表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あの日々、僕は本当に幸せだった  作者: 紀 円


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/1

序章

時間は片道切符の特急列車のようだ。それは人間の人生を通り過ぎていくが、途中の停車駅でためらったり、誰かに引き留められたからといって立ち止まったりすることはない。そしてとりわけ、この列車には往復切符がない。つまり、一度通り過ぎてしまえば二度と戻ることはできないのだ。大人と呼ばれる年齢になった今、他の連中が、自分の専攻している分野が能力や社会のニーズに合っているだろうかとか、卒業したら自分や家族を養うためにどんな仕事に就くべきかとか、どうすれば社会の役に立つ人間になれるかなどと自問自答して忙殺されているというのに、僕はよく空を見上げてはこう不思議に思っていた。どこかの並行世界パラレルワールドでは、「時間」という名の列車が引き返すことができるのだろうか。そこの住人は、昨日の破片を拾い集め、それを繋ぎ合わせてあの「昨日」を偉大な傑作へと変えることができるのだろうか。そして、その世界での「僕」の人生は、今の現実と何か違うのだろうか、と。しかし、そう考えるたびに、意識はすぐさま僕をむき出しの残酷な現実へと引き戻す。そしてこんな事実を容赦なく叩きつけてくる。過去とは結局のところ、僕の人生における無数の良い思い出や悪い思い出を展示している博物館にすぎず、僕にできる唯一のことは、ショーケースのガラスに顔を押し当ててそれらを眺めることだけで、何一つ変えることはできないのだ、と。


青春――人はよくそれを夏の夕立に例える。だが不思議なことに、ずぶ濡れになって風邪をひいたとしても、人はまたもう一度、その雨を全身に浴びたいと願うものなのだ。作家や詩人、そして偉人たちでさえ、人生における短くもまばゆいこの時期を讃えるために、どれほどの紙とインクを費やしてきたことか。彼らは言う。青春とは燃え盛る炎であり、情熱的なラブソングであると。


作家のジャック・ケルアックが、自由を渇望する若者たちの世代を小説『路上』の中でこう描いたように。


「僕にとって血肉のある人間とは、狂ったやつらだけだからだ。狂ったように生き、狂ったようにしゃべり、狂ったように救いを求め、何にでも同時に手を出したがるやつら。決してあくびをせず、ありきたりなことなど言わず、ただ、夜空の星を背景に爆発する蜘蛛のごとく、ものすごい黄色のローマ花火のように、燃えて、燃えて、燃え上がるやつらだ。」


ヘルマン・ヘッセもまた、『デミアン』の中で歴史的名言を残している。


「鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。」


そして彼らはこうも言う。青春とは、間違えたりつまずいたりする権利が与えられた歳月であると。それは嵐のようなものであり、僕たちはその中へ飛び込んでいく。そして、村上春樹が『海辺のカフカ』で書いているように。


「そして嵐が通り過ぎてしまったあとには、自分がどうやってそこを通り抜けて生きのびることができたのか、君にはよく理解できないはずだ。(中略)しかしひとつだけはっきりしていることがある。その嵐を抜け出してきた君は、そこに足を踏み入れたときの君じゃないっていうことだ。それが嵐というものの意味なんだ。」


だが、その青春をかつて経験し、歓声の中心にいて、若さという激しく燃え盛る炎を胸に宿し、そしてその炎が後悔の中で燃え尽きていくのをこの目でしかと見届けた者としての視点から言えば、僕には全く別の考えがある。僕にとって、青春はただの夏の夕立ではない。青春とは、楽しいけれど物悲しく、激しいけれど奇妙なほど静まり返った交響曲シンフォニーなのだ。


僕は音楽と共に生きている人間だ。周りの世界を認識し始めた頃から、僕は世界を五線譜に見立て、音符とメロディーを使って自分自身の世界観を構築し始めた。他の誰かにとっては取るに足らないような音でも、僕の鼓膜を通ると、それは優しく心地よい楽曲へと姿を変える。


木の葉の間を通り抜ける風のざわめきは、軽やかなアコースティック。

街角の車のクラクションは、混沌としたロック。

降りしきる雨の音は、どこか物悲しいバラード。


そして人間もまた同じで、一人ひとりが独自の音色を持っている。僕たちの人生をすれ違っていく人影は皆、それぞれの音の周波数を持っているのだ。陽気で流行りのキャッチーなポップスのように、一瞬で僕たちを踊らせるものの、新しい曲が出ればすぐに忘れ去られてしまう人もいる。一方で、奥深いクラシックの交響曲のように僕たちのそばに現れ、その人物を本当に理解するのに一生を費やさなければならないような人もいる。


