第8話 観測者は砂塵に舞う
夕日が照りつける砂漠に、獣の咆哮が響き渡る。
目の前でウォルフラムが禍々しい「魔性の騎士」へと変貌を遂げる。
しかし、リナの瞳に恐怖の色はない。
あるのは、これから始まる大掛かりな実験を前にした、研究者としての極度の緊張と、未知への探究心からくる僅かな高揚感だけだった。
「記録出力を開始します。現在時刻、16:03:01。座標取得、記録。」
リナの静かな宣言を合図に、彼女の背後に浮遊していた魔導書が一斉に開かれる。
もちろんウォルフラムの声はリナには届かない。
「対魔神用防御プロトコル、実行。オートガード全312弾、充填。」
パラパラと舞い散ったページが、リナの全身を包むように幾何学的な光のポリゴンへと変わり、そして消える。
不可視の盾が、彼女の守りを固めた。
「第一フェーズ、ターゲット選定法則のデータ収集を開始します。カニさん、一度後退してください」
リナの傍らで待機していたゴーレム「カニさん」が、命令を受けてゆっくりと後ずさる。
しかし、その動きに魔神は即座に反応した。
明確な敵意を向け、黒い斬撃を放つ。
リナが杖をかざすのが一瞬早く、リンダをサポートした時と同じように手動の魔法陣シールドがカニさんとの間に展開され、火花を散らして攻撃を防いだ。
「今単騎で失うわけにはいかないんです。急いで準備しますから…!」
リナは杖を水平に構えると、魔導書からいくつかの紙片を砂漠の大地へ撒いた。
光の魔法陣が次々と地面に浮かび上がり、魔神の近くには攻撃的な「砂竜」や「シカさん」、動かない「土人形」や「アリさん」の群れが出現。
そして、魔神から遠く離れたカニさんの周辺にも、俊敏な「トカゲさん」や「岩人形」、「フンコロさん」が召喚される。
「検証を開始します。全個体、作戦行動に移ってください」
リナの号令で、攻撃性を持つゴーレムたちが一斉に魔神へと襲いかかり、動けるものは指定された座標へと移動を開始する。
「対象の座標追跡のため、周囲広範囲の無機物にポイントを貼ります。」
魔導書のページをどんどん消費して、岩や砂上を3Dデータ化するようにリナだけが見える線が覆っていった。
戦場は一気に混沌と化したが、魔神の動きは冷静だった。
そのターゲットは、依然として後退を続けるカニさんだったが、眼前に迫った砂竜の敵意を感知すると、即座にターゲットを変更。
一閃のもとに砂竜を屠り、次に狙ったのは、遠くにいながらも明確な敵意を向けて大きな岩を投げてくるカニさんだった。
魔神はカニさんの元まで飛んでいき、爪を振う。
ガギンッ!
甲高い音を立てて斬撃が弾かれ、カニさんの甲殻に仕込まれた魔法陣が起動。
魔神の攻撃を吸収し、即座に同威力の閃光として撃ち返した。
予期せぬ反撃に、魔神の巨体が裂け、わずかにたたらを踏む。
「各ユニット、適正距離へ再配置します。」
リナはまた魔導書を破り、カニさんに距離を詰めた魔神に合わせて、ゴーレムたちを移動した。
魔神は再生しながら振り返り、近くにいたシカさん、そして遠くのトカゲさんが次々と薙ぎ払われた。
「観測完了。最優先は攻撃性、次いで距離。質量はあまり関係ありませんね。記録します」
リナは冷静に分析結果を口にする。
攻撃性を持つゴーレムが全て排除されると、魔神は次に近くにいた土人形、そしてアリさんの群れを順に破壊していく。
遠くにいた岩人形やフンコロさんには、一瞥もくれなかった。
「完全な再生完了を確認。…以前の観測データより、再生速度が約7%向上しています。肉体の限界からの再生を繰り返すことで、呪いは強化されるという仮説が立てられますね…!」
リナは小さく頷くと、意を決して、自ら実験台になることを選んだ。
箒でゆっくりと魔神に近づいていく。
魔神は彼女を一瞥するが、攻撃してくる気配はない。
だが、さらに一歩踏み込んだ瞬間、鋭い威嚇と共に複数の魔弾が飛んできた。
リナは素早く避けたが、その先に魔神が斬撃を放つ。
ズガガッとリナの目の前でオートガードが展開し、衝撃波がピリピリと彼女の肌に刺さった。
「わ!シールド貼っててもやっぱちょっと痛ったいなぁ!」
と言いながらも強気に口角を上げる。
思わず出た、今までと違う口調。
死線を潜る臨場感が、箒を操る高揚感が、故郷での競技選手としての彼女の顔を覗かせた。
しかしすぐに「研究者」の彼女に戻る。
「シールド残機、280。結構削れちゃいましたね。しかし私のように攻撃意志がなく、魔力量も低い存在は、処理の優先度が低い……いや、」
(もしかして、彼の意思?ウォルフラムさんが魔神を止めようとしてる説も濃厚ですね。)
リナは一度距離を取り、魔神は一度ターゲットにしたリナを追ってくる。
その時、ログ用の魔導書がピピっと反応した。
(大気中の魔力量、大幅に飽和…!)
