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忘れ得ぬ女

 本当に画家になりたいと思ったのは高校一年生のときだ。

僕はロシア印象派の絵を集めた展示を見に行った。

その中の一枚、イワン・クラムスコイの『忘れ得ぬ(ひと)』という作品――正式には『見知らぬ女の肖像』というが、日本ではこう呼ばれる――を見たとき、何の根拠も推論もなかったが、これは幻視を絵にしたのだと思った。

当時僕は、幻視を絵にするのを控えていた。

できるだけこのことを人に知られないように生きていた。

説明するのが面倒だったし、いちいち異常者扱いされたり精神科に行けなどと言われるのが苦痛だったのだ。

でも僕は、『忘れ得ぬ女』を見て以来、自分が描きたいと思ったものは例え幻視でも描くようになった。

それが何かと聞かれればただの思いつきと答えるようにした。

コンセプトはと聞かれればでっち上げた。

それでも、僕の絵は注目されるようになった。


 一般に幻視というのは、通常の風景の中に自然に幻覚が入り込むものらしい。

僕の場合は違う。

幻覚が現れた時、他の部分は完全に色彩を失う。

幻覚の部分にだけ色があり、その他は全てモノクロームに見えるのである。

音が聞こえなくなることもある。

そういうときには、別の世界を覗いているような気分になる。


 下塗りを終え、描き込みも目途がついた時には、午前三時を回っていた。

夕方からおよそ十時間ぶっ通しでキャンバスに向かっていたことになる。

忘れないうちに描こうと思った光景はほとんどキャンバスに乗せてしまい、あとは調整だけとなった。

ここまで描いてしまえばもう大丈夫、と思うと急に疲れと眠気に襲われた。

長時間の集中の後にはどうしてもぐったりしてしまう。

ふと窓から外を見ると、薄く雲のかかった気持ちの良い晴れ空と満開の桜が見えた。

幻視である。

僕はぼうっとした頭で窓を開け、舞い散る花びらの中に手を伸ばした。

そして――寝てしまった。


 目を覚ましたのは午前十時だった。

まだ九月とは言え床で寝るには寒かったようで、丸まって寝ていた。

身体の下になっていた右手がしびれた。

風邪をひいたのか寒気がした。

何とはなしにため息をついて、身体を起こして絵を眺めた。

昨日の自分の高揚がよく分かる。

自分の絵だからということもあるが、絵の様々な部分にその印が見て取れた。

僕の絵には描いているときの気分が反映される。

それは誰かに指摘された訳ではない。

自分でそう思っているだけなのかもしれない。

でも、僕は自分の絵を見ると描いたときの気分を克明に読み取れた。


 この絵、この少女の絵には喜びがあった。

それは僕の喜びだが、同時にこの少女の喜びともなっていた。

僕にとって何より嬉しかったのは、少女と目が合ったあの一瞬の表情、喜びの無表情を達成できたこと――少なくとも達成できたと思ったこと――だった。

夢中で描いていた夜の間、僕はできるだけ少女の顔に表情を出さないよう努力した。

それでも描いている僕自身の喜悦が、かすかに少女の顔に読み取れたのだ。

この無表情はあの『忘れ得ぬ女』の悲しげな無表情と同様に魅力的だと、僭越にも僕は思った。

この絵を仕上げるにはまだ時間がかかるだろう。

絵から読み取れる感情をもっと隠す必要があると僕は思った。

人物画は、その人物が見る者の心の中に一角を占めなければ成功とは言えない。

だから、見る者に何も打ち明けてはいけないのである。


 ひどく空腹だったので何か食べようと階下に下りると、キヨさんがちょうど食事の準備をしているところだった。

キヨさんはその歳にしては珍しく一日二食で済ませる習慣を持ち、午前十一時ごろの食事をブランチ、午後八時ごろの食事をディナーと呼んでいる。

「あら(ゆう)君、いたの? いつ帰って来たの?」

キヨさんは心底驚いた様子で言った。

僕は昨日帰ってすぐ二階に上り、その後一度も下に下りずにいたので、キヨさんが知らないのも無理はなかった。

「昨日の夕方からずっといたよ……絵を描いていたんだ」

「帰ってきたらちゃんと教えて頂戴。ディナーも準備して待ってたんだから」

キヨさんは不満そうに、しかし優しく言った。

僕はときどきこうしてキヨさんを困らせる。

絵に夢中になると他のことを忘れてしまう。

でも仕方のないことだった。

絵を描いているとき、幻覚を見ているとき、僕には周りの世界は存在しないのである。

キヨさんは何も言わなくても分かってくれていた。

だから僕をたしなめることはあっても責めることはなかった。


 昨日の夜食べるはずだった食事を温めなおして平らげると、僕はまた部屋に戻った。

早く絵を完成させたかった。

しかし筆を進めることはできなかった。

昨日異常な集中力で描いていたため、その張り詰めた表面の上から描くにはそれなりの緊張が必要だった。

風邪気味で食事直後の僕には絵に向かえるほどの力がなかった。

僕はしばらくぼんやりと絵を見やった後、外に出ることに決めた。

できないときにはできないのだ。

「忘れ得ぬ女」は実在する絵です。

ロシアのモナリザと呼ばれることもあるみたいです。

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