表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/12

鏡の向こうのわたしへ

――藤咲沙耶

神堂先生の死を、私はまだ信じられずにいた。


この山荘に集められてから、すでに五日。

弟子たちはそれぞれ、神堂の「遺稿」を読み進めていった。

ある者は推理し、ある者は泣き、ある者は沈黙した。


けれど私は、最後まで手を出せずにいた。

先生の文字に触れたら、その死が現実になってしまいそうで。


「藤咲さん、これがあなたの分です」

編集者の牧が、封筒をそっと机に置いた。


革のような手触りの古びた紙。

封筒には達筆な筆致で、ただひとこと――

「沙耶へ」


胸が痛む。

まるで、罰を受けるような痛みだった。


私は封筒を開き、原稿用紙に目を落とした。


【神堂亘 遺稿 7】

『消えるための方法論』

 彼は私に笑いかけてくる。

 あいかわらず、不器用な笑みだ。

 わたしは黙って頷く。

 計画は、明日決行される。


 この世界には、残してはいけないものがある。

 真実、記憶、そして、感情。

 わたしたちは、それらを知ってしまった。


 だから、彼を消さなくてはいけない。

 彼を、消すことで、わたし自身を消すことになるとしても。


 ──彼は、わたしだったのだから。


 わたしの名前は、まだ思い出せない。

 けれど、それでいい。

 名前など、この世界にはもう、不要なのだから。


 「最後の鍵」は、鏡の裏にある。

 君が読むとき、そこに“わたし”はいない。


原稿用紙は10枚ほど。

短い、けれどあまりにも静かな言葉で綴られた一編だった。


「……これが、先生の最後の小説?」


私は誰にともなく呟いた。

泣くこともできなかった。

この短編の語り手が、まるで私自身のように感じられたからだ。


主人公は「彼」を殺したのか、自分を殺したのか。

いや、そもそも“彼”と“わたし”が同一人物だったなら、

この物語は自己消失の記録なのか?


何度も読み返す。

だが、途中から“ある違和感”が私を捕らえた。


文体。

文章の呼吸が、前半と後半で微妙に異なっている。

初めの数ページは、明らかに神堂らしい端正な文章。

だが後半――特にラスト3行――だけが、どこか誰かの手が入り込んだような“乱れ”があった。


私は最後のページをめくった。


裏に、走り書きのような一行が残されていた。


“遺された者のふりをしていたのは、君たちのほうだったんじゃないか?”


……これは、先生の筆跡ではない。


筆致は震えていて、インクが滲んでいた。

明らかに他の遺稿とは違う紙質。

なにより――この一文は、物語の一部ではなかった。


私はそのページを両手で持ち、もう一度目を凝らした。


たしかに、そうだ。

これは、あとから挟まれた“誰かの声”だ。


誰が? いつ? どこで?

そしてなぜ、この一文だけが「本物の声」のように胸に刺さるのか?


そのときふと、先生が私に最後に言った言葉が脳裏に蘇った。


「沙耶、君はいつか、“書かれていないこと”を読むようになる」


私はそのページをそっと閉じた。


それでも、その言葉は――

閉じても、消えなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