第1話 光と影の誓い
本来であれば陽光が満ちるはずの大きな窓に、今は重々しい遮光の帳が幾重にも下ろされ、昼なお薄暗い皇帝の寝室。
焚かれた薬草の匂いが、豪奢な調度品に染み付いて沈んでいる。
アークライト帝国を統べた偉大なる皇帝フリードリヒ・シュタインは、今やベッドの上で静かに呼吸を繰り返すだけのか細い存在となっていた。
その枕元に、侍医と二人の王子が控えている。
「…ルーク、ウォルフラム。聞こえるか」
絞り出すような、かすれた声。
しかし、その声にはまだ、かつての威光の残滓が確かに宿っていた。
「は。ここに」
第一王子であるルークが、静かに一歩進み出る。
彼の隣で、弟のウォルフラムも深く頭を下げた。
フリードリヒは、満足そうに頷くと、侍医に目配せをした。
侍医が黙って退室し、室内に親子三人だけが残される。
フリードリヒのかすれた声が、再び静寂を破った。
「もはや、長くはあるまい。…我が命のあるうちに、この目で次代の皇帝を見届けたい。ルーク、お前に王位を譲る」
「…父上」
「お前はまだ若いが、王の務めを果たすに十分な才覚と器量を持つ。…帝国の未来は、お前に託したぞ」
「御意。必ずや父上の、そして帝国の期待に応えてみせます」
父の言葉に、ルークは迷いのない声でそう応えると、力強く頷いた。
その横顔は完璧で、次期皇帝としての覚悟がすでに定まっているように見えた。
フリードリヒの視線が、次にウォルフラムへと移る。
「ウォルフラム。お前は、兄を支えてやってくれ」
「…御意」
短く応えながらも、ウォルフラムの胸中には複雑な思いが渦巻いていた。
(兄上が素晴らしいお方であることは、誰よりも分かっている。だが、父上が認めているのは、やはり兄上の才覚だけではないのか…?)
(自分は…この偉大な父と、天才である兄の役に、本当に立てるのだろうか…)
兄への誇らしさと、拭いきれない自身の存在価値への不安。
その二つがない交ぜになった表情で、ウォルフラムはただ、父の言葉を噛み締めていた。
重苦しい謁見が終わり、二人は静かに父の寝室を辞した。
長い廊下を歩きながら、ルークが不意に口を開く。
「ウォルフラム。この後、私の部屋に来てくれ」
兄の私室は、皇帝の寝室とは対照的に、実務的な書物や資料が整然と並び、華美な装飾はほとんどなかった。
二人きりになると、ルークはそれまで身にまとっていた完璧な王子の仮面を外し、まるで重い鎧を脱いだかのように、ふっと深く息を吐いた。
「…父上の前では、ああ言ったが」
ルークは窓辺に立ち、溜息まじりに言葉を続ける。
「私のやろうとしていることは、多くの貴族たちの反感を買っている。…旧弊を打ち破り、出自に関わらず有能な者を登用する。私自身は正しい理想だと信じているが、多くの貴族たちはそうは思っていない。だからこそ、彼らは当てにならない」
その声には、ウォルフラムが今まで一度も聞いたことのない、微かな弱さの色が滲んでいた。
兄が、有能な平民出身の男を魔法騎士団の司令官に抜擢したことで、保守的な貴族たちがどう反応したか、ウォルフラムも知っている。
完璧に見える兄が、そのことで深く心を悩ませていたとは。
ウォルフラムが言葉を探していると、ルークはゆっくりと彼の方へ向き直った。
その深い青色の瞳が、弟をまっすぐに見つめる。
「ウォルフラム。お前は誰より物事の本質を見抜いている。そして、誰よりも強く、心がまっすぐだ」
兄の真摯な眼差しに、ウォルフラムは息をのむ。
「…お前だけが、私の本当の味方であり、頼りだ」
その言葉は、雷のようにウォルフラムの心を貫いた。
父に認められたい、兄の役に立ちたいと願いながらも、ずっと抱えてきた劣等感と焦燥。
そのすべてが、兄からの絶対的な信頼の言葉によって、跡形もなく吹き飛ばされていく。
天才である兄が、自分を、必要としてくれている。
その事実が、燃えるような熱い塊となって、胸の奥から込み上げてきた。
ウォルフラムは、兄の言葉に力強く頷き返す。
もう、迷いはなかった。
(この人の力になりたい。この偉大な背中に追いつき、いつか隣に立つにふさわしい存在になる。そのために、自分にできることなら、なんだってやろう)
この瞬間、ウォルフラムの心に、兄への絶対的な忠誠と、自らが進むべき道が、はっきりと刻み込まれたのだった。
現国王の体調を案じ、それから一月も過ぎない内に王位継承式は行われた。
荘厳な大広間。
眩い光の中、輝かしい王冠が、兄、ルークの頭上に捧げられる。
