第15話 灰燼の竜骸
ドスっ
腹の上に踵が落ちてきた衝撃で目を覚まし、ウォルフラムは無言で天を仰いだ。
窓の隙間からは、既に朝日が差し込んでいる。
(…契約してからというもの、毎晩これか…)
彼の苛立ちの正体は、隣にいる少女の寝相だ。彼女は左手でウォルフラムの手を掴んだまま、彼の腹に足を乗せ、猫のように液体になって頭と右手をベッドの外に投げ出していた。
手を繋いで寝るという、契約当初の気まずさなど、とうの昔に物理的な苦痛と苛立ちに上書きされていた。
(こいつは気づかないのか?頭と足の位置がもはや就寝前とは90度違うじゃないか。)
顰めっ面で、しかし彼女の落ちかけの半身を支えると、乱暴にベッドの中心に転がした。それでも彼女は尚、心地よさそうに寝ている。
(はぁ、物理接触で魔神化しないとは言え、この状況をどうにかできないものか)
彼は苦悩を抱えながら、無意識に乱れた服と寝具を几帳面に伸ばす。それから、小さなテーブルに置いていた、計画書に目を通した。
(リナはギルド研究所で機材を借りれる関係から、まだしばらくはここに残って俺の呪いの解析を進める…。しかし、やはりついでに立ててる計画が壮大すぎるな。食糧問題解決のための農園計画。滞在の間だけ手伝うとのことだが、予定する短い期間で何か成果があるとは思えない。リナも、研究所のレオも、揃いも揃って夢想家か…)
ーー時は同じく早朝。
ゲイルは、まだ人気のない道を、ギルドへ向かって一人歩いていた。
脳裏に蘇るのは、数日前の屈辱的な敗北。あのビギナー装備の男…ウォルフラムの、余裕ぶった態度。 「チッ…気に食わねえ…」 悪態をつきながら、彼は無意識に拳を握りしめる。もっと強くならなければ。あの男にも、そしてザハラ最強のハンターであるリンダにも、いつか必ず認めさせてやると。
その内なる決意の空気を読まず、突如、前方から高い声が響いた。
「きゃああああ!」
声がしたのはギルドの納品所。昼間ならハンターたちの活気で満ちている場所だ。
「どうした!?」
ゲイルが駆けつけると、そこには信じがたい光景が広がっていた。
壁を背に尻もちをつき、恐怖に顔を引きつらせた受付嬢。
そして彼女に覆いかぶさるように迫る、一体の巨大なモンスター。
全体的なフォルムは二足で立つクマのようだが、その全身は黒光りする硬い甲殻で覆われている。
アリクイのように長く伸びた鼻先と、ツルハシのように発達した前足の爪。
「“岩砕獣”か!捕獲納品物の脱走か!?」
モンスターが、ベトベトした唾液に濡れた爪を振り上げる。
ゲイルは思考するより早く、倒れた女性の間に滑り込んでいた。
ナックルダガーを構え、振り下ろされる一撃を甲高い金属音と共に弾き返す。
「大丈夫か!?」
「ゲイルさん…!それは絶命後に納品されていたんです!なのに急に動き出して…!」
「何!?」
爪を弾かれた岩砕獣は後ろにのけ反ったが、地に着いた太い尻尾で体を前に押し返すと発達した両脚でジャンプした。圧倒的質量の両足蹴りが2人に飛んでくる。
ゲイルは咄嗟に女性を抱えて横に跳んだ。
ドゴォ!
壁に蹴りが入り、砂煙を上げて崩壊する。
「歩けるか?」
「脚が、痺れて…。あの唾液を受けました…」
「チッ、麻痺毒か。」
砂煙から再び岩砕獣が飛んでくる。爪を構えてゲイルたちに振り翳した。
ゲイルは女性を抱えたまま避けると、ピューッと指笛を吹いた。
ドダダダダダダ!
