第7話 砂塵と星屑の夜番
アトラトル砂漠の夜は、死そのもののように静かだった。
夕闇が砂丘の輪郭を溶かしきると、空には手の届きそうなほど近くに、無数の星屑が撒き散らされる。
月明かりだけが、どこまでも続く砂の海を青白く照らし出していた。
二人の間に、言葉はない。
聞こえるのは、骨身に沁みるほど冷たい風の音と、砂を踏みしめるウォルフラムの規則的な足音、そして彼の数メートル後ろを滑るように飛ぶ、リナの箒が立てる衣擦れのような音だけ。
ウォルフラムは、ただひたすらに歩き続けていた。
目的地は、ギルドの古地図に記されていた砂漠の遥か先、フィニス山脈――通称「巨人の鉄床」。
生物的な破壊では死ねなかった以上、次はマグマの熱で、この呪われた体ごと跡形もなく消滅する。
それが、彼が導き出した次なる解だった。
地図はない。
だが、ザハラのギルドで叩き込んだ情報は、彼の脳内に正確な写像として焼き付いている。
アークライトとは似ても似つかない、南天の星々の配置から方角を割り出し、時折現れるモンスターの分布と地形の変化で現在地を補正する。
王子として叩き込まれた知の全てが、今や、確実な死地へと向かうための羅針盤となっていた。
眠ることは、恐怖だった。
眠れば、またあの魔神に意識を乗っ取られるかもしれない。
その恐怖が、彼の足を前へ、前へと進ませていた。
吹き付ける極寒の夜風に、彼の体から無意識に黒い炎のようなオーラが陽炎のように揺らめく。
呪いが生命力を勝手に燃焼させ、凍死から主を守ろうとしているのだ。
ウォルフラムはその忌々しげな力の顕現に気づき、誰にも聞こえない声で小さく舌打ちをした。
一方、リナもまた忙しかった。
箒にまたがったまま膝の上に魔導書を広げ、揺れる中でも正確な筆致で、新たな魔法陣をいくつも描き込んでいる。
来るべき時に備えての「仕込み」であり、彼女なりの「対策」だった。
コンパスを持っている彼女はすぐに気づいた。
ウォルフラムはただ放浪しているのではない。
一定の方向に向かって歩いている、と。
そのことを問い詰めるでもなく、ただ彼女は記録した。
その時、砂の中から数匹の影が姿を現した。
硬い甲殻を持つ巨大なサソリ型のモンスターだ。
ウォルフラムはリナの方を一瞥もせず、まるで道を塞ぐ石ころを蹴飛ばすように、進行の邪魔になった一匹だけをオリジンで一閃し、黙らせる。
残りは、彼の放つ禍々しい気に恐れをなしたのか、砂の中へと消えていった。
戦闘が終わるやいなや、リナは目を輝かせてウォルフラムに声をかけた。
「ウォルフラムさん、そのモンスターの死骸、いただいてもよろしいですか?」
「……別に、俺の所有物ではない」
ぶっきらぼうな許可を得ると、リナは嬉々として死骸に近づき、杖をかざした。
杖の先から放たれた淡い光がモンスターを包み込む。
それは破壊ではなく、解析と保存の儀式。
死骸の表面に幾何学的な光の線が走り、瞬く間に無数の多角形ポリゴンへと分解されていく。
データ化されたそれは、光の粒子となって彼女が広げた魔導書の一葉へと吸い込まれ、ページの上で複雑な魔法陣の紋様へと変わった。
「これで、いつでも実物を取り出して調べられますね」
満足げに呟くリナ。
彼女の魔法は、こうして実物を魔法陣に封印・保存し、必要な時に「出力」することで、低い魔力を補う特殊な体系なのだ。
ウォルフラムに服を着せたのも、あらかじめこうして保存しておいた衣服を取り出したに過ぎない。
リナは、同年代の誰よりも体力には自信があった。
彼女自身のコンプレックスである少ない魔力を克服するためにやってきたアイセリアでの修行は、彼女に強靭な精神と肉体を与えてくれていたからだ。
事実、箒を使った故郷のスポーツでは何度もトロフィーを掻っ攫った。
だが、今日の昼過ぎから続いた命のやり取りは、経験したことのない死線だった。
休む間もなく始まった砂漠の旅、そして何より、隣を歩く少年の存在そのものが、見えない重圧となって彼女の肩にのしかかる。
空が白み始める頃、彼女の頭がこくり、こくりと揺れ始め、ついに意識が途切れて箒からずり落ちそうになる。
それに気づいたウォルフラムは、深く舌打ちをした。
一度は「知るか」とばかりにそのまま先へ進もうとするが、彼女を置いていくことへの僅かな躊躇と、遠くから聞こえる砂漠の狼の遠吠えに足を止める。
(なぜ、見捨てられんのだ)
自問する心に、答えはない。
