森の中にて(後)
遅くなってすみません。
――意識は確かにあったけど、体は全く動かせなかった。
いいえ、それどころか目も開けられなかったし、呼吸さえ満足にすることが出来ない。
まるで胸の上に重石を乗せられているみたい、誰かが上に乗っかっているみたいで――そんな圧迫感が呼吸を満足に出来ない原因だった。
ふと目が覚めたという表現が適切なのか、それとも私は未だ夢の中に居るのか――
霞が掛かっているけれど意識は確かにあって、でもそれでいて目を閉じているはずで横になっている感覚は確かにあるのに、私が横になっている馬車の内装の俯瞰的な映像も頭の中には映ってた。
パチパチという微かな音は、寝る直前にも耳にしていた篝火のそれ――そして、其れの微かな光が馬車の後部出入口から差し込み、薄暗く馬車内を照らしている。
私の脳内に映るのは、薄暗いながらも辛うじてぼんやりと浮かぶ馬車の内装だった。
それは余りにも新鮮過ぎる体験――間違いなく私にとっての初体験だった。
得体のしれない雰囲気に不気味さを覚え、じわりじわりと怖いという気持ちが湧き上がってくる。
幼いころ不意に夜の闇の恐ろしさに襲われ、お母さんに泣きついた記憶を否が応にも思い出してしまう。
――不意に、馬車入口の垂れ幕が不自然に揺れた。
揺れただけだったらよかったのに、私の頭の中の映像にも先ほどまでとは違う黒い靄の様な何かが映りこんでいた。
黒い靄のはずの其れは人影大の大きさのせいで――もはや私にはそれが人影にしか見えなかった。
私の度についてきてくれた人たちの、その誰とも違う様に見える人影が私の眠る空間に入って来た――それだけで事だというの、それはミシリミシリと音を立てながら私の元へ近づいてくるのだからたまったものじゃないっ
だけど、胸を圧迫する重りは健在で指先一つ動かせないっ――そんな状況に恐怖ばかりが加速度的に高まっていく。
私にできたことと言えば、辛うじて情けないうめき声を上げる事だけ。
……――思えばここ最近の間、私にとっては好都合なことばかりが起きていた。
絶望から一転、私と言う存在が特別だから良く分からずちやほやされた。
初めのうちは心情的に煩わしいとしか思わなかったけど、ある時を境に満更でもないと思ってしまう自分がいたと思う。
そしてとびっきりなのは、もう一度朔兄に会えたことということ。
そんな特別の事態が立て続いたせいで、私自身もどこか心の中で思っていたのかもしれない。
……――私の望むことは何でも思い通りなるって、私は特別な存在なんだって。
だけど、こんな状況になると――ううん、こんな状況だからこそ、そんな思い違い違いを思いっきり否定されているように思えた。
お前は、ただ状況に流されることしか出来ないちっぽけなニンゲンなんだって、言われているみたいに。
にじり寄ってくる不気味な人影に、旅の仲間たちに、私自身に、そしてなにより、あの人に――
『…………あ……うぅ、た……けて……』
やっとの思いで絞り出したのは、そんな情けないうめき声だけ。
抵抗などと言うには余りにも弱弱しく、烏滸がましいとさえ思える行為。
その程度の事しか出来ない自分は、酷く惨めな気さえした。
――しかしながら、その私の弱いSOSに答える影が一つ。
私にゆっくりにじり寄っていた不気味な人影と異なり、一瞬にして入口の垂れ幕を揺らしたかと思ったそれは、一息で私のところまで滑り込んだかと思うと、仰向けに寝ている私の頭上の上を銀色の何かがすばやく通り過ぎた。
『――っ!? はっ、つはっ!?』
――変化は劇的だった。
視線の先を何かが通り過ぎたかと思った瞬間、胸の上にあった重石がスッキリと消え去り、私は慌てて息を吸いこむ。
深呼吸を一つ、二つ……、そうやって息を整えながら慌てて上体を起こし、後から入ってきた人影へと目をやった。
そこにいたのは、腰に大ぶりのナイフを収めようとしている、私の大好きな人だった。
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『――はい、出来たよ。熱いから気を付けて飲んでね』
『うん、ありがとう朔にぃ』
俺は焚火にかけていた小鍋を取り、木製のコップへ温めな鍋の中身を注ぐと、それをいっちゃんへと手渡した。
手渡す際に優しいミルクの匂いが俺の鼻孔をくすぐる。
二日前、補給で立ち寄った農村で購入した山羊のミルクの最後の一杯である。
革袋一杯分を購入し、食事の度に希望者に振る舞われてきたそれだったが、生鮮食品であるためそろそろ使い切らないと拙かったのも。
加えて一人分しかなかったものだから、この際だという事でホットミルクにしていっちゃんへと振る舞っていた。
あのようなことがあったのだから、気分を落ち着かせるには丁度よかろう。
ふーふーと火傷しない様に適度に冷ましながら、ホットミルクをちびりと口にするいっちゃん。
