にあがってもいいかなぁ?」
「……へ、部屋? なんで……?」
「お兄さんはぁ、今のお兄さんに必要のない『もの』を持ってるんだぁ~。だから、世界の『時間』がとまっちゃったんですよぉ~。もしかしたらぁ~、それがお兄さんの部屋にあるかもしれないなぁ~って思ってぇ~」
必要のないもの。それを聞いて無性に腹が立った。必要ないなんて、なんだ、それは。年端のいかない少女に、何故そのようなことを言われなければならないのか。それじゃあまるで、僕がゴミ屋敷にでも住んでいるみたいじゃないか。
「そんな怖い顔しないでくださいよぉ〜。だって本当のことなんですからぁ」
「……君、家出でしょ? おうち帰ったら?」
「あ~、私のこと信じてないんですね~? そんなこと言われたら、おこですよ~?」
日本語を話せ。いつの時代も女子高生はすぐわけのわからない言葉を喋る。
否、「わけのわからない」は語弊がある。ニュアンスは何となく通じるが、人々が認識する言葉として通じていない。そういうことだ。
「お兄さ~ん。ぶっちゃけ彼女さん死んじゃったんですよね~? だったらぁ~、いつまでも引きずっちゃあだめだと思うんですよぉ~」
「……そんなこと、耳にタコができるほど聞いたよ」
「じゃ~あ~、耳のタコさんが墨吹き始めたらぁ~、彼女さん黄泉返るんですかぁ~?」
そっちのタコじゃねぇよ。何アホなこと抜かしてんだこのガキは。
そもそもこいつは言っていることが全部無茶苦茶だ。どんなバカ校に通えばこんなアホが出てくるんだ。ここまで来ると高校に通っているかどうかすら怪しくなる。
「別に彼女さんの思い出全部捨てろなんて言ってないですよ~、私ぃ。今のお兄さんを作ってるのはぁ~、その彼女さんのおかげなんですからぁ~」
「真穂のせいでこうなったんじゃないっ!! 全部僕が……」
ニコッと笑うゆるふわ女子高生にハッとなる。
そうじゃない。僕は彼女に怒鳴りたかったんじゃなくて、僕が僕自身の情けなさに失望して……。
「彼女さん、真穂さんって言うんだぁ? 可愛いですね~」
「……そうさ。真穂は……僕のせいで」
「別にお兄さんのせいじゃなくないですかぁ? だってお兄さん、真穂さんのこと刺してないですよね~?」
「でも……僕が寝坊なんかしなけりゃ……!」
「うーん、やっぱりよくわかんないです~。なんで、お邪魔してもいいですかぁ?」
文脈が読み取れない。彼女は一体何がしたいんだ。
……部屋に上がりたいんだな。
「もう、わかったよ。好きにして」
「やったぁ! あ、その前に自己紹介しなきゃですね。私はアイ。ふつつか者ですが、どーぞよろしくお願いしま~す」
「結婚の挨拶かよ。……僕はl日扇l悟」
よろしくお願いしま~す、と頭を下げた彼女の胸がぽよよんと動いたのを見てすぐ、反射的に目を逸らした。
「お邪魔しま~す」
他人の部屋に入り慣れているのか単純に図々しいのかわからないが、アイは全く抵抗すらなくずかずかと独り身の男の部屋に入っていった。
「あのね、アイ。君には危機感というものがないの?」
「大丈夫ですよぉ~。こう見えて私、メリケンサックだけは得意なんです~」
……あまり聞きたくなかった気がする。
「それより~、お兄さんがどんな『もの』に『価値』を見出してしまったのか調べないと~。……あれ?」
ふとアイは、壁にかけてあったカレンダーに目を留めた。
過ぎた日には×印をつけ、今日の日付には大きく○で囲ってある。本来なら赤丸なのだが、モノクロ世界ではただの黒い丸である。
今日が○印の理由。それは。
「今日、真穂さんの誕生日だったんですね~」
どストレートに、僕の心を抉るアイ。
そう。今日は真穂の23回目の誕生日だったのだ。プレゼントも用意してあったのに、それを渡す前に彼女は……。
「もしかして日扇さん、バースデープレゼントとか用意してたりします~?」
「……なんで、それを」
「普通そうじゃないですかぁ~。恋人の誕生日にプレゼント用意しない彼氏とかマジ終わってますよぉ~」
世の中広いからそういう人もいるんじゃないかと突っ込もうと思ったけれど、話の腰を折る気はないのでやめにした。
「そのプレゼント、どこにしまってありますかぁ~?」
「え? えっと……確か引き出しに……」
箪笥の一番下の引き出しは、基本空っぽである。引き出しのひとつは必ず空っぽにしておかないと僕自身が落ち着かないからだ。
けれども……いや、だからこそ、そこには本当に大切なものだけをしまうようにしたんだ。
それが……。
「あった! ……あ、あれ?」
僕はその光景にちょっとした衝撃を受けた。
確かに引き出しの中にそれはあった。小さな、手のひらサイズの青い箱。誕生日にサプライズとして渡そうとした、僕なりの最高のプレゼント。
それが、モノクロの世界でも、はっきりと色付いていた。それも、サファイアのような輝きを放ちながら。
「え……どうして、これだけ……?」
「わ~お、ビンゴです! それが、日扇さんに必要のない『もの』ですよ~!」
嘘だ。だってこんなに綺麗に輝いているじゃないか。これは、価値あるものだからこそじゃないのか。
モノクロ世界の中では存在自体が浮いているようにも見えるリングケースを抱えると、アイはにっこりしながら手を差し出す。何をする気かもわからなかったけれど、嫌な予感が拭えなかったため、抱え込んだまま首を左右に振った。
「どうしたんですかぁ? さ、こっちに渡してくださ~い」
「だ、駄目だ! これは大事なもので」
「それは日扇さんに必要のない『もの』ですぅ。それに『価値』を与えているのが日扇さんなんですよ~」
「必要かそうじゃないかは僕が決める! とにかく、これを渡すわけにはいかないっ!!」
「わかってませんね~。日扇さん、それじゃあこのままずーっとこの静止した時間の中に閉じ込められちゃうんですよ~?」
それでもいい。とにかく、これを渡すわけにはいかない。
断固として譲らない僕を見て、ムスッとなるアイ。なんとも可愛らしい表情だが、僕はそんなものには靡かない。
アイはおもむろに目を閉じ、胸いっぱいに空気を取り入れ、その分思い切り吐き出す。次に彼女が目を開けた時、まるで人が変わったように目つきが険しくなった。
何が起きたのか理解する前に、アイは僕の胸倉を掴み上げた。
「チョーシこいてんじゃねぇぞてめぇ!! あんたこのままここにいたら、生きることも死ぬこともできねぇんだぞ!?」
なるほどこっちが本性か、とぼんやり考えながら、僕の唯一無二の宝物をよりいっそう強く握り締める。
「おい聞いてんのか日扇悟!! このままここにいたら廃人になるっつってんだよ!!」
「……そんなの、もともとだよ」
「この世界にいたらなぁ!! 前にも後ろにも進めねぇんだ!! 未来を生きることも、過去を思い返すこともできなくなんだよっ!!」
それを聞いて、ほんの少し力が緩んだ。今、なんて?
