1
大学を卒業し、社会人になってから、半年近い月日が流れた。
深緑に染まっていたはずの街路樹は黄色やオレンジといった、個性豊かで鮮やかな色に変わり、空はいっそう青く澄んで見えてきた。
今日はちょうど会社が休みだったので、学生時代からの付き合いである彼女とデートの待ち合わせをしていたのだが。
「やっば……」
この時僕は、大いに焦っていた。
久しぶりに休みが被って、彼女も僕も待ちに待ったデートだというのに。あろうことか僕は、すっかり寝坊してしまったのだ。
仕事が忙しくて疲れていたとはいえ、よりによってこんな日に遅刻とは。情けなさと申し訳なさで、朝食も摂らずにダッシュで駅前へと走る。
そんな中、彼女からLINEが。
「『遅い! 今どこにいるの』って……今走ってるとこだよぉお……!」
文面からも、彼女が怒っていることがよくわかる。それはそうだ、久しぶりのデートに彼氏が遅刻なんて、彼女として情けない限りだろう。
都会のど真ん中で、人々の視線を浴びながら全力疾走していたわけなのだけれど、空腹と焦りでいっぱいいっぱいだった僕は、そんなこと気にする余裕なんかなかった。
もともとそんなに運動神経が優れているわけでもないし、そもそもスポーツに興味がない。この時恐らく僕は人生で一番走ったと思う。
きっと彼女はカンカンだ。会ったらなんて謝ろうか。走りながらも頭を巡らせ、彼女と待ち合わせている駅へ向かう。
視覚障碍者誘導チャイムが聞こえてきたと同時に、バタバタと足を止め、切れに切れまくった息を整える。ぜぇぜぇ言いながらも、朦朧とする意識の中で彼女を探す。
「あっ! いたいた」
高くてよく通る声。僕が顔を向けると、可愛らしい笑顔で彼女が手を振っていた。
ウェーブがかった長い髪をシュシュで縛ったポニーテール。白いブラウスの上に淡い赤色のカーディガン。黒いミニスカートから見える、太過ぎず細過ぎない白い足。
久しぶりに見た彼女の姿に、僕は反射的に駆けつける。遅刻したからビンタされるだろうけれど、それはそれでアリだ。
秋風に揺れる髪が揺れた時、突然彼女の顔が強張った。
僕は思わず足を止める。まさか、笑顔の裏で本当はカンカンだったのではないかと思い始めた。けれどもその考えも、すぐに誤りであることがわかる。
元気に手を振っていた彼女は、崩れるように倒れた。
代わりに現れたのは、目の虚ろな細身の男。
男の手には、真っ赤に染まったナイフが握られていた。
あまりのことに、僕はその場から一歩も動けなかった。周りは悲鳴をあげ、その男から逃げ出したというのに。
逃げることも近寄ることもせず、僕はただそこに立ちすくんでいた。
気がつくと僕は病院のベッドで寝ていた。
医者や看護師の話によると、どうやら僕も刺されてしまったらしい。全く覚えていないけど、確かに腹部がズキズキ痛んでいた。
僕を刺した男は薬物中毒者で、他にも多くの人間が刺されたらしい。やがて彼は何を思ったのか、そのナイフで自分を刺して死んだのだとか。
彼女はどうなったのか、誰に聞いても答えてはくれなかった。中には、そんな人はいなかったとまで答える強者もいた。
やがて彼女の両親が見舞いに来てくれた時、全てを話してくれた。
案の定、彼女は死んでいた。
わかっていたはずなのに、僕はその事実を受け入れることができなかった。彼女の後を追って死ぬ気力も湧かなかった。
その日以来僕は、会社に行くこともなく、部屋に引きこもってずっと自分を責め続けた。もしあの時寝坊していなかったら、彼女は死なずに済んだはず。ちゃんと目覚まし時計の電池を確認していれば、彼女が死んだあの時間、僕らはカフェで談笑していたはずなのだ。
僕が彼女を殺したも同然だった。
僕のせいでーー彼女は死んでしまった。
ただ部屋にいるだけでも腹は減る。重い腰を上げ、近くのコンビニへと足を運んだ。
そこで適当に選んだ昆布のおにぎりとお茶のペットボトルをレジに置き、ポケットから出した財布の中を見る。
「……やっべぇ……今月ピンチじゃん……」
呟いてからも、百円玉を2枚抜いた時、ふと気がつく。
おにぎりもペットボトルも、置いた時から位置が変わっていない。店員を見ると、ニコニコ笑ったまま止まっている。
「あれ……?」
周りを見ると、パンを見ながら悩んでいる女子高生も、立ち読みしているサラリーマン風の中年も、ピクリともしていない。よくよく考えるとこのコンビニには、音楽すら流れていなかった。
外を見ると、街路樹から落ちたと思われる一枚の葉が、空中でぴったり止まっている。渋滞しているわけでもないのに、道路の真ん中で車が複数代止まっている。
止まっているだけじゃない。世界は徐々に、モノクロへと色を変えていった。
「なんだよ、これ……!?」
正直、僕は戸惑っていた。
これはどういうことなのか。何が起こっているのか。全くもって理解不能。
前代未聞の現象に半ばパニックになっていると、すぐ近くでガサッと音がした。
パンコーナーでずっと悩んでいた女子高生が、ようやくひとつの菓子パンに手を伸ばしたようである。モノクロの世界の中、何故か彼女だけが色付いていた。
「やっぱりパンはこしあんじゃなきゃね~。あ、お兄さんこんにちは~」
喋り方が緩い。今時の女子高生はみんなこんな感じなのだろうか。
その緩さを象徴するかのようなふんわりとしたショートヘアを揺らしながら、子猫のようにひょこひょこ近づいてくる。身長は平均よりやや低めのようだが、歩く度に揺れる胸がどうしても気になるのは男の性か。
「お兄さん、何か悩みでもあるのかな~? それも、抱えきれないくらい、お~きな悩み事~」
「……悩みなんて、ないよ」
そう、悩みなんてない。僕は勝手に苦しんでいるだけだ。それなのに、なのに。
「え~? じゃ~あ~、どうして『時間』が止まっちゃったのかなぁ~?」
「え……?」
不思議なことを言う子だ。その言い方はまるで、僕がこの現象を引き起こしているみたいじゃないか。そんな神様みたいなこと、できるはずもないのに。
「お兄さんがぁ~、『時間』を止めたんだよぉ~? 本当に~、心当たりないの~?」
何を言っているのだろう。そんなのあり得ないじゃないか。
「あっ、もしかしてお兄さん、気付いてないのかな~?」
「……?」
「よく言いますよね~、何かショックなことがあると~、人は自分の時間を止めちゃうって。それに近いことがぁ~、今世界に起きているんですよぉ~」
彼女の言っていることはよくわからない。
わからないけれども。
「お兄さん、最近何かありましたぁ~?」
少なくとも彼女の目は、どうやっても誤魔化せそうにない。