ただ、この過酷な世界で自分と同じように足掻く小さな灯火が、獣に食い荒らされる光景を、なぜか見過ごすことができなかった。
「……衣服の恩を、返すだけだ」
彼は誰にともなくそう吐き捨てると、踵を返す。
リナが落ちきる寸前にその腕を掴んで安全に降ろし、彼女が目を覚ますまで、少し離れた岩陰に座って夜番を始める。
その横顔は、ただ無感情に危険を排除する機械のようだった。
昇り始めた太陽の光を顔に受け、リナは「はっ!」と目を覚ます。
自分が寝落ちしてしまったこと、そしてウォルフラムが番をしてくれていたであろうことに気づき、顔を真っ赤にして彼に駆け寄った。
「ご、ごめんなさい!私、その…!」
ウォルフラムは、彼女の言葉を遮るように立ち上がり目指すべき進行方向を見据えた。
その瞳には何の感情も浮かんでいない。
「謝罪も礼も不要だ。俺自身の都合でやったに過ぎん。だが、これで証明されただろう」
そして振り返り、怒るのではなく説得するかのように人差し指を立てて言った。
「街に戻れ。もうついてくるな。お前の体力では足手纏いだ」
しかし、リナはもう怯まなかった。
彼の目を見据え、強い眼差しで言い返す。
「いいえ。対策します。次は、ありません」
その力強い言葉に、ウォルフラムは一瞬虚を突かれ、反論の言葉を失った。
陽が高くなり、砂が熱を帯び始めると、裸足で歩くウォルフラムの足が、時折チリチリと黒いオーラを放ち、皮膚が硬質化して魔神の足のように変貌しかける。
彼はその変化に気づき、忌々しげにまた舌打ちをした。
呪いが肉体を蝕み続けている証拠だった。
その日の昼過ぎ、唐突に足元の砂がゴゴゴと不気味に震えた。
ウォルフラムは即座に危険を察知して後方へ飛び退く。
その直後、彼が立っていた場所から砂が爆ぜ、巨大なハサミが天を突いた。
現れたのは、岩の甲羅を背負った巨大なヤシガニ――「イワヤドガニ」だ。
威嚇するようにハサミを振り翳すモンスターに対し、ウォルフラムは表情一つ変えず、魔剣オリジンを抜き放つ。
閃光が一筋。
光の線と見えた斬撃は、的確にイワヤドガニの胴体を貫いていた。
巨体は一瞬のけぞり、次の瞬間には生命活動を停止して、砂の上にただ巨大な影を落とすだけの存在となった。
リナは、一瞬、何が起こったのか理解できなかった。
目の前で繰り広げられたあまりに圧倒的な一撃に、ただ息を呑む。
(すごい…あんなに大きなモンスターを、一振りで…)
感心してウォルフラムを見つめるが、当の本人は既に興味を失くしたようにくるりと背を向け、さっさと先へ進もうとしていた。
その無関心な態度に、リナははっと我に返る。
「ええっ!?ちょっと待ってください、こんな大きな獲物を置いて行くんですか!?」
慌てて駆け寄り、ウォルフラムの前に回り込むようにして尋ねる。
「あの、ウォルフラムさん!今の、いただいてもよろしいですか?」
目を輝かせて尋ねるリナに、ウォルフラムは心底どうでもいいというように、無言で頷いた。
彼女は早速その死骸に魔法をかけた。
杖の先から放たれた光が、イワヤドガニの甲羅に複雑な魔法陣を描いていく。
「魔物やモンスターの核は魔結晶になっていることが多いので、動力源として使えるんですよ〜。使わないなんて勿体無いです」
ウォルフラムの呆れた視線をものともせず、リナが説明を加える。
やがて、魔法陣が淡い光を放ち終えると、巨大なヤシガニの脚がぎこちなく動き始めた。
「やったー、やっぱり私の魔力が無くても動きました!カニさん、お手伝いよろしくお願いしますね」
嬉しそうに声をかけると、リナは早速、箒からそのゴーレムの平らな背中に降り立ち、そこを臨時の作業台として魔導書の書き込みや解析作業を再開した。
箒の上よりも格段に作業が捗る、最高の拠点だった。
これで、物理的な安全と研究環境の双方が確保できた。
ウォルフラムは、自分の後ろをガサゴソと無機質についてくる巨大なヤシガニを忌々しげに見るが、文句を言うのも面倒で黙っている。
それからも度々、シカのようなモンスターやゲッコーより小さなトカゲのようなモンスターをウォルフラムが邪魔だと薙ぎ払い、去ろうとすると、リナが「もらっていいですか?」と目を輝かせた。
そして、二度目の夜が訪れた。
月だけが砂丘を青白く照らす中、ウォルフラムが不意に足を止め、空を仰いだ。
記憶した星図と、今見える星の位置を照合し、進路を確かめているのだ。
