第6話 魔神の目覚め
灼熱の砂が、牙が、肉を裂き骨を砕く感触。
サンドワームの巨大な顎に飲み込まれながら、ウォルフラムの心は奇妙なほど穏やかだった。
熱と痛みで意識が朦朧とする中、彼が最後に感じたのは安堵だった。
(ああ、これで……やっと、終わる)
犯した罪も、呪われた運命も、すべてが闇に溶けて消える。
誰かを傷つけることも、絶望に苛まれることもない。
永遠の無が、彼にとって唯一の救いだった。
それで、よかったはずだ。
深い、深い眠りだった。
どれほどの時間が経ったのか。
ふと、意識が浮上する。
だが、それは安らかな目覚めではなかった。
全身を苛む激痛と、自分の意志とは無関係に手足が動く、あの忌まわしい感覚。
(……なんだ、これは)
視界は闇に閉ざされている。何も見えない。
ただ、何かが自分の内側から溢れ出し、肉体を無理やり動かしているのが分かった。
ギシギシと骨がきしみ、筋肉が悲鳴を上げる。
砕けた骨が、失った肉が、再生してるんだと感覚でわかった。
(まさか……)
脳裏に蘇るのは、炎に包まれた王宮。血の匂い。人々の絶叫。
そして、敬愛する兄をその手にかけようとした、あの日の記憶。
魔神に身体を乗っ取られ、破壊の限りを尽くした悪夢。
(俺は……死んだはずだ……!)
思考が悲鳴を上げるが、身体の主導権は奪われたままだ。
何かが内側から肉を食い破り、外へ出ようと暴れている。
やがて、ぐちゃり、と生々しい音を立てて視界がこじ開けられた。
目に飛び込んできたのは、青い体液を撒き散らす無残な骸と化したサンドワームの残骸だった。
自分がその巨体を、内部から破壊したのだと理解するのに時間はかからなかった。
(やめろ……もう、動くな……!)
心の叫びは届かない。
それどころか、頭の中に直接、自分のものではない声が響き始める。
《アークライトは悪に満ちている。殺せ、殺せ》
その声に呼応するように、身体は新たな破壊を求めて歩き出す。
道中、砂漠のモンスターが何体かその行く手を阻もうとするが、魔神と化したウォルフラムはそれらを一撃のもとに屠り、返り血のように青い体液を浴びながら、一直線にザハラを目指す。
その異様な進行を察知した街の兵士たちが、防衛線を築くために駆けつけてくる。
自分の腕が勝手に動き、彼らを薙ぎ払っていく光景が、まるで他人事のように目に映る。
止められない。この手は、また罪を重ねていく。
その時、赤く染まった視界の中に、見覚えのある二つの影が飛び込んできた。
屈強な女傭兵と、小さな魔法使い。
《邪魔をするものは殺す》
魔神の声が、殺意を煽る。身体がそちらへ向かおうとする。
(よせ……!これ以上誰にも手を出すな!)
必死に抵抗するが、身体は獰猛な獣のように二人へと襲いかかっていた。
女傭兵が俊敏な動きで攻撃を躱しているのが、断片的に見える。
だが、そんな抵抗も長くは続かないだろう。
《抵抗するだけ無駄だ。貴様もその兄も。》
《あの男は、貴様らの血は害にしかならん。忌まわしき血に穢れた血め。》
(黙れ……!兄上のことを口にするな!)
兄の姿が脳裏をよぎり、罪悪感が胸を締め付ける。
その一瞬の動揺を、魔神は見逃さない。
意識がさらに深く沈み、身体の自由が完全に奪われる。
だが、その闇の中で、一つの声だけがクリアに聞こえた。
「ウォルフラムさん!それがあなたの名前でしょう!?ウォルフラムさん!」
彼女の声は、まるで暗闇を貫く光のように、ウォルフラムの意識の核にまで届いた。
(リナ……?)
何かを確かめるようにその名を呼ぼうとするが、唇から漏れるのは獣の咆哮だけだ。
彼女たちを傷つけたくない。
その思いとは裏腹に、魔神の身体はそれまでの剣技一辺倒だった攻撃パターンを切り替えた。
空間に複数の魔法陣を展開させ、そこから無数の魔弾をリンダ目掛けて放ち始める。
リンダは相棒の海王丸を巧みに操り、降り注ぐ弾雨を必死に回避するが、その機動力をもってしても全てを捌ききることはできない。
ついに一発の魔弾が海王丸の脚を捉え、巨体がバランスを崩して砂漠に倒れ込んだ。
魔神の身体は、機動力を失い無防備になったリンダ目掛けて一直線に駆けていた。
黒い剣が振り上げられ、凄まじい勢いで距離が詰まっていく。
(やめろぉぉぉっ!)
魂の絶叫も虚しく、リンダの死が目前に迫った、あと一瞬のところで――
ペチンッ!
