第3話 静寂の海
リナ・エヴァハートを乗せた箒は、招待状が示す光の道を頼りに、雲海の上を順調に進んでいた。
やがて雲は途切れ、眼下に広がるのは、どこまでも続く夜の海。
月明かりだけが、穏やかに揺れる黒い水面を銀色に照らしていた。
塔に向けて、光の道は徐々に高度を下げていく。
「…くれ!助けてくれ!」
そう聞こえた気がする。
(何?)
音の方を見ると、遠くでチカチカと点滅する、か細い光が映った。
「あれは…?」
光の道から外れることになるが、少しくらいは問題ないはずだ。すぐに戻ればいい。
リナは迷わず箒の先をそちらへ向けた。
近づくにつれ、それが大きく傾いた漁船であることがわかった。
「早く、助けてくれ!」
船べりにしがみつく船員が助けを求めている。
船の上にはもう一人、若い少年の姿があった。
少年は荒波に投げ出された船員に向かって、ロープのついた浮きを投げていた。
「おい、掴まれ!しっかりしろ!」
船員は確かに浮きを掴んでいた。なのに。
「うわああああ!」
彼は悲鳴と共に暗い水の中へと姿を消した。
「くそっ」
少年はすぐに諦めてロープから手を離した。
次の瞬間、大きな触手がドン、と彼のすぐ近くを叩く。
彼は怯まず、その何かがいる水面下を見ている。
「…俺だけ海に落とせばよかったものを」
生きる気力を失くしたのか、彼は明かりを持って海に近づいて行った。
(何が起きているの? とにかく、あの人を助けないと!)
リナは箒の速度を上げた。
「頑張ってください! 今、助けますから!」
彼女が船のすぐ側まで迫った時、少年がこちらに気付き、一瞬戸惑った。
こんな海の真ん中で、魔法使いどころか誰かがいることがおかしいのだから当然だ。
しかしすぐに鬼気迫る表情で叫んだ。
「馬鹿来るな!いいんだ俺は!」
しかしリナはもう手が届きそうなところまで来ていた。
それは未知なる生き物も同じらしい。
少年は大きく目を見開いた。
「逃げろ、後ろにもう来てるぞ!」
彼の叫びと同時に、ざあっと波の音が消えた。
世界から一切の音がなくなり、視界は完全な闇に包まれる。
リナは、自分がまだ箒にまたがっていること、そして隣に少年の気配があることだけをかろうじて認識した。
「きゃあ!」
あちこち何かにぶつかって、何度か入水して溺れかけ、バランスを崩しながらなんとか箒にしがみつく。
そうして気付くと酷い臭いがする場所にいた。
リナはなんとかまだ箒を掴んで浮遊している。
ランタンの小さな灯りが見えた。
「……どうなったのでしょうか?」
しん、と音の無い世界で少年の声がリナの独り言に答えた。
「…あれはクラーケンだ。帝国で知られる限り最も大きく凶悪な、イカの魔物だ。どうやら、船の一部ごと丸呑みされたらしい」
彼は淡々とした声で告げる。
声の方にうっすらと彼の姿が見えた。
(びっくりした。彼もまだ近くにいたのね。そんなことよりも、魔物に飲まれた?クラーケンに…?)
現実味がなかったが、リナも自分たちが巨大な生物の体内にいることを理解した。
ショックで呼吸が苦しくなる。
飛行していた箒もふらついてきた。
(私、失敗した?故郷を離れて1日目で、これで終わりなの?)
頭が真っ白になり、恐怖で目の前がちかちかする。
(私、ここで死ぬの?)
「…っ」
その苦しそうな息遣いに少年は気付いていた。
脅かして悪かったと感じたのか、彼も怪物に飲まれたのに動揺しているリナを憐れむように見た。
「おい、大丈夫か」
彼が声をかけてきた。
その一言で、リナはかろうじてパニックの淵から引き戻される。
「は…はい…」
深呼吸を一つ。
リナはふいに何かを思いついたように、ローブの下を探り、一冊の古びた魔導書を取り出した。
そして、震える手で杖を構える。
(何をする気だ?)
訝しげな少年の視線を意に介さず、リナは目を閉じて集中した。
「記録出力を開始します。現在時刻、20:23:55。記録開始。座標取得…失敗、記録継続。被験体、私、リナ・エヴァハート。及び、身元不明の少年一名。巨大海洋生物、推定クラーケンの体内にて生存。脱出を試みます」
彼女が紡ぐ冷静な言葉に呼応するように、白紙だったはずの魔導書のページに、淡い光を放つ文字がひとりでに刻まれていく。
そのあまりに場違いな光景に、少年は呆気に取られていた。
こいつは、死ぬかもしれないというこの状況で、何を記録しているんだ?
「…お前、正気か? それとも古の魔法使いはそれが普通なのか?」
「えっ?あ、あの、私はリナ・エヴァハートと申します。その、『古の魔法使い』というのが、よく分かりませんが……」
記録を終えて顔を上げたリナは、至って真剣に名乗った。
リナが名乗ったので、彼は少しの間を置いて、仕方なさそうに名乗り返した。
「俺はウォルフラムだ。…やはりそうか。この周辺に魔法使いが、今も実在したとはな」
リナは彼の名乗りには頷いたが、自分が置かれた状況の深刻さはわかっているらしく、魔法使いについて触れたことは聞こえてないかのように考え込んでいた。
「じゃあリナ、提案なんだがこの肉壁を切れないか試したいんだ。俺を乗せて、飛べるか?」
リナが思いつくより先に、ウォルフラムと名乗った彼の方から、脱出の提案をしてくれた。
「は、はい…!」
リナは箒のバランスを直してふわりと浮き上がり、少年を後ろに乗せた。
ウォルフラムと名乗った彼が宙に手をかざすと、掌には魔法陣が浮かび上がり、体内から剣が現れた。
(見たことない魔法…!でもティダーを介した時の召喚魔法の式に似てる…?)
