-マグス村冒険者組合での一幕(後)-
遅くなって申し訳ありませんでしたm(__)m
正直な話――俺にとって猪という獣は、それほど馴染み深い獣ではなかった。
グランセルの南に位置する大森林にもいたらしいが、その中で出くわす機会は数える程度しかなかったからだ。
あの森では、猪より鹿の方が圧倒的に多く、同時に鹿を餌にする灰色狼の数が多いのだと、そんな話を誰だかから聞いた覚えもあった。
とはいえ、猪がどういった生き物かくらいは知っているつもりだ。
鹿や狼と比べればどっしりとした体を持ち、それ故に突進力が強い獣。
俺の家に伝わる魔導の中にも猪と名前の付くものがあるが、その効果はまさしくその特性そのままだった。
普通の猪だって大きいものはそれなりだろうが、今しがた冒険者組合に入ってきた坊主がこれほど騒いでいるのだ。
ならばその猪の大きさは相当なものになるのかもしれないし、それだけ大きな猪の狩猟となればただの猟師には荷が重い。
話が冒険者組合に持ち込まれるのも当然だと、俺はそう思った。
だけど、俺の目の前にいたギルドの受付嬢はというと、さして慌てる様子は見せず、それどころか呆れたように大きなため息を吐き出していた。
「はぁ――、またですかジャック君、その手には乗りませんよ!」
俺の予想に反し、受付嬢からの返答は随分と辛辣だった。
今しがたあったばかりだったが、丁寧な物言いの彼女からそんな言葉が出てきたことに驚く。
「そ、そんな――っ、今までのことは悪かったよ! 今度は本当なんだよ!」
「今度は本当を何回繰り返すんですか……、先週は大鷲、周始めは大トカゲ、三日前は大蛇で、今日は魔猪って、よくもまぁ毎回違う獣を考えられるものだと、逆に関心しますよ」
受付嬢のその言葉に、入り口付近にいた坊主はぐっと口を噤んで悔しそうな表情を作りながら、それでもカウンターの近くへと小走りで近づいてきた。
今しがた俺が話していた受付嬢の近くに来たものだから、必然俺と横並びになる形になった。
頭の位置は俺の胸よりまだ低い――多分十を超えたか超えないか位の年のガキだった。
目の前に来た坊主に向かって、受付嬢は冷静に問いただした。
「一応聞きますけど、どこでその魔猪とやらを見たんですか?」
「み、見たのは森の中だよ、迷わずの森の中だ!」
「ほら、やっぱり今回もいつもの奴じゃない、いうに事欠いて迷わずの森なんて、つくならもっとましな嘘をつきなさいっ!」
なるほど確かにそれは嘘っぽい話だと、俺も目の前のやり取りを見て思った。
俺も昨日件の森に入ってみたが、さまようこと二時間、生き物に出会うことは終ぞなかった。
あの森は踏み込むモノを強制的に試練に挑戦させられる森だ。
誰かと同時に森に入ったとしても、どうしたって別々にされてしまう。
聞くところによると、どんな生き物でもそうされちまうみたいだから、あの森で生き物に遭遇するのはまずありえないことだった。
故にこその受付嬢の否定――仮に坊主が言うような魔猪がいたとしても、迷わずの森の中で遭遇するなんてことはあるはずがないってことだ。
「本当に今回のは嘘じゃないんだよ、見たんだ、森の中でっ! お願いだから調査だけでもしてよ。あの森にはあいつだって出入りしてるんだからっ」
「――今日は随分としつこいわね……、そんなに言うならギルドマスターに進言してみるけど、マスターは今村にいないから、どっちにしろすぐに調査員はだせないよ?」
「ええぇ!? それって何時になるんだよ!」
「マスターは三日後に戻ってくるけど、冒険者の手配とかもあるし、たぶん最短で五日ってところかな」
「それじゃ遅いよっ、何とかならないの?」
「うーん、どうしてもって言うなら依頼って形で出すか、知り合いの冒険者に直接頼むかってとこかな――あとは、魔猪がいるっていう明確な証拠があればだけど、ねぇ――」
受付嬢は、用意できるの? とでも言いたげな視線を坊主へと投げている様だった。
そんな視線を受けてか、坊主は悔しそうに肩を震わせながら僅かにうつむいた。
「おーい坊主っ、金さえ用意できるんなら俺様が退治してきてやんぞー」
「はっはー、魔猪たぁ大物だなぁ、まぁ最低でも銀貨十枚は用意しな坊主っ!」
かなり大きな声でやり取りをしていたものだから、どうも奥で酒盛りをしている奴らにも今の話が聞こえていたらしい。
大型の獣の盗伐であれば、十万で高すぎるという事は決してない。
もちろん飲んだくれの奴らに退治できるなんて到底思えないが、依頼金に関してだけは割とまともな金額に思えた。
だが、そんな野次にも聞こえる声に、坊主は反応して顔を上げた。
「……わかった、金か証拠だなっ? 絶対用意してやるっ、くそっ!!」
坊主は威勢よくそれだけ言うと、弾かれるように踵を返して冒険者組合を飛び出していった。
その勢い余ってギイギイと音を立てる扉を目にしながら、俺は受付嬢へと再度向き直る。
「――あんな対応でよかったんすか? あの坊主が言ってたことが本当なら、直ぐに調査だけでもした方がいいんじゃ?」
「お見苦しいところをお見せしました――確かにあの子、ジャック君の言ってることが本当に本当なら、そうなんですけど――」
「おいおい、随分とあの坊主のこと疑うじゃねぇか」
「それは疑いますよ、今日は随分と食い下がってきましたけど――あの子は二、三日に一度は同じようなことを言って冒険者組合に飛び込んでくるんですから」
「へぇ、そりゃ穏やかじゃないな」
「ええ、本当にそうです――最近では今みたいに他の冒険者から煽られる始末で、"ほら吹きのジャック"なんて悪口まで言われるくらいなんですよ」
やれやれです、なんて言いながら受付嬢は手元へと視線を落とし、俺たちの拠点変更の手続きを進めてくれた。
魔猪の調査の手続きではなく、拠点変更手続きの方を優先してくれたのだ。
それだけ見ても、先ほどの坊主が日常的に嘘をついていることが想像できた。
確かに毎回同じように嘘を言われたら、こんな対応になったとしてもしょうがないのだろう。
――だけど、もし、さっきの坊主の話が本当だったなら。
切羽詰まった表情をしたあの坊主が嘘を言っているとは、俺はどうしても思えなかった。
だから何だろう、前髪の長いあの坊主のことを、俺は心に留めておくことにした。