場違いに軽い音が響いた。
頬を打たれたその衝撃を引き金に、身体を縛り付けていた呪いの力が霧散し、魔神を形作っていた黒い瘴気が一瞬にして晴れる。
ウォルフラムの身体は、まるで糸が切れた人形のようにすべての力を失った。
しかし、リンダ目掛けて駆けていた凄まじい勢いは殺しきれず、その身体はリンダのすぐ横を通り過ぎ、彼女の背後数メートルの地点までズザザザッと砂を削りながら滑り込むようにしてうつ伏せに倒れた。
リナはハッと我に返った。
(また、彼の記憶を見たんだ)
これだけ繋がる部分が多いと、今回は流石にただの夢だと無視できずに確信に変わる。
落ち着いて再度状況を確認した。
(空気中の魔力飽和量が急激に低下してる、再暴走の予兆は今のところ見られない)
「ウォルフラムさん!やっぱり貴方だったんですね…!」
箒から飛び降りたリナが、心配そうに駆け寄ってくる。
彼女は器用にも自身の非力な腕を補うように箒の浮力を自らの肩に押し当て、うつ伏せに倒れるウォルフラムの大きな身体をそっと起こすと、怪我がないか手早く確認した。
「外傷は、見当たりませんね」
そうしてリナがウォルフラムの様子を確認してる間に、リンダは倒れたままの相棒の元へ駆けていた。
傷ついた脚を優しく撫で、手早く応急処置を施す。
海王丸は苦しげながらもゆっくりと首を持ち上げ、主人の顔を見上げた。
リンダはその大きな頭をポンポンと撫でる。
「よく頑張ったな、海王丸」
労いの言葉に、海王丸は満足そうに目を細めた。
相棒の無事を確認したリンダは、ようやく立ち上がると、驚きを飲み込み、この異常事態を即座に受け入れた。
「…ったく、本当にあの時の小僧だったとはね」
リナは安堵の息を漏らし、傍らに浮遊させていた魔導書と箒の方を振り返り、杖を構える。
「18:12:20、対象の沈静化を確認。一人の少年が正体と見られます。記録を終了」
凛とした声でそう告げると、開かれていた魔導書は静かに閉じ、光の粒子となって彼女の腰のベルトに収まっていった。
再びウォルフラムに視線を戻したリナは、今度は別の魔導書を取り出すと、その中から魔法陣が描かれたページを一枚、丁寧に切り取った。
「私の旅の持ち物なので、ちゃんとした男性向けの服はないですが」
そう独りごちながら、まだ砂の上でぼうっと座り込むウォルフラムの背中に、その紙片をそっとかざす。
紙が淡い光を放つと、簡素な服のようなものが彼の体を包んだ。
下半身はどうにか足首まで隠れているが、上半身を覆うそれは、おそらくリナにとってはポンチョなのだろう、彼の鍛えられた体躯にはあまりに心許ない面積でしかなかった。
首からかけた布はかろうじて胸を隠すのみで、くっきりと浮き出た腹筋や、背骨に沿って走るしなやかな筋肉のラインは、低く屈んでいる今の彼の体制でも隠し切れていない。
ゆっくりと、ウォルフラムは身を起こした。
だが、その瞳に光はない。
ただ砂を見つめ、膝を抱えてうずくまる。
「坊主、大丈夫か?」リンダが声をかける。
「ウォルフラムさん、聞こえてますか?」リナも続くが、彼はぴくりとも動かなかった。
まるで心が死んでしまったかのように、ただそこに在るだけの存在となっていた。
遠巻きに様子を伺っていたザハラの兵士たちが、おそるおそる近づいてくる。
それに気づいたリンダは、ウォルフラムを隠すかのような位置にすっと移動し、彼らに向かって声を張った。
「おい、お前ら!こいつはもう大丈夫だ。それより、アタシの相棒を街まで運ぶのを手伝ってくれ。治療が必要だ。わかってると思うがゲッコーは警戒心が強いからね、無駄に刺激しないように気をつけてくれ。」
リンダが指さす先には、負傷した海王丸が横たわっている。
兵士たちは顔を見合わせ、頷き合うと、数人がかりで海王丸を慎重に担ぎ上げ、街へと運んでいった。
彼女がウォルフラムを庇うかのように動いたのは彼のためではない、リナが懸命に救おうとしたからだ。
それからしばらく声をかけても反応のないウォルフラムだったが、突然、立ち上がった。
その虚ろな瞳が、初めて二人を捉える。
いや、二人を通して、もっと別の何かを見ているようだった。
「……」
無言のまま、彼は右手を虚空に掲げた。
すると、その手に禍々しい――魔剣オリジンが召喚される。
リナが息を呑むよりリンダが制止するより早く、ウォルフラムはその剣の切っ先で、自らの胸をドッと突いた。
だが、その刃は彼の身体を貫く寸前で黒い瘴気が勝手に魔法陣を展開し、彼を傷つけることなく体に吸収される。
「くそっ、死なせろ……!死なせろぉっ!」
獣のような呻き声と共に、彼は何度も、何度も自分の胸を突いた。
死ぬことさえ許されない。
その事実が、彼の心をさらに深い絶望へと突き落とした。
「ウォルフラムさんっ!落ち着いてください!」