指笛に呼ばれて素早くやってきたのは、アトラトル・ゲッコー。
ゲイルは受付嬢をひょいとゲッコーの背に乗せると、岩砕獣に向き直った。
「離れてろ」
相棒に指示を出してゆっくり距離を取らせる。岩砕獣はその場を逃れるゲッコーに、長い舌を鞭のように打とうと伸ばすがゲイルのナックルダガーがそれを捉えた。
岩砕獣は舌を少し切ったことで口に引っ込めた。
ゲイルのダガーに麻痺毒の唾液が絡むが、彼はビッと一振りしてそれを払った。
再び岩砕獣の両爪が彼を捕えようと正面にクロスした。彼は身軽にその前屈みになった前脚を足場として蹴ると、逆手の双剣のようにナックルダガーを構えてコマのように拘束に身を捻り、連続した斬撃を浴びせながら岩砕獣の背を滑り降りるように攻撃を加えた。
重さはなく、軽く連続した攻撃が、彼の売りである。
甲殻に火花を散らすだけで、致命傷には至らない。だが、ゲイルの狙いはそこではなかった。 岩砕獣の注意が完全に自分に向いたことを確認すると、彼は着地と同時に後方へ大きく跳躍し、距離を取る。
「さあ、ここまで来い!」
挑発するようにナックルを打ち合わせる。
「”羽根の刃”!」
青白い光で形成していた刃の色が更に白っぽく変化した。同時にゲイルの動きは更に早く、軽くなる。
怒りの咆哮を上げて突進してきた大きな大砲玉のような岩砕獣に、重力を感じさせない水の流れのように正面から駆けると、寸手のところで横を通り過ぎながら低い姿勢でその脚に乱舞する。見えない連撃で、硬い甲殻部分にヒビが入った。
「お前の蹴りは、やばいからな」
そしてもう一度ナックルを打ち合わせる。
「”爆の刃”」
今度は刃の光が赤く変化した。加速していた彼の身体スピードは元に戻った。しかし尚も身軽に次々と攻撃を避けて跳び回る。
彼が斬るのは岩砕獣ではない。壁を、地を切りつけると抉れた表面が赤く光る。
ゲイルを追って岩砕獣の蹴りが飛んできた。彼が避ければ踏み抜かれた赤い光のトラップが、獣の破壊力を借りて爆発する。
既に脚の装甲に傷を受けている岩砕獣は、その場に転倒した。
隙を見逃さずにゲイルが飛び乗ると、首後ろに回り込んで青白い刃を立てた。
「さらばだ。」
首筋の隙間の装甲の無い部分を的確に、綺麗に貫き、岩砕獣は動かなくなった。
程なくゲッコーがゆっくり戻ってくる。
ゲイルは腰のポーチから小瓶を取り出すと、受付嬢の脚にバシャっとかけた。
「解毒剤だ。岩砕獣くらいの麻痺ならこれで十分だろう。」
「あ、ありがとうございます。しかし、他にも納品されたモンスターが生き返って、街に飛び出して行ってしまいました。この時間はまだ早いので、目撃者は私だけです。」
彼女はまだ少し緊張が解けない様子で答えた。
「…なんだと。何が起こってやがる…」
ゲイルはあたりを警戒しながらゲッコーの背中、彼女の後ろに飛び乗ると真剣な声て聞いた。
「あんた、受付嬢なら分かるだろう?ギルドマスターは今どこだ?報告せねば。」
ゲッコーが砂塵を巻き上げて駆け出した。
その少し前のこと、ハンターギルドの研究所では、リナとの共同研究について考えを巡らせていたレオが話し込んでいた。
「ですから、楼蝸牛には言語は違えど私たち魔法使いが使うような術式のようなものがここに…」
リナの言葉の途中、
ドゴオオン!
外で何か激しく壊れたような音が聞こえた。遅れて、人々の喧騒が届く。
「な、なんだ!?この騒ぎは…!」
研究者としての冷静さをかなぐり捨て、レオは誰わりも早く部屋を飛び出していく。
リナもすぐさまその後を追い、彼女が飛び出すことを予想していたウォルフラムも続いた。音の発生源は――ギルドの納品所周辺だ。
納品所の周辺は、既にパニックに陥っていた。破壊された建物の残骸が散らばり、土埃が舞っている。
「うわああ!死体が、死体が動き出したぞ!」
「素材として納品したモンスターが……!」
職員たちの悲鳴が飛び交う中、リナたちの目に信じがたい光景が飛び込んできた。
納品されるはずだったモンスターの死骸が、まるで命を吹き込まれたかのように蠢いている。腕がもげた、熊のようなモンスター。首に大きな裂傷を負った狼型のモンスター。そのどれもが、生前の獰猛さを取り戻したかのように暴れ回っていた。
「くそっ、退がってろ!」
その場に居合わせたハンターたちが、負傷した職員を庇いながら剣を振るう。この街を守るのは、ハンターとしての誇り。彼らの背中には、確かな覚悟が宿っていた。