リナは、彼の後ろをついてくる「カニさん」の甲羅の上で、魔導書にペンを走らせていた。
月光に照らされたウォルフラムの横顔を見て、息を呑む。
リンダと別れた時よりも、明らかに頬はこけ、唇は乾いてひび割れている。
その顔色は、まるで死人のように青白かった。
(このままでは、本当に倒れてしまう…)
リナは作業の手を止めると、音もなく甲羅の上から砂に飛び降り、彼の近くに歩み寄った。
「ウォルフラムさん」
彼女の声に、ウォルフラムは星空から視線を戻す。
「…なんだ」
「この過酷な環境にいながら食事も水分も摂っていませんよね?このままでは、あなたは明日まで保ちません。」
「……好都合だ。それが、俺の望みだからな」
その自嘲的な言葉を、リナは待っていたかのように、静かに、しかし有無を言わせぬ力強さで返す。
「私が何も知らないとでもお思いですか?」
「……なに?」
「あなたは先日、アトラトル・サンドワームに自ら身を捧げました。そしてその結果、肉体が滅んだ後、あの『魔神』の姿で復活した。違いますか?」
ウォルフラムの肩が、びくりと震える。
なぜ、それを知っている。
誰にも見られていなかったはずの、己の醜い失敗を。
「私の計算では、ここであなたが餓死や脱水症状で死んでも、結果はまったく同じ。それは、あなたの望む『静かな終わり』とは程遠い、ただの破壊と殺戮の再生産です」
彼女はそう断じると、傍に浮遊させていた魔導書から、魔法陣が描かれたページを一枚、丁寧に切り取った。
その紙片をかざすと、淡い光と共に、素焼きの皿と、その上に乗った青白く輝くゼリー状の物体が召喚された。
それはところどころ固形物を含んでおり、禍々しい深い緑のオーラを放ち、何故だか時々動いてるようだ。
とても皿に乗せるようなものには見えない。
「これを。」
ウォルフラムは、目の前にリナが差し出した得体の知れない物体を前に、思わずたじろいだ。
「……なんだ、これは」
その問いに、リナは待ってましたとばかりに瞳を輝かせた。
「先日解析したモンスターの体組織から、不要な毒素や不純物を魔法的に分解・除去し、生命維持に必須なアミノ酸と糖質、そして水分を再結合させた『高効率生命維持ゲル』です!これ一つで、成人男性が半日活動するのに必要なカロリーと水分を、最小限の消化負担で摂取できるんですよ!素晴らしい発見です!」
早口で自慢げに解説するリナ。
しかし、ウォルフラムは目の前の物体と彼女のキラキラした顔を交互に見つめ、さらに困惑を深めるだけだった。
「……いや、だが、これは…」
彼がなおも躊躇するのを見て、リナはついに堪忍袋の緒が切れたようだった。
それまでの冷静な研究者の仮面をかなぐり捨て、皿をぐいっと彼の胸に押し付ける。
「いいから食えですー!」
敬語と命令口調が混ざった、妙に気の抜ける叫び声。
その気迫に完全に気圧され、ウォルフラムはついに観念した。
「……分かった。分かったから、それ以上近づくな」
彼はひったくるように皿を受け取ると、毒でも飲むかのように、そのゼリー状の物体を口にした。
明らかに美味しくはなさそうな見た目だったが、幸い味はない。
その顔には、リナの勢いに対する降伏と、どうしようもない自分自身への怒りが、ないまぜになって浮かんでいた。
「……分かった。今後は食事も水分も、摂る。ここで無意味に暴走するのは、非効率だ。…だから、二度と俺にあれを食わせるな。食事の準備は、これからは俺がやる」
それは、リナに対する完全な降伏宣言であり、彼が「生きる」という行為を不本意ながらも選択した、最初の夜となった。
さて、食事の後は睡眠問題があるが、ウォルフラムは相変わらず寝ない。
意識を保ってないと身体の権限を呪いに取られそうで、怖いのだ。
リナはそれを察しており、何も言わなかった。
そして彼女の方は、「カニさん」という動く盾がいるとはいえ、ウォルフラムがいつ魔神化するとも限らない。
彼女は、以前分析した鳥系モンスターの生態を元に日中書き上げていた「半球睡眠の魔法」を自らに試していた。
右脳と左脳を交互に休ませる高等技術。
まだ不慣れなため、意識は常に曖昧で、周囲への反応が少し鈍くなってしまう。
三日目の朝。
ウォルフラムは、昨日よりもさらに距離をとってガサゴソと歩く「カニさん」と、その甲羅の上で座り込んでいるリナを見て、内心訝しんでいた。
(なぜ距離を?警戒しているのか?)