隣にいたリナが慌てて止めようとするが、非力な彼女の手は容易く振り解かれ、ウォルフラムは鋭い声で制止した。
「寄るな!」
その瞳には、明確な拒絶の色が浮かんでいた。
「構うな…消えろ」
その時、リンダが呆れたように腕を組んで前に出た。
「いつまでそうやってるんだい。手短に言う。アタシは街に帰る。街にまた来る気があるなら、騒ぎを起こさないように隠れて来な。顔は見られてないかもしれないが、しばらく旅人は警戒されるだろう。ああ、あと、これはアタシにゃ使えない。返しとくよ。」
リンダが何かを投げた。
それが何かを認識するより早く、ウォルフラムの身体は反射的に寸分違わず掴み取る。
パシッと乾いた音を立てて収まったそれは、冷たい金属の感触をしていた。
視線を落とすと、そこにあったのは一枚の金貨。
かつて自分が彼女に渡したものだった。
ウォルフラムはそれを忌々しげに一瞥すると、握りつぶさんばかりに拳を固め、リンダとは逆の方向へ――砂漠の奥深くへと、目的もなく裸足のまま歩き始めた。
昼間の熱が嘘のように奪われ、凍えるような夜風が素肌を打ち始める。
だが、その体の芯まで凍らせるような寒さすら、今の彼にはどうでもよかった。
誰の手も借りず、ただ一人で朽ち果てることを選んだかのように。
「リナ、あんたはどうする?」
「私は、まだ少し考えなくてはいけません。私には時計もコンパスもありますし、この箒なので、必要になったら、またリンダさんに会いにいくかもしれません。ですが、研究者として思うところがあって、彼を追います。助けていただいて、ありがとうございました。」
「アタシも今回ので助けてもらったさ。そうか…気をつけてな」
リンダはそれだけ言うと、ザハラの街へと背を向けた。
リナは箒にまたがり、少し距離を保ったままウォルフラムを追い始めた。
彼に声をかける前に、思考を整理する必要があった。
夢じゃなかった。
彼に触れた瞬間に流れ込んできたあの記憶が、目の前の現実が、それを証明している。
私は知ってしまったのだ、彼が隠し続ける絶望の深さを。
放ってはおけない。
助けたい、と願う自分がいる。
…でも、感傷に流されてはだめだ。
私には故郷を救うという、何よりも優先すべき使命があるのだから。
…そうだ。これは感傷じゃない。
これは、合理的な判断。
彼を救うことは、私の研究にも繋がる。
利害を、一致させられるはずだ。
リナは箒の速度を上げてウォルフラムに追いついた。
「待ってください!」
ウォルフラムは足を止めず、感情の無い瞳で隣を飛行する彼女を見た。
「馴れ合うつもりはない」
「提案があるんです。」
「消えろ。聞く気はない。」
「いいえ聞いてもらいます。これは契約です」
リナはきっぱりと言った。
「私はアイセリアという空の国から来た研究者。主に魔法と呪いの研究をしています。私の旅の大きな目的は、故郷の呪いを解くこと。そのための旅路を手伝って欲しいのです」
彼女は更に距離を詰めた。
「私たちは呪いのために故郷から出た経験が極端に少ない。私が欲しいのはあなたの持つデータ、つまりはこの世界に関する知識や言語です」
そして、彼の問題に迫る。
「代わりに私が提供できるのは…あなたのそれ、呪いの力でしょう。私の知識と能力を使って、その呪いを解くための調査に全力を注ぎます」
ウォルフラムの唇の端が、嘲るように歪んだ。
「…俺は、お前を殺すかもしれない存在だぞ。見ただろう」
彼は歩く速度を上げた。
「どこかへ消えろ。巻き込まれたくなければな」
それは、近くにいる者の身を案じるがゆえの、精一杯の拒絶だった。
だが、リナは怯まなかった。
「私がか弱いだけの魔法使いだと思うんですか?」
次の瞬間、リナが乗った箒が爆発的な速度で加速した。
彼女はウォルフラムの周囲を超高速で飛び回り、複雑な軌道を描いて見せる。
「地に足をついてるあなたが私を殺そうとするより、私が逃げる方がずっと速い。そうは思いませんか?」
ピタリ、と彼の目の前で静止したリナは、強い意志を込めた瞳で言った。
「契約しないというなら、それでも構いません。ですが、私も勝手について行かせてもらいます。その気になったら、声をかけてください。」
ウォルフラムは、何も言わなかった。
ただ、目の前の小さな魔法使いの覚悟と、その確かな実力を前に、彼女を振り切ることを静かに諦めた。
彼はそのまま砂漠の奥へと歩き出す。
その数メートル後ろを、リナは静かについていった。
二人の間に、言葉はない。
夕闇が砂丘の輪郭を溶かし、空には星が瞬き始める。
冷たい風が二人の足跡を容赦なく消していく。
まるで、この旅が誰にも知られず、祝福されないものであると告げるかのように。
絶望を背負う男と、希望を捨てない少女の、不本意な旅が始まった。