その情報でリナは上空に素早く退避。
途端に地面から黒く鋭い棘のような結晶が無数に天に生えてリナを襲った。
「あっぶない…!魔力を直接結晶化するなんて、なんて力任せな…!」
リナは上空からの光景に目を丸くした。
棘が生えた周囲の砂が、凄まじい魔力熱によって溶融し、不気味な黒い硝子となって固まっていたのだ。
それらは相当な魔力量であることの証拠であった。
(アイセリアトップクラスの、師匠と同じくらいか、それ以上の魔力量があるかもしれない)
しかしリナが空高く逃げ、魔弾や斬撃をかわしながら見えなくなると魔神は興味をなくしたように歩き始めた。
リナは上空で消耗用とは別の、記録用の魔導書を手に開いて浮かび上がる情報を確認している。
「攻撃、止まりましたね。まだ、座標は観測範囲です。」
コンパスを取り出し方角を確認。
「ザハラの方角に戻ってますね。人が多いところに引かれるのでしょうか?それともその先に何か…?」
確認が終わると今度は魔神に急加速して死角に回り込もうとする。
即座に反応した魔神から、斬撃と魔弾の嵐が放たれた。
リナは卓越した箒さばきでそのほとんどを回避するが、数発がオートガードを削っていく。
「くっ、次フェーズ。鎮静化トリガーの仮説に基づき、直接干渉を試みます」
観測対象を見つめ直すリナは、魔神の肩の僅かな震えに気づいた。
彼女はそれに応えた。
「ウォルフラムさん!あなたが、抵抗してるんだと仮説します。私の声が聞こえてますよね!?絶対止めますから、見ててください!」
リナは魔導書から「記憶干渉」の魔法陣が描かれたページを切り取り、高速で飛び回りながら杖で起動させて地面に設置した。
人の記憶を覗き見ることになるのが彼女の意に反するが、もし仮説が正しく、どうせ解除の時に見てしまうなら、魔法でより少ない情報を覗く方が彼のためにもなる。
「いいですよ。ターゲットそのまま、私を追ってきなさい!」
巧みに魔神を挑発するような接近を繰り返しながら、トラップが設置された場所へと誘導する。
斬撃がオートガードに被弾しヒリヒリとした痛みを覚えながらも、ついに、魔神がトラップを踏んだ。
足元から迸る光の鎖が、一瞬で魔神を包む。
(かかった…!)
リナが息を呑んだ、その瞬間。
彼女の脳裏に、直接流れ込んできたのはウォルフラムの記憶ではなかった。
――燃え盛る火の中。ルビーの瞳を持つ、黒衣の美しい女性の姿。
(アイセリア・ルミナス様…!?)
