『やはり俺の結婚記念日の立ち回りは間違っている。』
まえがき
結婚というものに、夢を見たことはない。
いや、正確には「自分が結婚する未来」を想像したことがない、だ。
高校時代の俺は、ひねくれ切っていた。
青春は嘘で、恋愛は幻想で、リア充は爆発すればいいと思っていた。
そんな男が十数年後、結婚記念日に頭を抱えながら駅前を全力疾走しているのだから、人生というのはわからない。
しかも相手は雪ノ下雪乃だ。
奉仕部で向かい合っていた頃の俺たちに、
「お前ら将来結婚するぞ」
と言っても、たぶん信じなかっただろう。
いや、雪ノ下は冷静に受け止めそうだな。
俺だけが一人で動揺して、
「は? なんの罰ゲーム?」
とか言ってそうである。
これは、そんな俺たちの、少し未来の話。
「結婚記念日なんて、リア充イベントは爆発してしまえと思っていた頃が俺にもありました」
まさか俺が働くことになるなんて、学生時代の頃は思ってもいなかった。
いや、正確に言えば、働きたくないと思っていた。
人類の発展は「いかに働かないか」を追求した歴史だろう。にもかかわらず、なぜ俺は満員電車に揺られ、朝からネクタイを締め、愛想笑いを浮かべているのか。人類はもっと怠惰に優しくあるべきだ。
それに、まさか雪ノ下が政治家になるなんてな。
高校時代の俺なら、「どうせ雪ノ下は官僚とか弁護士とか、その辺の堅そうな職業に就くんだろ」とか思っていたに違いない。
いや、むしろ「俺がヒモになる未来」のほうを真剣に検討していたまである。
だが現実は違った。
雪ノ下雪乃は、今や市議会議員である。
しかも普通に人気がある。恐ろしい。
街頭演説では拍手が飛び、討論会では相手を論破し、老人受けも良い。あいつ、社会適性SSSランクだったのかもしれない。
そして俺は、その夫。
……人生、何が起こるかわからない。
朝、目が覚めた時、妙に蒸し暑かった。
「……なんか暑くないか」
五月にしては湿気が強い。寝苦しさに目を擦りながら起き上がると、キッチンからコーヒーの香りが漂ってきた。
「おはよう、比企谷くん」
「おう」
エプロン姿の雪ノ下が、いつものように平然と朝食を並べている。
昔は近寄りがたい美少女だったこいつが、今では「醤油切れてるから帰り買ってきて」とか言う。慣れとは恐ろしい。
「今日は暑いな」
「そうね。少し蒸すわね」
雪ノ下はそう言って、ふっと笑った。
……なんだその顔。
なんか含みがある。
だが結婚生活において、「妻の意味深な笑み」を深読みし始めると負けだ。経験則である。
俺は味噌汁をすすりながらスマホを確認する。今日も会議、資料、客先対応。社会は今日も俺を休ませる気がないらしい。
家を出る直前、雪ノ下が不意に言った。
「じゃあ……明日、楽しみにしているわね」
「ん? お、おう。任せろ任せろ」
適当に返事をする。
すると雪ノ下は一瞬だけ目を丸くし、それから小さく笑った。
「ふふ。ええ、期待しているわ」
……なんだ?
いや、まあいい。夫婦生活において「妻の意味深発言」を深掘りすると負けだ。二度目である。
◇
「比企谷ぁ! 今日付き合えって!」
「断る」
「即答!?」
定時後、戸部に飲みに誘われた。
なんでこいつ、結婚して子どもまでいるのにまだテンションが高校生なんだ。エネルギー保存の法則に反しているだろ。
「いやでも今日くらいよくね? 葉山も来るし」
「うわ帰りたい」
「お前葉山に厳しすぎんだろ」
だが結局、半ば強引に連行された。
居酒屋に着けば、葉山も海老名さんもいて、気づけば昔話になっていた。
「いや〜、比企谷が結婚するとはね」
「お前に言われたくない」
「でも雪ノ下さんと続いてるの、なんか納得だよね」
海老名さんがニヤニヤしながら言う。
やめろ。その笑い方は高校時代の腐った記憶を呼び起こす。
酒が進み、時計を見る。
22:47。
……ん?
そこでふと、違和感が脳を掠めた。
蒸し暑い朝。
意味深な笑み。
「明日、楽しみにしているわね」
そして今日の日付。
「…………あ」
「ん? どした比企谷」
「今日何日だ」
「え? 5月17日だけど」
終わった。
俺の人生が。
いや正確には、夫としての社会的信用が終わった。
結婚記念日。
完全に忘れてた。
「っ、すいません帰ります!!!!」
「え!? 今!?」
椅子をガタンと鳴らして立ち上がる。
葉山が珍しく目を見開いていた。
「比企谷、どうした」
「結婚記念日忘れてた!!」
一瞬、場が静まり返る。
次の瞬間。
「あーーーーーーー……」
全員が「あっこいつ死んだわ」みたいな顔をした。
「急げ比企谷!」
「まだ間に合う!」
「花! 花屋!」
「ケーキも!」
「いや何買えばいい!? 女子何が正解だ!?」
「その年でそこから!?」
大混乱だった。
戸部がスマホで花屋を調べ、海老名さんが「とにかく謝罪、まず謝罪」とアドバイスし、葉山が「タクシー呼ぶか?」とか言い出す。
なんだこれ。救護班か。
俺は慌てて上着を掴み、店を飛び出した。
夜風はまだ少し湿っていた。
走りながら、頭を抱える。
なんで忘れてた俺。
なんで「任せろ任せろ」とか言った俺。
いや待て、まだだ。まだワンチャンある。
誠心誠意謝れば――
スマホが震えた。
画面を見る。
『雪ノ下雪乃』
「…………」
終わった。
恐る恐る通話に出る。
「……もしもし」
『比企谷くん』
声は穏やかだった。
それが逆に怖い。
『今、どこかしら?』
「……駅前です」
『そう』
一拍。
『ケーキなら、チョコよりショートがいいわ』
「……え?」
『あと、お花は白系統が好きなのだけれど』
理解する。
――バレてる。
全部。
電話越しに、雪ノ下が小さく笑った。
『ふふ。待っているわ、あなた』
その声が少しだけ優しくて。
だから俺は、全力で駅前を走った。
あとがき
どうも、作者です。
気づけば八幡たちも社会人です。
高校時代は「働きたくない」が口癖だった男が、ネクタイ締めて残業してるの、なんというか……時間の流れって怖いですね。
でも、八幡って案外「守るもの」ができるとちゃんと頑張るタイプだと思うんですよ。
自己評価は低いくせに、誰かのためなら泥臭く走れる男なので。
だから今回の話も、
「結婚記念日を忘れる」
という最悪のやらかしをしつつ、最終的にはちゃんと全力疾走させました。
あと雪ノ下。
たぶんこの人、八幡が忘れてること途中で気づいてます。
気づいてる上で、
「どこで思い出すのかしら」
ってちょっと観察してます。
怖いですね。
でも最後の電話で、
「待っているわ、あなた」
って言えるくらいには、かなり丸くなったんじゃないでしょうか。
戸部たちを書いてる時も楽しかったです。
なんだかんだあいつら、八幡のこと好きですからね。
結婚記念日忘れたと聞いた瞬間の「うわぁ……」感は絶対あったと思います。
では、またどこかで。
やはり彼らの青春は、終わっても少しだけ続いているのかもしれません。




