突然の婚約 3
婚約の打診は、形だけの儀式に過ぎなかった。
実質、王太子キリアンとの婚約は、既に決定事項として着々と進められていた。
……侯爵令嬢に過ぎない私が、どうして?
その疑問は、王と王妃に謁見した瞬間に、氷解した。
「急なことで、さぞ驚かれたでしょうね」
噂以上に、王妃は私に優しかった。
心配そうに眉を寄せ、そっと私の手を握る。
「……実はね、キリアンがどうしてもあなたじゃなきゃ駄目だって、頑として譲らなかったのよ」
「王太子殿下が……ですか?」
「今ならキリアンはここにいないわ。この婚約が嫌なら、断ってもいいの。私がなんとかするから」
その言葉に、心が大きく揺れた。
王太子妃になる覚悟など、欠片もなかったから。
けれど貴族の娘として、家の利になる縁談を拒む権利など最初から存在しないことも、よく分かっていた。
私は小さく首を振った。
王妃は悲しげに、けれど諦めたように微笑む。
王は最初から最後まで、どこか罪悪感を滲ませた複雑な表情のままだった。
王太子妃となるための準備は膨大で、時間は呆気なく過ぎていった。
婚約発表からの準備期間は、わずか半年。
通常なら一年以上はかかるというのに。
まるで……誰かが、ひどく焦っているかのようだった。
キリアンがこれまで婚約を発表した令嬢は、私を含めて四人目。
だからこそ今回は「絶対に結婚まで辿り着く」という、痛いほどの切迫感が透けて見える。
……その焦燥は、理解できなくもない。
それでも、どうしても拭えない違和感があった。
胸の奥に、冷たい小さな石がずっと沈んでいるような感覚。
それを真正面から問いただせるような信頼関係は、私たちの間には、まだなかった。
王家しか立ち入りを許されない、奥深い庭園。
とろけるように甘い薔薇の香りが、空気ごと絡みついてくる。
王も王妃もいない、二人きりのお茶会。
貴族へのお披露目は済んだが、他国への正式発表はまだ。今なら――まだ、婚約を解消できるかもしれない、ギリギリの時期のことだった。
キリアンは私を見ても、心から嬉しそうな顔はしない。今日もまた、完璧に作り込まれた、どこか空虚な微笑みを浮かべていた。
一通りの事務的な話を終えた後、私は意を決して顔を上げた。
「……私、王太子妃にふさわしい教育も受けていません。自分でも分かっています……器が足りないって。だから――」
喉が詰まりそうになりながら、ずっと胸にあった言葉を吐き出す。
せめて彼が「そうだね」と同意してくれれば、それで終われるかもしれないと、淡い期待をかけて。
「……私がソフィアを支えるから、心配しないで。それとも……結婚が、嫌になった?」
「っ……そんなこと……!」
一瞬、彼の瞳が揺れた。
まるで、何かを急に思い出したような、奇妙な表情。
「ソフィアは、ハンスのこと好きだったよね?でも残念だけど、ハンスはもうルイーズと結婚したんだ」
その青い瞳の奥には、何も映っていない。
ガラス玉のように冷たく、ただ澄んでいるだけ。
そこに感情の欠片すら、見つからない。
「……舞踏会のとき、そう言いましたけど。私はハンス様のことが好きじゃありません。ルイーズ様とのことで思うことはありますが……それは、恋愛感情なんかじゃないんです」
「なら、どうして、私の方を見てくれないの?」
――貴方だって、私のことなど好きじゃないでしょう?
その言葉が、喉の奥までせり上がってきて、
けれど最後の一線で、なんとか留まった。
黙り込んだ私に、キリアンはゆっくりと、悲しげな表情を貼り付けた。
「……私の気持ちって、分かりにくいんだって。よく言われる。もしかしたら、ちゃんと伝わってないかもしれないけど……私は、ソフィアのことを、本当に愛してるんだよ」
そう言って、彼は私をそっと抱き寄せた。
甘い。
薔薇の濃密な香りと、彼の人工的な香水が混じり合って、頭がくらくらする。
温もりはある。
なのに、どうしてだろう。
彼の心の温度だけが、まるで感じ取れない。
胸の奥の冷たい石が、また一つ、重みを増した気がした。