彼女がホッと一息吐き出すのを待ってから、俺は彼女に声をかけた。
『それにしてもまさか幽鬼と鉢合わせるなんて災難だったね。低級の幽鬼だったから気づくのが遅れちゃったみたいだ。――ゴメンねいっちゃん』
『――っ、ちょ、ちょっとまって、まさかとは思ったけどさっきのって、ほ、ほんものの……?』
『うん、所謂お化けってやつだね』
『――――ッッ!!?』
いっちゃんにとってみれば驚愕の事実だったようで、声にならない悲鳴を上げながらカップを落としそうになっていた。
そんな彼女に姿に俺は思わず苦笑いを浮かべてしまう。
『低級の幽鬼だったから呪いとかは無いと思うし、祓う事も出来てるはずだから多分大丈夫だと思うけど……』
『ちょっとまって、ちょっとまってよ! どうしてそんなに冷静なの!? お化けだよ!? 朔にいだって苦手だったじゃない!!』
言われてみて、そういえばそうだったなんてことを呑気に思った。
昔はホラー系の映像作品は兎に角苦手で、よくいっちゃんと一緒に盛大に怖がっていたものだ。
性質の悪い事に朝日兄さんが大のホラー好きであり、尚且つ怖がる俺たちが面白かった様で、よく二人仲良く捕まっては強制的にホラー映画視聴会に参加させられていたのは、遠い日の苦い思い出である。
――というか、恐らく今の俺はホラー映画を克服しているという訳では多分ないだろう。
今恐怖映像を流されたとしても、情けない事に悲鳴を上げる自信があった。
『……うん、正直ホラーは今でも苦手だよ、――恐らくさっきの奴は僕の中で割り切りが出来てるんだと思う』
『――割り切り?』
『うん、幽鬼は確かにお化けだけど、同時に獣とかと同様の外敵なんだよ。この世界ではお化けでも簡単に退治出来るんだ、だからちょっとはマシ? みたいな?』
『そーなんだ!?』
『そうなんだよ、さっきのもねこのナイフに無色の魔力を纏わせて切り払った。それだけであの幽鬼は消えてしまったからね――、幽鬼の構成要素は魔素に近いから、魔力を纏えば大体対処が出来るんだよ。対処が出来るっていうのは大事なことだね』
元居た世界で幽霊を怖いと思っていた最大の理由――それは専門家ではない僕たちに対処の手段が無いというのが一番だろう。
得体のしれないものでも対処が出来るなら、それに抱く脅威度はどうしても低くなる。
『――私金縛りなんて初めてだったからどうしたら良いかわかんなくて、凄くパニクっちゃったよ、ありがとう朔にぃ、助けてくれて』
『どういたしまして、というかゴメンね、教えてあげてればよかった。さっきのレベルの幽鬼だったらちょっと強めに魔力を放出すれば、それだけで嫌がって退散したかもね。向こうの世界じゃ何にも出来ないけど、こっちなら魔導があるから手足が動かなくても抵抗が出来るんだ』
『なるほどねぇ、あれ? でも金縛りってお化け関係の事じゃなくても起きるって聞いたことあるかも……、金縛りに合うたびにへやぁーって魔力出してたら唯の変な人だよ?』
……確かに、横で寝ていた知人が突然魔力を放出させだしたら僕もビビってしまうかもしれない。
俺の経験談だけど、確かに金縛りってのは精神的に不安定な時に頻繁に起こっていた記憶がある。
特に高校受験の時は酷かった記憶がある。
精神的に不安定だから脳みそが錯覚を起こすのか、はたまた不安定な隙を突かれて霊的な何かに付け込まれているのか。
専門的なことは分からないけれど、自論でありこの世界でのみ適用されるかもしれないことが一つだけあった。
『不確かかもしれないけど、判断要素は音だと僕は思うな、足音や物音何かがあったら大体本物だね、其れで判断するのが良いと思うよ』
『……それはそれで、なんかやだなぁ』
隣に腰かけるいっちゃんは可愛らしいしかめっ面をしながら、ちびちびとミルクを飲み込んだ――それは彼女が拗ねた時によくしていた表情である。
俺は懐かしくなって、自然な動作で彼女の頭を撫でていた。
それは拗ねたいっちゃんに対して昔から良くしていた行動で、本当に久しぶりに行う動作だった。
『まぁ、こればっかりは慣れだし、咄嗟に出来なかったとしても今は周りに僕達がいるよ、少しずつ慣れていこう?』
頭を撫でた彼女は、恥ずかしそうに俯き加減になった。
目じりには若干涙が貯まっていた様な気がしたが、俺は其れに気が付かないふりをする。
――その涙が示す意味にも、俺は気が付かないふりをした。
金縛りって本当に怖いですよね……
今回出てきた金縛りについては持論ですのであまり本気で捉えないでいただけると嬉しいです。
ただ、やはり大学の卒論前や、中国出張前の前泊しているホテルとかなんかで、私は良く金縛りに合いました。
メンタルが弱っている時ほど顕著だった気がします。
そういった場合、私は部屋を明るくした状態で寝てました。
人によっては明るい状態だと眠れない人もいるかもなので、解決方法にはならないかもしれませんけどね(笑)