かつての僕は、自分の人生が書き上げる楽曲に誇りを持っていた。十八かそこらの、教わってきたことを疑い始め、ただ特別な「自我」を誇示するためだけに計算された反抗をする年頃だ。当時の僕は、無限とも思えるエネルギーを内に秘めた少年だった。僕は騒がしくて賑やかなことが大好きだった。常に自分が宇宙の中心でありたいと願い、あらゆるハーモニーの中で最も高く、最も輝かしい音符でありたいと思っていた。僕は自分の若さをスーパーヒーローの映画に例えていた。僕が唯一の主人公であり、山を動かし海を埋め尽くすような力を持っていて、この世の凍てついたすべての心を庇い、温めることができるのだと。意志と情熱さえあれば不可能なことなど何もなく、乗り越えられない嵐も、吹き飛ばせない悲しみもないと本気で信じていた。今にして思えば、本当に笑えるほど無邪気だった。


僕はひとつのことに気がついた。アイザック・ニュートンの万有引力の法則は、物理的な対象だけでなく、どうやら僕たち人間にも当てはまるらしいということに。正反対の人間というのは、往々にして恐ろしいほどの引力を持っている。僕のように常に騒々しく、生き急ぐような激しい音符で人生を埋め尽くそうとしている人間は、心の奥底では常に、自分だけの「静寂」を求めているのだ。音楽が、もし休符を欠いてしまえば、ただ耳をつんざくような騒音になってしまうのと同じように。


休符レスト――その定義通り、それは音が完全に終わることを意味するのではない。前に奏でられた音符が聴き手の心の中で再び響き渡るための休息であり、新たな音符が鳴り響くための助走なのだ。僕の人生にも、かつて一つの「休符」が現れたことがあった。


偶然ではない出会いがある。それは造物主の采配であり、痛ましくもとてつもなく美しい運命のようなものだ。その運命は静かに僕たちの元へやってくる。まるで、誰かの肩に舞い落ちた桜の花びらのように。その人はそれを払いのけようともせず、気づいた頃には、その香りが服の繊維の奥深くにまで、細胞の隅々にまで染み込み、決して洗い落とせなくなっているのだ。


哲学者のカール・ヤスパースはかつて「限界状況」について語った。人間が存在の脆さに直面し、それによって自分自身の本質をより深く認識する瞬間のことだ。僕たちの人生におけるある特定の人物の出現は、時にそうした「限界状況」そのものになり得る。彼らは大げさな行動で嵐をもたらすわけではない。ただそこに存在し、全く異なる内面世界を携え、僕たちの中にある最もむき出しの暗がりを映し出すだけだ。僕の放つ、まばゆくも見栄っ張りな光が、別の魂の持つ、静かで深く、どこか壊れかけたような闇と衝突したとき、僕は自分の光がどれほどちっぽけなものかに気づかされた。それは、海の底深くに沈む氷山を温めるには力不足だった。そして、決して言葉にされることのない傷の隅々までを照らし出すこともできなかった。


生まれて初めて、十八歳の少年の誇り高き反抗的な自我が砕け散った。暴力や挫折によってではなく、一つの優しさと、あまりにも痛切な悲しみによって。この時、僕の脳は「幸福」とは何かを再定義し始めた。幼い頃から今まで、僕が定義する「幸福」とは、祖母がよく聞かせてくれたおとぎ話のバラ色の展開――お姫様と王子様がいつまでも幸せに暮らしました、というようなものだった。テストで一番良い点を取ったときや、自分の曲が多くの人に知られ、支持されたときのことだった。しかし、新しい定義が現れ、僕の古い価値観を塗り替えた。