彼は周囲の肉壁を切り裂こうとするが、ぬるりとした感触だけで、全く歯が立たないようだ。
「だめだ…!」
何度か彼は試したが剣の刃は粘膜の奥の肉まで届いていないようだ。
「くそ、これじゃ難しいな。足場があれば…」
相変わらず不機嫌そうに、ウォルフラムが言った。
「足場があれば、ですか?」
「ああ。ここじゃ踏ん張りが効かないんだ。それにお前に当たるだろ」
「ええと……できるかもしれません、足場」
リナは杖を構えると、集中し始めた。
ウォルフラムは何をするのかと様子を見守る。
リナの足元から淡い光が生まれ、魔法陣を形成した。3平方メートルくらいの床。
リナは杖から魔法陣の床にトンと飛び降りた。
「ある程度の衝撃には耐えられる床です。そうですね、熊さんのパンチは大丈夫ですが、さっきの漁船がぶつかってきたらすぐ壊れてしまうかもしれません」
「耐久値の境界線が分かりづらいな」
「座標はこの魔物、クラーケンに固定しましたから、この子が動いても宙に置いていかれることはありません。ですが、これ、頑張っても10分くらいしか保たせられないんです」
だから急いでほしい、とリナは目で訴えた。
「…ちっ、やらないよりマシか」
ウォルフラムは舌打ちし、魔法陣に飛び乗った。
腰を落として剣を構え直す。
「お前、飛べるんならなるべく離れてろ」
そう言って深呼吸をする。
「ウィル・ブレード…」
静かな詠唱で、剣は閃光を纏う。
その光は光であっても暗くどこか禍々しい。黒い炎、そう言える光だった。
(また、外の世界の魔法?でもさっきのと違って式が見えない。もっと、アナログな計算なんだ。彼は種類の違う魔法を複数扱うの?)
魔法研究者であるリナはこんな時だが興味深かった。
ビュッ、と彼が重く荒い一振りを放つと纏った光の斬撃が飛んでいき、肉壁を切りつけた。
空気が動き、生ぬるく激しい風を感じる。
粘液質の壁に、先ほどとは比べ物にならない深い亀裂が走り、クラーケンの巨体が苦悶に震えるのが分かった。
「すごい……」
リナが感嘆の声を上げるが、すぐにその希望は打ち砕かれた。
傷はすぐに再生し始めてしまう。
彼はクラーケンの再生能力を知っていたのか、動じることはなく静かに次の手を思案しているようだった。
ウォルフラムの一撃に怒り狂ったのか、クラーケンの体内が激しく揺れ動いた。
まるで嵐の中の船のようだ。
それだけじゃない。
壁のあちこち、上からも下からも胃液が噴水のように噴き出し始めた。
ジュウウウッ!
熱い飛沫が、リナのローブの裾を掠めた。
布が焼け焦げ、嫌な臭いと共に穴が開く。
「わわっ!」
このままではまずい。
その危機感が、リナに普段では考えられない無謀な決断をさせた。
「試したことはありませんが、転移の魔法を使ってみたいです!」
転移魔法は強い魔法だ。
魔力が足りるわけもなかったが、失敗してもここで何もせず死ぬよりはマシだ。
「分かった。俺は…できれば1人で行ってくれるか?」
どういう訳だか、彼は一緒に行きたくなさそうだ。
「?何を言っているんですか。この足場はもう保ちませんから、難破船のところまで戻ります。一緒に箒に掴まってください」
彼は何か考えていそうだったが、持っていた剣をパッと投げて無に返し、仕方なく頷いたーー。
リナはひとまずまだ足場のある船の残骸へ降りると、杖を取り出し、目を閉じた。
(高等魔法の呪文って、妙にダサいのが嫌だけどそうも言ってられない)
地響きの中で、彼女の声が小さく聞こえる。
「ア・ギン・・・」
杖の先に淡い光が集まり始める。
ウォルフラムはその様子を黙って見つめていた。
「ジャビン」
光が広がり、魔法の効果なのか2人の頭の中に過去に行ったことのある様々な場所が回想される。
「ヨイン!」
ブツン、と光が切れて何も起こらない。
失敗だ。
「もう一度!」
二度目も失敗。
焦りが募る。
「お願い…!」
三度目の挑戦。
「ア・ギン・・・」
視界が悪くなってきた。魔力が尽きかけてるのだ。
「ジャビン」
平衡感覚が分からなくフラフラとした意識の中、ウォルフラムがリナの様子が良くないことに気づいて駆け寄ってきたのを感じる。
一瞬、彼の姿が黒い人型の魔物のように見えた気がした。
「ヨ・・・ン」
落ちているような感覚がした。
「おい!」
ウォルフラムの声。
失敗して、彼にも申し訳ないな、と考えていた。
リナの意識はそこで途絶えた。
ーー目の前で、少女が意識を失った。
「おい!」
俺は不安定な足場から落ちそうになった彼女を掴まえて抱えた。
すると一拍遅れて、目の前の空間に、所々乱れて掠れた歪な魔法陣がぼんやりと浮かび上がった。
時間差で発動した、不完全な転移魔法。
その中心、魔法陣の発生源と見られる場所は俺…。
いや、俺の中の魔剣”オリジン”だった。
(何故この剣が…?)
次の瞬間、辺りは純白の光で満たされて思わず目を瞑ると、ゴゴゴ、と轟く風に包まれるような感覚がした。
(これは、魔法の暴走だ。)