その深い青色の瞳には落ち着きと、国を背負う者だけが持つ自信に満ち溢れている。
今日、この国は、最も輝かしい王を得たのだ。
(兄上…)
ウォルフラムは、少し離れた場所から、壇上に立つ兄の姿を食い入るように見つめていた。
込み上げる熱い想いを胸に、ウォルフラムは心の中で強く誓う。
この人の力になりたい。
いつか、この偉大な背中に追いつき、隣に立つにふさわしい存在に、必ず。
厳粛な王位継承式は滞りなく終了。
夜になり、王宮の大広間では新王ルークの即位を祝う晩餐会が催されている。
煌びやかなシャンデリアが放つ無数の光が、磨き上げられた大理石の床に乱反射し、目を焼くほどに眩しい。
楽団が奏でる優雅な祝賀の調べは、あちこちで上がる耳障りな笑い声や、意味もなく打ち鳴らされるグラスの音、そして貴婦人たちが纏う甘ったるい香水の匂いが入り混じった熱気の中に、虚しく溶けていく。
誰も音楽など聴いてはいなかった。
ウォルフラムは、その喧騒の渦から少し離れた柱の陰に立ち、手にしたグラスの中身を一口も飲むことなく、ただ兄の姿を目で追っていた。
兄、ルーク。帝国の新たなる「光」である彼は、人々の輪の中心にいた。
荘厳な戴冠式で身につけていた王冠こそ外しているものの、その凛とした佇まいは少しも変わらない。軍服に近い仕立ての白い礼装には数々の勲章が輝き、帝国の最高位を示す青いサッシュが、彼の屈強な身体を彩っている。
それは、ウォルフラムが身につけているものと、同じ色だった。
次々と挨拶に訪れる貴族や各国の要人たちに、完璧な笑顔と、非の打ちどころのない立ち振る舞いで応じている。
誰もが彼に羨望と期待の眼差しを向け、その一挙手一投足に熱狂する。
(さすがは、兄上だ…)
誇らしく思う気持ちと同時に、兄の信頼に応えたいと願うからこそ、その完璧な姿がウォルフラムに焦りをもたらした。
兄の隣に立つには、今の自分はあまりにも未熟だ。
その事実が、再び彼の心を苛む。
その時、彼の耳に、すぐ近くで交わされる不快な囁き声が届いた。
声の主は、いかにも家柄だけが自慢といった風情の、若い貴族の子息たちだ。
「おい、見たか。新しい魔法騎士団の司令官、ヴァレリウスとか言ったか。平民上がりだそうじゃないか」
「ああ、聞いた。陛下もご乱心だ。いかに才があろうと、血の卑しい者に帝国の心臓部を任せるなど…」
ウォルフラムの眉が、僅かにピクリと動いた。
ヴァレリウス司令官。
彼は平民の出身でありながら、その卓越した魔導理論と戦術眼をルークに見出され、異例の若さで司令官に抜擢された逸材だ。
兄がその才を高く評価していることを、ウォルフラムも知っていた。
貴族の一人が、軽蔑するように鼻を鳴らす。
「所詮、平民の知恵などたかが知れている。いざという時、国のために命を捧げる覚悟など、我々のような高貴な血筋の者でなければ持ち合わせられんよ」
その言葉が、ウォルフラムの中で一本の糸を切った。
彼はゆっくりと、声の主たちへと顔を向ける。
その冷たい視線に気づき、貴族たちはびくりと肩を震わせた。
「……今、何と?」
ウォルフラムが発した声は、囁くように静かだった。
だが、その声に含まれた絶対零度の響きに、二人の顔から血の気が引いていく。
「い、いえ、これはウォルフラム殿下…。その、我々はただ、帝国の将来を案じて…」
しどろもどろになる彼らを、ウォルフラムは一瞥のもとに切り捨てる。
「ヴァレリウス司令官は、お前たちが書物の表紙を眺めている間に、古代魔導戦略論を三度読破している。彼の功績は血ではなく、お前たちには到底及ばぬ知性と努力によるものだ。兄上が評価したのはそこだ。それが理解できぬなら、黙っているがいい」
静かだが、有無を言わせぬ断言だった。
ウォルフラムは続ける。
「帝国の威信を損なうのは、出自ではない。貴様らのような浅薄な思考そのものだ」
貴族たちは、完全に言葉を失い、青ざめた顔で立ち尽くすばかりだった。
ウォルフラムは彼らにもう一瞥もくれることなく、手にしたグラスを近くの給仕の盆にことりと置いた。
そして、まるで窮屈な役割を脱ぎ捨てるかのように、肩にかかった豪奢なケープを無造作に外すと、近くに控えていた従者に預ける。
王族としての体裁を解いた彼は、まるで独り言のように、しかし周囲にはっきりと聞こえる声で呟く。
「……気分が悪い。少し風に当たってくる」
そう言い残し、彼は誰に礼をするでもなく、祝いの喧騒に満ちた大広間に背を向け、静かにその場を立ち去った。