幸福――それは実のところ、瞬間的な性質を持った動詞だったのだ。

幸福とは、心に多くの傷を抱えた人の唇に、珍しくこぼれた笑顔を目にできたときのこと。

幸福とは、誰かと街を歩き、お互いに言葉を交わさなくとも、相手が何を考えているのか理解できるときのこと。

幸福とは、未編集の荒削りなメロディーであっても、それを作った者のすべての感情と魂が込められているのを聴き取れたときのこと。

そして幸福とは、自分が小さくなりたいと願うこと。もう宇宙の中心などではなく、雨の中で今にも消え去りそうな小さな世界を守る、一本の傘になりたいと願うときのことだ。


しかし、造物主が僕たち人間に与えた悲劇は、幸福を手に入れても、それを永遠に留めておくことはできないということだ。この世の万物は自然の摂理に従わなければならない。花は咲き、やがて散る。暖かな春が来ても、息詰まるような夏に場所を譲るために去っていく。人間も同じだ。その面影をどれほど深く刻み込みたいと願う相手であっても、いつかは去っていくか、あるいは他の誰かの人生へと曲がっていく。僕を、決して手放すことのできない広大な記憶の海に、ひとりぽつんと取り残して。


ある人が僕にこう尋ねた。「君は『後悔』についてどう思う?」と。


僕はその答えを考えるのに長い時間を要した。僕に言わせれば、後悔とは毎日僕たちの心を噛みちぎるような怪物ではない。それは寄生虫のようなもので、僕たちの人生における最も美しい思い出に寄生して生きている。他の生物のように栄養を吸い取って僕たちを死に至らしめることはない。ただ、道端のカフェから偶然流れてきた懐かしいメロディーを耳にしたときに胸を締め付け、人混みの中ですれ違った誰かの姿が、あの人に似ているとふと視界に入ったときに涙ぐませる。静まり返った部屋で座り込む午後、あの美しい記憶を思い返しては、なぜか涙が溢れてくるようにさせるのだ。後悔は寄生虫であるだけでなく、常に「もしも」という言葉から始まる数え切れないほどの問いを胸に抱える感覚でもある。


もしも、僕がもう少し忍耐強かったなら。

もしも、あの日僕がもう少し敏感で、作り笑いの裏に隠された痛みを察することができていたなら。

もしも、もっと早く大人になって、強くなって、揺るぎない拠り所になれていたなら。情熱的に見えて、その実、感情が空っぽな少年ではなく。


もし時間がループ(円環)だとしたら、僕は別の選択をして歴史を変えることができただろうか?僕は歩み寄り、手を差し伸べて、その痛みを慰め、守ることができただろうか。それとも、かつてそうしたように、また目を逸らして知らんぷりをしてしまうのだろうか。


しかし、どうあがいても、僕の答えは常に一つしかない。それは「いいえ(No)」だ。

何万回選択をやり直す機会を与えられたとしても、僕はやはりその道を歩むことを選ぶだろう。僕は立ち止まり、誰かに心をほどかされ、そしてその人が虚空へと漂流していくのを許し、自分自身は新たな軌道へと巻き込まれていくという、その瞬間を選ぶ。なぜなら人は、花が散るのを恐れて春が来ることを拒むことはできないからだ。そして別れを恐れるあまり、愛し合い、絆を結ぶという、人間の最も基本的な特権を否定することもできないからだ。苦しみや別離、喪失は、結局のところ幸福の価値を際立たせる要因そのものであり、僕たちが共に過ごした日々がいかに神聖で尊いものであったかを示すものなのだから。


残りの人生をかけて背負う痛みと苦悩は、その人の存在が僕にとってどれほど重要であったかを物語る明確な証だ。心に深く刻まれた傷は、より哲学的な観点から言えば、愛が残して。いった最後の「報酬」である。誰かを心から大切に思ったとき、その傷痕は、僕たちが駆け抜けた青春の断片に対する「名誉勲章」となるのだ。それがあったからこそ、人は大人になる術を学ぶ。これは自分自身を称えるための物語ではないし、ハッピーエンドで終わるおとぎ話でもない。これは一つの感謝の言葉であり、失われた青春の一部への回顧である。


これは、光も、影も、入り混じった喜怒哀楽も、初めての胸の高鳴りも、そして言いそびれた言葉の数々も、そのすべてを収めた一本のフィルムのようなものだ。


そして僕の「青春」という名のラブソングにおける、ほんの一部ではあるけれど、最も美しく、最も輝かしく、最も忘れがたいパートなのだ。


もし叶うなら、遠く離れた場所にいる一人に送りたい。


あのね……


たとえ喜びがあっても、たとえ苦しみがあっても、たとえ……


それでも……


「あの日々……僕は本当に……とても幸せだったんだ。」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