マクドナルドのウィルヘルム・フルトヴェングラー
1954年。
モスクワで世界初の原子力発電所がつくられ、アメリカではボーイング707型機の初飛行が行なわれた年。
日本では同翁丸の沈没によるディーゼル機関への転換がおこなわれ、アメリカではイリノイ州デスプレーンズでマクドナルドにより最初のフランチャイズ店が出店された。
その1954年、つまり革命的エネルギー利用と大量消費大量輸送の幕開けにより20世紀後半の方向性が如実に明らかになっていった年、ドイツのバーデンバーデンでは19世紀ドイツの指揮法における秘伝の継承者ウィルヘルム・フルトヴェングラーが肺炎による死の床に就いていた。
19世紀。馬車とバターがふんだんに用いられたムニエル。人々が昼間にあつめたまきを暖炉にくべて暖かく語り合った時代。マーラーやワーグナーはもちろん、ブラームスやシューマンが生きていた極上にロマンテックな時間。
20世紀の半ばにしてその空気を再現する名手であったフルトヴェングラーはベットの中で、毎日のように見舞い客に対して愚痴をぶちまけていた。
その内容はいうまでもなく、自分の死後、ベルリンフィルの指揮者の地位に就くであろうヘルベルト・フォン・カラヤンのことであった。(当然彼がその名を口にするとき、フォンという貴族の称号が冠せられることはなかったが…)
あのしゃがれ声の小男の音楽。
大学では工業を学び、スポーツカーを乗りこなす憎い伊達男の音楽。
それはイタリアのトスカニーニに角砂糖を5,6個溶かしたような、機械的な爽快感とイタリアオペラの陶酔感に満ちた、フルトヴェングラーにとっては許されざるドイツ芸術の破壊者のものだった。
その男が、こともあろうに自分が手塩にかけて育て上げた伝統音楽の結晶ともいえるベルリンフィルを手に入れること、それは彼をして毎日見舞い客をうんざりさせるほどの愚痴を吐かせるには十分すぎた。
俺は大戦中もドイツを離れることなく伝統を、あのオーケストラの音楽を守ろうと必死だった。
それがこともあろうにファシストの手に渡るとは…。
そんな病床のフルトヴェングラーを見舞ったあるジャーナリストがニューヨークタイムスを忘れて行った。
気晴らしに読んでいた彼の目に留まったのは経済面の記事だった。
「マクドナルド兄弟がイリノイ州デスプレーンズにて出店した新型ハンバーガーレストランが大人気」
次の日、彼はそのジャーナリストを呼び出しハンバーガーについて尋ねた。
案の定、ハンブルグで出されたあの肉料理と関係があるものだった。
痩身の彼は、見た目とおりの食の細さであまり肉を好まなかった。
戦前に演奏旅行でハンブルグを訪れたとき、それを知った現地の人間がその地の名を冠する庶民の料理であったハンバーグをご馳走した。
それは硬い肉が身体に合わない大指揮者への配慮であったが、まずいことにその日はマエストロが新進気鋭のカラヤンが演奏するベートーヴェンのシンフォニーを初めて聞いた次の日であった。
不機嫌な彼の怒りの標的はこの珍奇な挽き肉のかたまりに向けられた。
「ふざけるな!この何の動物だかわからない肉の寄せ集めは!」
そこで怒りに我を失ったフルトヴェングラーは、普段は一切口にしなかったビーフステーキを要求した。
なんとか工面した鮮度には問題のある固めの肉を、慌てた料理人はレアに仕上げた。
食後数時間を経たずに大指揮者は腹痛に襲われ、その夜は一晩中猛烈な嘔吐に一睡もできなかった。
そのいまいましいハンバーガーである。
彼にとってはカラヤンと同じ、ドイツ文化の破壊者だった。
「あの肉料理がアメリカで受けているのか…」
そして病床の大芸術家は、自分の死後訪れるであろう世界を、文化を、音楽を悟ったのだった…。
アメリカ。
調性音楽の破壊者たちの教祖が渡った新大陸。
カラヤン。
マクドナルド。
フルドヴェングラーが再び健康な身体を取り戻して、愛する楽団員達を率いてアメリカに渡ることができたならば、ハンバーガーを一度くらいは口にすることがあったであろうか?
結局、ベルリンフィルとともに大西洋を渡ったのは新しく常任指揮者の地位に就いたカラヤンであった。
そして、かの地でカラヤンがマクドナルドに入店したかは我々の知るところではないし、入店したとしてもそれは何ら記憶に留めることでもない。
永遠に失われた可能性として、我々のイマジネーションを刺激し続けるのはあくまでもマクドナルドのウィルヘルム・フルドヴェングラーだ。
それは、誰も耳にすることのなかった彼の指揮によるヴェーベルンのコンチェルトと全く同様なのである。