彼女は何故だか自分の過去の行いを知っていた。
それも、研究者としての力なのか。
古の魔法使いの力なのか。
とにかく自分の知らない何かを、彼女は力として使っている。
僅かな好奇心から、彼は珍しくリナに声をかけてみた。
「おい。そのガラクタ、いつまで連れて歩く気だ」
リナからの返事はない。
数秒の沈黙の後、彼女はゆっくりとウォルフラムの方へ顔を向ける。
その瞳はどこか焦点が合っておらず、眠たげだった。
「……。あ、すみません。今、右脳が休んでいたので。何か御用でしたか?」
ウォルフラムは絶句する。
「……いや、もういい」と吐き捨て、今度こそ二度と話しかけるものか、と心に誓いながら歩き出した。
彼が背を向けると、リナはすぐにまた元の距離まで「カニさん」を歩かせ、再び慌ただしく活動を再開した。
彼女はコンパスを確認し、(やっぱり、ずっと迷わず北東に進んでるんだ)と、そこに何かあるのを確信して進路の先を見つめた。
すると遠くに、炎が見えた。
いや、炎を纏ったトカゲだ。
彼女はザハラの鍛冶屋で店主に聞いた言葉を思い出した。
『この砂漠の先にあるフィニス火山をナワバリにしてるフィニス・サラマンダーでな。あいつは生まれつき火に耐性があって、自分の体内で燃える炎を武器にしちまう。活火山のマグマの中だって、水みたいにすいすい泳ぎやがるんだ』
フィニス・サラマンダー。
おそらくそれだろう。
進路の先に消えていくトカゲを見つめて、リナは「ふうん…」と独り呟いた。
リナは気を取り直し、甲羅の上で魔導書に新たな魔法陣を描き込んでは時折、宙に浮かび上がった解析結果の文字情報を目で追い、「なるほど、魔力循環の阻害率は…」などと小さく呟いている。
そして、ふと顔を上げては、歩き続けるウォルフラムの背中をじっと観察し、彼の僅かな歩幅の乱れや、体から漏れ出すオーラの揺らぎを、すかさず手元の魔導書に記録していくのだった。
その時、静寂を切り裂いて、砂の中から鞭のような触手がリナの死角から襲いかかった。
砂漠に潜む捕食性の擬態植物だ。
甲羅の上での作業に集中するあまり、リナの反応が一瞬遅れる。
だが、彼女が杖を構えるより速く、「カニさん」がガシャリと音を立ててリナとの間に割り込んだ。
岩のような甲羅が触手の一撃を受け止め、鈍い音と共に弾き返す。
甲羅の表面には深い亀裂が入るが、リナは無傷だった。
「……助かりました。仕事はきっちりこなしてくれるみたいですね」
リナはゴーレムの傷を一瞥し、解析するように小さく呟くと、再びウォルフラムへと意識を戻した。
一方、食事と水分を摂ると約束したウォルフラムは、彼なりに行動を始めていた。
ギルドで得た知識を頼りに、自生していた巨大な樽型サボテンを見つけると、近くの鋭い石で切りつけ、滴り落ちる水分を口にする。
これまでの彼なら、道を塞ぐモンスターをただうるさそうに屠るだけだったが、今は違った。
草食でおとなしい亀のようなモンスターを見つけると、その硬い甲羅を叩き割り、中身を食料として確保する。
そして、割れた甲羅の一部をナイフ代わりに加工し、残りを皿として携帯し始めた。
やがて、砂の中を魚のように泳ぐモンスター「サンドフィッシュ」の群れを見つけると、彼は躊躇なく、手にした甲羅のナイフを投擲した。
ナイフは正確に一匹を仕留め、彼はそれを拾い上げると、無言でリナに差し出した。
「…食うか?」
リナは彼の差し出した、まだピチピチと動いている生の魚を見て、一瞬目を丸くした。
故郷では経験のない食事だったが、その瞳はすぐに研究者の好奇心に輝いた。
「はい、いただきます!これも貴重な……いえ、ありがたい食料ですね!」
彼女はそう言うと、ウォルフラムから受け取った魚を興味深そうに眺め始めた。
