灰猫族 0-2
「セイラ…ちゃん…?」
「……」
セイラは何も言わず、ただ俯いて『お姉ちゃん逃げて』とリンクス語で書かれた字を押し付けてくる。ぐいぐい、と勢いがよくて押しつぶされてしまいそうだ。シェルビーナは顔を見るために、しゃがんで彼女の顔をうかがった。俯いていてわからなかったが、耳が赤くなっている。今すぐにでも泣き出してしまいそうだ。
「セイラちゃん、逃げてってどういうこと?セイラちゃんは何を知っているの」
「………」
「話してごらん、お姉ちゃんは大丈夫だから」
その言葉にセイラは目を見開いた。そしてすぐに、キョロキョロと廊下に誰かが居ないことを確認すると、私に向かって口を開いた。
「…殺されちゃう」
「え?」
「早く逃げないと、お父さんとお母さんに殺されちゃう…… 早く逃げてお姉ちゃん…」
「待って、それってビアララさんたちのことだよね?」
「セイラ、しってるの。お父さんとお母さんは悪いことしてる…。お母さんはね、お姉ちゃんみたいなリンクス人の女の人をお家に連れてきて、殺しちゃうの――――セイラ、見ちゃったんだ。あんな顔をしたお母さんなんて、嫌… 嫌なの…」
「ビアララさんが、リンクス人の女性を家に連れてきて殺しているってこと?」
そんなこと信じられるはずが無い。しかし、人は見かけにはよらないということもある。もし、それが本当だと仮定すればりっぱな犯罪だ。騎士団に報告してしまえば、間違いなく牢屋に入れられるか、死刑が行われてしまうだろう。リンクス国の政治は、宗教戦争があってから厳しくなっていると昔、祖父から聞いたことがある。祖父は一度、キャットシー派の軍に入り宗教戦争に行ったことがあるそうで、キャットシー派が勝利したときにアリア教の半分はキャットシー教を強制的に信仰させられたらしい。それを知ったアリア教の軍人が戦争の逆恨みで、キャットシー教派の人々を大量に殺してしまったというひどい事件が発生したため、犯罪に関する判決は、ほぼ死刑なのがリンクス人にとっては当たり前だ。
「―――信じられないよ、でも嘘は言ってないんだよね?」
「……『ペット』がいるから本当だよ」
「ペット…?ペットってあの飼ってるペットのこと?」
「お姉ちゃんの言っているペットとは違うの!ペットは、ペットは――…」
その時だった。
「いけない子ね、セイラ」
「!!…おかあ、さ…」
「ビアララさ… ―――!?」
シェルビーナは彼女を見て驚愕した。ビアララは、私が屋敷に来たときと変わらずとても美しい笑顔でセイラに話しかけている。――――しかし、着ていたドレスだけが変わっていた。とても似合っていた水色のドレスに赤い鮮血が飛び散っている。殆ど飛び散っていて台無しになっており、よく見れば顔にも、手にも、足にも、靴にも赤い鮮血が飛び散っている。
「ビアララさん、その姿は…」
「ふふふふふふふっ、やぁねえ… ――――セイラ、あなた、話したのね?今までお母さんの言うことを聞かないことなんてなかったのに」
「っ…おかあさん!もうやめてよこんなこと!!」
「何を?新しいペットが増えただけじゃない、むしろ喜んでほしいくらいだわ」
「っ、…ビアララさん、やっぱりあなたリンクス人の女性をっ…」
「ええそうよ!本当に憎ったらしいやつらばっかりよね、私よりも美しい耳、美しい尻尾、美しい毛並みを持っているだなんて許せないわ、だから殺してやったの。ペットはその剥がされたゴミたちよ」
――――ゴミ…?リンクス人の女性たちが…?
鼓動がどくり、どくりと早くなっていく。気のせいか吐き気なのか、めまいなのか、よくわからない症状が身体に出始めている。頭はお湯が沸騰したかのようにカーッと熱くなっていって今でも倒れてしまいそうだ。
「貴方も私の収集品にしてやろうかと思ってやったのに、そこにいる糞ガキのせいで真実を知られてしまっては、ペットになんか出来ないわね!貴方はペットだけじゃなく骨の隅々まで掻っ捌いてやるわよ!!」
この症状は何なんだろう、目の前にいる相手がものすごく憎くて憎くて憎くて憎くて憎くてたまらない。そして身体も熱くて、我慢が出来ない。鼓動がどんどん早まって苦しくなっていく――――…
「あなたに逃げられて騎士団に報告されてしまったら困るのよシェル、悪いけど貴方には死んで―――…」
「死ぬのは貴様だあああああああぁぁぁぁぁぁっっ!!!!!!」
迫る瞬間、シェルビーナは両手から鋭くて長い爪を取り出し、ビアララに迫りかかった。
――――許せない、そんなことのためだけに、セイラちゃんやリンクス人の女性たちを……!!
