乙
死にたいなんて思ったことねえよ。逃げたいと思うし、痛いの嫌だし。だけど体が動かない。視界も霞む。本当にもうだめだと思ったときって、人間悟ること、あるんだな。
世襲咎視 乙
「お前のガタイ景観保護に引っ掛かりそう」
陽炎が足元を舐めるように揺らめき、蝉は求婚の雄叫びをあげ、室外機の前と同じ温度で風が過ぎ去る。
「暑い」
「オレの話聞いてる?」
級友が隣で燥いだ。太陽が喉を灼いて、呼吸すら億劫になる。
「まだ着かないのか、嵐山」
「だってここ上桂だろ?歩いたばっかじゃん。全然遠い」
「そうか…」
うだるような暑さの中、哀しき男らは雅な京の町をゆく。大学の卒業旅行に遠出がしたいと言った友に連れ立って、ここまで来たはいいものの、盆地の気候をなめていた。散策を兼ねて徒歩で移動しようなんて言い出した自分を心の中で睨めつける。正直体力だけが資本財産の貧乏学生には、二駅分を電車で移動は以ての外だったけれども。それにしても本当に暑い。スニーカーの中でアスパラガスでも調理できそうだ。自家シリコンスチーマーか。耐えかねて、やはり電車で…そう思い掛けたが、はっとして砂利を踏み直した。そうだ。あの場所へ向かうにはこの雑念を抱く暇も与えないような照り返しと、へらへら笑う隣の茶髪。これくらいあった方が丁度よかったな。
竹林の中を進む。青竹がさわさわと涼を奏で、迫るように茂った深緑が色濃く影を落としている。ここは溽暑もなりを潜めて、行き交う淑女も日傘を畳んでいた。何か気温とは別の清涼感、まさに凄涼といった、寂寞の色を呈した一本道。
「なんでこんな寂しいとこ来たがるのか、理由は聞かないけど」
友が僅かに顔を背ける。
「お姉さん、連絡無いんだろ」
「相変わらずな」
枯葉や屑を巻き上げて、細道の空が僅かに唸った。ここは、俺の姉が最後にいた場所―いや、俺が彼女の姿を最後に見た場所と言った方が正しいかもしれない―嵐山、嵯峨野。
初子の死産の報告と、ここでの写真を実家に送ったきり、姉の便りは途絶えてしまった。ちなみに、肩を並べた夫の顔はついぞ見ることは叶わず、彼の素顔は日傘の向こうで、穏やかに笑っているのかもしれなかった。
この場所を辿れば、姉がひょっこり顔を出すのではないか、久方ぶりの邂逅は出来ずとも何か足取りを掴めるのではないか。そんな思いでいた。しかし行けども行けども深緑の海は、一つとして表情を変えることはない。竹が無慈悲に俺を見下ろす。いない――。焦燥と不安が綯い交ぜになって押し寄せた。気道から直腸まで、剣山を押し当てられたように臓物が痛む。酩酊感に近い視界の揺れと、さんざめく青竹に混じって姉の声が聞こえてきそうだった。耳鳴りと葉の擦れるおと。姉ちゃんどこにいんだよ、父ちゃんも母ちゃんも歳なんだ、心配事かけさせないでやってくれよ。なあ、なあ―――
「ヨシ!!」
意識を絡め取られる感覚を、男の声が断ち切った。あんなに囂しかった植物はいつのまにか内緒話のような声音に落ち着き、頭の中の残響だけが鼓膜を震わす。友は俺の肩を鷲掴み怪訝そうにこちらを見つめていた。
「わり…なんでもねえ」
「いつも出来損ないの唐揚げみたいな色してんのに、真っ白だぞ、顔。大丈夫かよ」
心配そうな顔と口先が合っていない。
「なんだそれ」
「今日油切りも不十分だけど」
「汗な」
軽口を叩いて平常心を取り戻していく。彼のこういう能天気さには平生の学生生活でもよく助けられていたことを思い出した。
彼とは同じ大学で下宿先も同じアパートだったことから、すぐに打ち解け四年を共にした仲である。お互い初めての一人暮らし、勝手わからぬ東京の街だということも相俟って、二人でいることが多かった。
姉がこの古都で消息を経ったことも打ち明けた。姉からの音沙汰が無くなって「変だ、何かあったんじゃないか」と、そう思い出したら居ても立ってもいられず着の身着のまま飛び出した三年前の冬の夜。その日のことは今でもよく覚えている。宛もなく駆けずり回り何の収穫も得られず、疲弊しきってアパートに戻ると、彼は「とりあえず腹拵えしようや」と適当に野菜とうどんをぶち込んだ味噌仕立ての鍋を持って訪ねてきたのだった。くたくたになった具材が、自分の帰りを待っていていたことを物語っていて、少しだけ、心の荒波が凪ぐような気がした。
肺を膨らませ青臭い空気を目一杯取り込み、前を見遣った。もうじき道が開ける。そよぐ竹が遠くなる。
結局、姉はいなかった。
「…京都、連れてきてくれてありがとう」
「後悔してないか」
「俺一人じゃ踏ん切り付かなかったから」
友はもともと垂れた眦を、更に蕩かして頷いた。
それから天龍寺と鈴虫寺を見て、予約していた鱧の店で舌鼓を打ち、後は小物屋や甘味処に寄りながら、茜に染まる街を歩いて宿へと向かった。
店に財布を忘れたことに、途中で気付かなければ。友一人にホテルのチェックインを頼んで、行動を別にしなければ。俺の脚がもう少し遅ければ。
俺は標の縞を背に、走馬灯というには短いただの回想を浮かべて、車の整備士の気持ちを知らずに済んだかもしれなかった。
姉ちゃん、俺がそっちにいったら寂しくねえか?
これ、そういうことなのか?