昼間の穏やかな時間は、しかし、陽が西に傾き始めるにつれて、徐々に不穏な空気に侵食されていった。
ウォルフラムの口数はさらに減り、その歩みはまるで、見えない何かから逃げるように、焦りを帯びていく。
時折、彼は何の前触れもなくぴたりと足を止め、布の上から強く胸を押さえた。
その指には力が込められ、まるで内側から暴れ出す何かを必死に抑え込もうとしているかのように、爪が白く食い込んでいる。
チラチラと漏れる黒い炎のようなオーラも相変わらずだが、その頻度が増えて見えた。
リナはその様子を、「カニさん」の甲羅の上から静かに、しかし鋭い観察眼で見つめていた。
三度目の夜が訪れた。
ウォルフラムの足取りは、昨日よりもさらに重く、おぼつかない。
全身から漏れ出す黒いオーラは、もはや隠しようもなく彼の輪郭を歪ませていた。
その背後で、リナがそれまで続けていた慌ただしい準備の手を、不意にぴたりと止めた。
そして、覚悟を決めたように、パンッ!と小気味良い音を立てて魔導書を閉じる。
静寂の砂漠に響いたその音は、まるで戦いの始まりを告げるゴングのようだった。
彼女は箒に乗り換え「カニさん」の甲羅の上から飛び降りると、ウォルフラムの進路を塞ぐように、彼の目の前に舞い降りた。
「ウォルフラムさん」
リナの声は、いつもと同じように落ち着いていた。
だが、その響きには、有無を言わせぬ力がこもっている。
「準備は、整いました。ですから…私を信じて、眠ってください」
「……はっ、何を…馬鹿なことを…」
ウォルフラムは、乾いた唇で嘲笑う。
だが、その声に力はない。
「もし魔神に意識を取られても、私が対応します。このままでは、あなたの望まない最悪の結果を招くだけです」
彼女のまっすぐな瞳。
そこに恐怖の色はない。
あるのは、絶対的な覚悟と、彼に向けられた揺るぎない信頼だけだった。
ウォルフラムは一瞬、言葉に詰まる。
彼の心の奥底で、何かがグラリと揺れた。
だが、目の前の小さな少女に全てを預けるという選択を、彼のプライドが許さなかった。
「ふざけるな…!お前のような攻撃手段も持たない奴が、あの化け物をどうにかできるとでも思っているのか!」
彼はリナの肩を乱暴に押しのけ、よろめきながらも再び歩き出そうとする。
その背中に向かって、リナは静かに告げた。
「そうですか。…では、お好きなように」
突き放すようなその言葉に、ウォルフラムの足が僅かに止まる。
だが彼は振り返らず、闇の中へと消えていった。
それから半日、地獄のような時間が流れた。
四日目の太陽が空高く昇り、砂漠が灼熱のフライパンと化す頃、ついにウォルフラムの足がもつれ、砂の上に膝をついた。
視界は激しく点滅し、耳の奥で「殺せ」という声が木霊する。
顔を上げた彼の目に映ったのは、心配そうにこちらを見つめるリナの姿――否、それは、血を流し、地に膝をつく敬愛する兄の姿と重なって見えた。
「あ…あに、う…え…?」
その瞬間、彼の理性のダムは決壊した。
「……いい加減にしろ。俺から離れろ……」
最後の理性を振り絞り、リナを見上げる。
苦痛に歪んだ顔で、絞り出すように言った。
「もう、抑えられない。遠くへ行け、…頼むから」
彼らしくない「頼む」という言葉が、状況の深刻さを物語っていた。
リナは彼の最後の警告を、予測していた通りの合図として受け止めた。
彼女は慌てることなく箒を後退させ、準備していた観測に最適な距離を確保する。
その直後。
ウォルフラムの体から黒い瘴気が爆発的に噴き出し、再びあの「魔性の騎士」の姿へと変貌を遂げた。
リナは、目の前で咆哮を上げる魔神を前にして、汗ばむ緊張はあるものの、一歩も引かなかった。
「やはり、来ましたね…」
彼女は静かに杖を構え、いつものように冷静な声で、しかしその奥に確かな覚悟を秘めて、告げる。
「記録出力を、開始します」