ウォルフラムが魔剣を抜き放ち、一行に襲い掛かってきた一体を斬り捨てる。しかし、モンスターは街の外からも、まるで何かに引き寄せられるように次々と現れ、腐臭が立ち込めた。
空を舞う翼竜、地中から突き出す砂竜、俊敏に駆け回る獣たち。その多くが、体のどこかを欠損させた「屍」だった。
「リナさん、あれは……ゴーレムですか?」
避難誘導をしながらレオが叫ぶ。リナは冷静に戦況を分析し、首を横に振った。
「いえ、違います! ゴーレムだとしたら、欠損によるダメージを無視して活動しすぎです。動力源がモンスターの内部ではなく、外から供給される別の魔力を帯びている……これは、アンデッドと呼ぶのが妥当でしょう」
その時、地響きと共に巨大な影が近付いてきた。アトラトル・ゲッコーの背に乗ったギルドマスターとリンダ、そしてゲイルの一団だ。彼らは眼下の惨状を素早く把握する。
「情報が集まる私ですら、この騒動の原因を掴めていない! とにかくハンターは力のないものを守り、逃がせ!」
ギルドマスターの檄が飛ぶ。ゲイルはリナの隣に立つウォルフラムの姿を初めて捉えた。
「お前、ビギナー装備か?!」
一瞬、侮蔑の色が目に浮かんだが、ゲイルはすぐに首を振る。
「いいや、今はそんなことはいい。行くぞ、お前ら! 戦えない者を逃すんだ!」
ゲイルはそう叫ぶと、手下と共に集団でゲッコーを乗りこなし、人々を安全な場所へと導き始めた。
誰もが目の前の混乱に対処するので精一杯だった、その時。
街の外、地平線の向こうから、明らかに異質な存在が姿を現した。他のアンデッドとは比較にならない、圧倒的な威容。燃え盛る炎をその内に宿した、巨大な骨の竜。
「あれは……まさか……フィニス火山の伝説の古龍、ギガフィニクスの亡骸だというのか……!」
ギルドマスターが絶句する。その隣で、リンダが獰猛な笑みを浮かべた。
「間違いないな。あいつの相手は、アタシが一番の適任だろう」
「……任せる」
ギルドマスターが頷く。彼は天に響くほどの大音声で宣言した。
「これより、ギガフィニクスのアンデッドを【灰燼の竜骸】と命名する! その無力化を、Sランクハンター、リンダ・ベルクに依頼する!」
リンダは近くで箒に乗り、戦況を見つめるリナを一度だけ見上げ、ニヤリと歯を見せた。
「リナ! モンスターどもはアタシら専門家に任せな! あんたは、この騒ぎの根本を探ってくれるか? あんたの得意分野だろう!」
「――もちろんです!」
リナは力強く頷くと、ウォルフラムに向き直った。
「ウォルフラムさん、私を手伝ってくれますね?」
ウォルフラムは地上のアンデッドを薙ぎ払いながら、短く応える。
「契約のうちだ」
二人は頷き合うと、観測に適した場所を探すため、比較的モンスターの少ない建物の屋上を目指した。
一方、リンダと彼女の愛騎であるアトラトル・ゲッコー「海王丸」は、街の外に迫る灰燼の竜骸へと駆けていた。
「姐さん! サポートに入りやす!」
そこへ、荒くれハンターチーム「ザ・ロイヤルズ」のリーダー、レックスが仲間と共に駆け寄ってきた。
「俺たちは姐さんに比べりゃ非力だが、パーティーとしての連携は慣れてる!」
「いい意気だ。期待してやる。先に行ってるぞ!」
リンダは不敵に笑うと、ロイヤルズが返事をする間もなく海王丸のスピードを上げた。あっという間にその背中は小さくなっていく。
街の入り口を守る兵士たちは、古龍の圧倒的な威圧に怯え、後退りをしていた。それでも彼らは命懸けで竜骸の注意を引き、その灼熱のブレスを街の外へと逸らさせる。
ブレスを吐き出そうと開かれた竜骸の顎に、真横からリンダの大剣が叩き込まれた。ガゴッ、と鈍い音が響く。傷こそつかないが、ブレスはあらぬ方向へと逸れていく。
「よく頑張った! 負傷者を運んで撤退だ! ここからはアタシが引き受ける!」
リンダの力強い声に、兵士たちは安堵の表情を浮かべ、撤退していく。
「リンダさんが来てくれたぞ!」
「お願いします!」
リンダは巧みな手綱さばきで竜骸の足元に潜り込むと、黒曜石のように硬化した足の骨に飛び移り、大剣を思い切り叩きつけた。黒い骨に微かな亀裂が走る。
竜骸はそれを煩わしげに鋭い爪で払いのけようとするが、リンダは慣れた動きでそれを避け、再び海王丸の背に飛び乗った。
(なんて硬い…。アタシの渾身で少し亀裂が入る程度か)
リンダを逃すまいと、竜骸は胸部の肋骨の隙間から、溜め込んだ熱気を爆発的に放出した。砂埃と煙幕が辺りを包む。