予期せぬ結果に、リナは驚愕する。
記憶の魔法はその断片的な映像で終わり、トラップに足止め効果はないので何事もなかったと魔神はリナに斬撃を飛ばす。
記憶干渉が解除のトリガーとなる仮説は通らなかった。
「シールド残機、残り84。……取得情報を元に、アドリブの作戦に移ります」
リナは全ての分析魔法を解除すると、静かに杖を構え直した。
「エネルギー効率は悪いですが、シールドを魔力に還元します。」
その宣言の後に構えた杖に残ったオートガードが光となって吸収された。
陽が西に傾き、すべての影が長く伸び始めていた。
リナに斬撃を繰り広げる魔神は、半身に光を受け、影濃くなった半身で不気味に瞳を光らせた。
正しく悪魔の姿だ。
「次フェーズ、ルミナス様との関係を検証。」
リナは、自身がウートゥンの儀で体験したアイセリア・ルミナスの記憶を魔法で複製した。
生成した光の球、それは攻撃ではない。
純粋な情報の塊だ。
シールドを還元しても即席魔法を行使するには彼女の魔力は少なく、ここで完全に消耗した。
「私の記憶の複製をあげます」
魔神の斬撃を掠めながら、宣言と共に放たれた光の球を、魔神は攻撃ではないと判断し、警戒しなかった。
構わず正面からリナに襲いかかり、光がその身に吸い込まれる。
その瞬間、魔神の動きが、ぴたりと止まった。
(何故かはわからないけど、効いた!次の検証タイミングは今しかない)
リナはその一瞬の隙を見逃さなかった。
サーフィンの様に体勢を直すと、箒を最高速度まで加速させ、一直線に魔神へと突貫する。
迎え撃つ魔神が、その長大な爪を薙ぎ払うように振るった。
しかし、衝突の寸前でリナは箒を蹴り上げ、自身のコントロールを物理に任せる。
薙ぎ払われた爪は、無人の箒の上の空間を空しく切り裂いた。
勢いを殺さず、魔神の頭上を逆さまに通過するその一瞬、リナは遠心力を乗せたしなやかな平手打ちを、死角から魔神の頬に叩き込んだ。
ペチンッ!
場違いに軽い音が響くと同時に、リナの体は一撃の反動と重力に引かれて落下を始める。
だが、主の意思に応えた箒が魔神の背後で鋭く旋回し、猛スピードで彼女の元へと戻ってきた。
リナは差し伸べた左手で寸分違わずその柄を掴むと、片腕でぶら下がったまま、静かに体勢を立て直す。
彼女が見下ろす先で、平手打ちを合図にするかのように、魔神を包んでいた黒い瘴気は、まるで煙をあげるように消え去った。
競技ではない、死闘での初めての無茶。
それが通るかは、彼女にとって大きな賭けだった。
張り詰めていた競技選手の顔から、いつもの研究者の顔へと戻る、その僅かな合間の、年相応の素直な感想が漏れる。
(ふう、緊張した……!)
瘴気が晴れると、そこにいたのは両膝を砂に落とし、呆然と上半身を起こしたウォルフラムだった。
彼の体は呪いの力で強制的に回復しているものの、その表情には満身創痍の疲労が色濃く浮かんでいる。
リナの脳裏には、また彼の悲痛な記憶が流れ込んできた。
胸の痛みを振り払うように、彼女は一度強く目を閉じる。
(やっぱり、平手打ちでの魔神化解除と彼の心理映像は再現性があった。)
確証を得ながら、ウォルフラムの様子を伺う。
「ウォルフラムさん!自分の意識はありますか?」
リナが駆け寄ると、彼はか細い声で呟いた。
「ああ…驚いた」
「よかったです!」
リナは心からの安堵の声を上げると、間髪入れずに、もう一度彼の頬に平手打ちを見舞った。
べチッ!
「……???」
何が起きたのか理解できず、ウォルフラムが困惑の表情を浮かべる。
(…なぜだ?なぜ俺はまた叩かれた?しかも怒ってる様子じゃなくすごい笑顔だ。)
リナは悪びれる様子もなく、真剣な研究者の顔で言った。
「あ。すみません、もう一回叩いたらまた魔神化するか、検証する必要があると思いまして」
「……危ない、実験を、するな…」
ウォルフラムは、抗議の声を絞り出すのが精一杯だった。
そんな彼を意にも介さず、リナは記録終了の処理をすると、彼の体をまじまじと観察し始める。
「おお、日焼けが綺麗に治っていますね。呪いの自己修復機能が、火傷の一種として処理したのでしょうか。今回は服も残っていますし…ということは、前回ワームの中で裸になったのは、消化液の影響で服は復活しなかったというだけ…」
ぶつぶつと分析を続ける彼女の姿を見て、敗北感と安堵感が混ざり力の抜けたウォルフラムは疲れのままにどさっと砂に倒れ込んだ。
(こいつ…死線を越えた直後だというのに、本当に余裕だな…)と、ウォルフラムは呆れるしかなかった。