「ようやくわかったか、事の重大さが!! あんたにとって必要なものは、あんたを生かしてくれている彼女の“思い出”の方じゃねぇのかよっ!?」
ベッドの枕元に飾られた写真へ、ほぼ無意識的に目がいく。
彼女との思い出。それは他の何物にも変え難い大切な「もの」だ。宝石なんかより、そっちの方がよっぽど「価値」があるに決まっている。
なのに……僕は……。
「……本当に大切な『もの』を見失うと~、人は前にも後ろにも進めなくなっちゃうんです~。この世界ではぁ~、それを見失うとぉ~、本当に『失う』ことになっちゃうんです~」
緩い喋り方に戻ると、ぱっと手を離して僕を解放する。制服のポケットを少しだけゴソゴソ探ったかと思えば、何やらごつごつした固そうなものに、自分の指一本一本を丁寧に射し込んだ。
「それ、こっちに渡してくださ~い。今から『価値』を『破壊』するので~」
「は……?」
「だぁ~かぁ~らぁ~、『価値』を『破壊』するんですぅ~。私は『時計屋』なんでぇ~、世界の『時間』を『修理』しなきゃあいけないんですよ~」
ニコッと愛嬌ある笑みを見せるが、手にはメリケンサックが嵌められている。破壊って、まさか、そういうこと?
「『価値』を『破壊』してもぉ~、『もの』はちゃんと残るのでぇ、後は日扇さんがなんとかしてくださいね~? じゃ、それ貸してくださぁい」
「価値」を「破壊」することがどういうことかいまいちよくわかっていなかった僕だったけれども、こんな「もの」に囚われていた自分が馬鹿らしくなってきていたので、素直にリングケースを差し出した。
アイは愉しげにそれを受け取ると、バスケットボールの試合開始みたいに軽く投げ上げ、目の前に落ちてきたのを見計らってリングケースを殴った。
その瞬間、リングケースがパリンと割れた。正確には、リングケースをコーティングしていたものーー『価値』が、壊れた。
『悟~!!』
遠くから、真穂の声が聞こえる。
わかっている。そんな気がするだけだ。これは、真穂と僕の大切な思い出だ。
『悟。今度映画行かない? 観たい映画があるんだぁ』
『悟、誕生日おめでとう! ケーキ買ってきたよ~』
『悟、元気出して! 悟の良さをわかってくれる会社が、きっと見つかるよ!』
『もう! 悟のばか!!』
『……ごめんね、悟』
『大好きだよ、悟』
『いつか結婚できたらいいね』
僕の頭に、勝手に流れ込んでくる。
そうだ。真穂はいつだって僕のために精一杯生きていてくれた。なのに僕がこんな体たらくで本当にいいのか。
このままでいいなんて、本当に彼女に胸を張って言えるのか。
「……ごめん……真穂……ごめんなさい……」
なんの価値もない、ただの箱の前で泣き崩れた時、既にアイの姿はどこにもなかった。
それからというものの、しばらく会社を休んでいたせいで解雇通知を受けた僕は、履歴書を書いては提出を繰り返す日々に追われていた。
次の就職先が決まるまでの間はバイトで食い繋ぎ、毎日が忙しくて大変だ。けど、前よりはずっとマシな生活をしているのは間違いない。
あの指輪は、僕には必要ない「もの」だから、思い切って売った。仕事してこつこつ貯めたお金で購入したものだからいささかもったいない気もしたけれど、あれがあると僕は前を歩けない気がしたから。
僕は自分で自分に枷をつけていた。あの日の出来事は、そういうことを教えてくれた。
今となっては名前も顔も思い出せない女子高生。そのうち女子高生であったことも忘れて、彼女の存在自体も忘れてしまうのだろう。
でも、きっとそれでいいんだ。彼女なら、そんなことを言いそうだ。
来月の真穂の月命日は、どんな花を持って行こうか。いっそのこと、真穂が生前好きだった向日葵でも持って行こうか。
額に汗を流しながら、気がつくと僕はそんなことを軽く考えられるほどの余裕ができていた。
前を見て、歩こう。
それが、真穂と“彼女”にしてやれる唯一の恩返しだ。