煙が晴れていく中から、海王丸とリンダは無傷で再び現れた。そこへ、ようやく追いついたレックスたちが駆け寄ってくる。
「姐さん! ご無事で! 俺たちも来やしたぜ!」
「おう。お前たちは機動力がないから無理に近づくな! ギガフィニクスと同じ特徴なら、弱点は胸部の炎だろう」
説明の最中にも、巨大な尻尾がリンダを薙ぎ払わんと迫る。海王丸は左右に小刻みなステップを踏み、的確にそれを回避した。
「だが、デカすぎて懐に飛び込むチャンスがねえ。下手に近づけば、今の熱爆発が飛んでくる」
竜骸は痺れを切らしたように息を吸い込んだ。
「デューク! 盾だ! 咆哮威圧がくるぞ!」
レックスが叫ぶ。次の瞬間、ギャオオオオオオゥ、と鼓膜を破らんばかりの雄叫びが響き渡り、隕石が落ちたかのように地面の砂が円状に吹き飛んだ。
デュークが構えた大盾に、レックスとバロンは身を屈める。
だが、リンダは違った。海王丸から飛び降りると、咆哮の衝撃波が到達する寸分のタイミングで、大剣を軸に身を独楽のように回転させる。ハンターの技量と装備の特性を極限まで引き出すことで成される回避術。音そのものを、彼女は避けてみせたのだ。
「なっ……リンダ姐さん、咆哮を避けたぞ……!」
バロンが驚愕に目を見開く。常人には理解しがたいその立ち回りに、ロイヤルズの面々は息を呑んだ。
風圧に吹き飛ばされた海王丸も、短い水掻きのような皮膜で滑空し、見事に体勢を立て直して遠くに降り立った。
「ブレスを誘え! 近づくには火を吹いてる時がチャンスになる!」
リンダが叫ぶ。
「レックス! アイツの喉に炎が見えるだろう。さっきブレスを吐いたばかりで小さくなってる。回復魔法を使ってやれ!」
「て、敵を回復しちまうんですかい!?」
「戦略だよ! ブレスを吐かれたって、対処できりゃいいんだろ!? できるな!?」
リンダの無茶な、しかし自信に満ちた言葉に、レックスは一瞬戸惑いながらも聖印を翳した。
「癒しの光オオオ!」
放たれた光が竜骸の骨の隙間を抜け、喉元で揺らめく炎を再び大きく燃え上がらせた。
竜骸は尚も暴れ回り、リンダを執拗に追う。その爪を、牙を、リンダは紙一重で回避し続ける。完璧なタイミングでの回避を繰り返すことで、次の一撃に絶大な威力を上乗せするハンタースキル。彼女は静かに、着実に、反撃の力を溜めていた。
レックスはリンダの意図を汲み取り、仲間たちに指示を出す。
「バロン、氷矢を用意しておけ。ブレスを吐く瞬間の喉を狙うんだ」
三人はリンダの動きに合わせ、近づきすぎず離れすぎない絶妙な距離を保って走る。その時、巨大な尻尾が三人に狙いを定めた。
「逃げろ、二人とも!」
デュークが咄嗟に前に出て盾を構える。しかし、その圧倒的な質量攻撃を防ぎきれるとは到底思えなかった。
「この脳筋が! 防御強化!」
レックスの詠唱に応え、デュークの盾が眩い光を放つ。その光は一瞬にして広がり、彼らの前に巨大な防御壁を展開した。ドオォォン! と凄まじい音を立てて、巨大な尻尾が防御壁に激突し、その動きを止める。
「さすがリーダー!」
「感心してる場合か! 危なかったぞ!」
その間にも、リンダは竜骸の正面で攻撃を避け続けていた。
「なるほどな。生きていた頃の癖は、骨になっても抜けねえらしい。お前が次にどこを狙うか、アタシにはお見通しだよ!」
「ブレス、来るぞ!」
バロンが叫ぶ。竜骸はついに、溜め込んだ圧倒的な熱量を喉から放つべく、大きく口を開けた。
バロンは氷の矢を番え、骨と骨の僅かな隙間、その奥で燃える炎を睨む。
(――外すわけには、いかねえっ!)
ゴーグルの下で鋭く研ぎ澄まされた瞳が、ターゲットを的確に捉える。放たれた矢は一直線に飛翔し、炎と氷が激突。パァン! と甲高い音を立てて、竜骸の体内で小規模な爆発が起こった。たまらず竜骸が怯み、大きく体勢を崩す。
その一瞬の好機を、リンダが見逃すはずがなかった。
「――最高のパスだ、ガキどもッ!!」
回避によって極限まで高められた力が、大剣に収束する。矢のように飛び出したリンダは、がら空きになった竜骸の胸元に、渾身の一撃を叩き込んだ。
黒曜石の如き骨が砕け、刃は体内の灼熱の炎を貫く。
ドン、と。遠く離れた街からでもはっきりと分かるほど、巨大な縦一筋の炎の光が、天高く昇った。
声もなく崩れ落ちる灰燼の竜骸。舞い上がる砂煙の中から、海王丸が主を乗せて悠々と戻ってくる。リンダは大剣を背負い直し、ザハラの街の方を見つめた。
「さて、と。こっちのデカいヤマは片付いたが……あっちは、上手くやってるかね」