彼女は突然の攻撃によけ切れず、その場で固まったかのように思えたが、彼女の目の前寸前で私は見えない『何か』に身体を跳ね返された。体制を整え、床に着地する。
「フッ、馬鹿な子…」
「見えない壁…?まさか、貴様―――魔術を使えるのか!」
「ご名答、さすが400年も生きるリンクス人の戦闘民族の『灰猫』。これは『キャットシールド』…術者を守る見えないバリアのような物。解除の呪文を解くまで360度、術者には一切近づくことなんて出来ない、あなたにはやっかいな魔術」
「ちっ…、まだ魔術を使う人が居ただなんて…!」
「お姉ちゃん…!」
「―――セイラ、残念だわ。貴方は私の言うことを聞いてくれるいい子だと思っていたのに…」
そう言いながら、ビアララがスッと手を前に払うように差し出すと、シェルビーナの真後ろで様子を見ていたセイラを何人かの執事が捕らえた。
「!!やっ、やだ!やだ!!」
「セイラちゃん!セイラちゃんを放しなさい!」
「おっと」
「ぐっ…」
ビアララが私の後ろを回り、人質に向けるように首にナイフをあてがう。そのせいで、私は身動きが取れなくなってしまった。
「私よりセイラを選ぶの?こんなに美しい私が相手をしてあげてるっていうのに、まだ未熟な糞ガキを選ぶなんて、ほんっとに憎たらしいわね、シェル」
「気安く名前を呼ぶなっ…!」
「あらお忘れ?そう呼べと言ったのはあなたよ」
「ふざけるな…!真実が明らかになった今、貴様にそう呼ばれるのは反吐が出る!」
「っ…口の利き方がなってないリンクス人なんて大っっ嫌いなのよね」
覚悟を決めたのか、ビアララはシェルビーナの背中から刺してやろうとナイフを構えた。
「っ…」
「お姉ちゃん!!駄目、お母さん!!!」
「―――死ね、灰猫族」
(もう、駄目か……!!)
ナイフが刺さろうとしたその寸前―――――いきなり爆発が起きて、建物内が揺れた。何が起きたのか、その場に居た人たち全員が状況が把握できない。
「何事!?」
「爆発…?」
すると、二階の渡り廊下から見知らぬ青髪の男性の声が廊下に響いた。
「貴殿がビアララ・レルナージェか!」
「っ…あの紋章―――テッド王国!?なぜテッド王国の使者がリンクスに居る!?」
その男性は、二階の渡り廊下の手すりから飛び降り、うまく着地した後にビアララに近づく。
「貴殿のような犯罪者に話す権利などない。俺は、テッド王国騎士団長のヤーグ!ビアララ・レルナージェ、貴様をリンクス国の法律に基づいて逮捕、裁判をかけさせてもらう」
「なっ…この私が…裁判ですって…!?ふっ、ふふ…!バカじゃないの、私は今『キャットシールド』の魔術をかけているのよ!!」
「わっ!」
ビアララが、シェルビーナを剥がすように床に叩きつける。自由の身になったシェルビーナは、セイラを助けるために、執事たちの方へと飛びかかった。 魔術が使えるのは、ビアララだけではない。シェルビーナは術式を描くと自ら指を傷つけ、真ん中に血判のための、灰猫族の血を垂らした。
「神獣から受け継ぎし、魔の血痕よ!汝、その呼び掛けに応えたまえ!」
「この女も魔術を!?」
「召喚、『ファイアウォルフ』!!」
召喚する獣の名を口にすると、術式が巨大化するとともに光を放ちはじめ、そこから炎を纏ったオオカミが現れた。
「よう、シェル。お呼びって事ぁ、出番か?」
ファイアウォルフは契約者であるシェルビーナに話しかけた。これがシェルビーナの使える魔術のひとつである、『召喚魔術』と呼ばれる、古い魔術で使える者はめったにいないと言われている。なかでもファイアウォルフは、シェルビーナが契約している神獣の中で長い付き合いだ。
「ええ、あの黒い男たちに捕まっている女の子を助けて頂戴、なんなら女の子と兵士さん以外は燃やしてもいいけど」
「シェル、もしかして怒ってんな?」
「な、なんでわかるの?貴方に意思を読み取る力なんてないよね?」
「何年の付き合いだと思っているんだ阿呆、二沢あるってぇことはどっちでもいいんだよな?」
「勿論!!」
武器を構えたシェルビーナを見て、ファイアウォルフは「よっしゃあ!!」と執事たちのいるほうへ駆け出していった。