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藤咲 沙耶 編

『赤い薔薇は誰の手に』

藤咲沙耶は、封筒を開ける手元が、微かに震えるのを感じていた。神堂先生。あの人の言葉は、いつも私の心を揺さぶった。詩のような比喩、心の奥底を覗き込むような心理描写、そして、常に私を“愛”という概念の深淵へと誘い込もうとする、あの挑発的な眼差し……。倒叙ミステリー、心理トリック、視点の錯誤。そして、ロマンス。先生は、この遺稿で、私に何を伝えようとしているのだろう。私の胸には、神堂先生への、決して言葉にできない感情が、まるで甘い毒のように広がっていた。久留米の書斎に満ちる、古書の匂いと、先生が吸っていた煙草の微かな残り香が、過去の記憶を呼び覚ます。

原稿用紙からは、甘美な薔薇の香りと、隠された真実が混じり合ったような、濃密な空気が漂ってくる。まるで、その文字の一つ一つが、誰かの愛と、誰かの嘘を物語っているかのように。


1. 完璧な計画、そして見せかけの犯人

私は知っている。あの夜、あの書斎で、彼を殺したのは、他でもない私だ。

雨の降りしきる夜だった。書斎は、暖炉の炎がゆらめき、その熱が肌にまとわりつくほどに心地よかった。彼、つまり神堂先生は、いつものように深いソファに腰掛け、ウィスキーグラスを傾けていた。彼の隣には、私が用意した、毒が仕込まれた紅茶が、湯気を立てている。

私たちは、長い時間、言葉を交わした。彼の眼差しは、いつも私の心の奥底を見透かしているようで、私を焦燥させた。しかし、その夜は違った。彼の瞳には、どこか諦めにも似た、甘く、そして深い愛が宿っているように見えた。

私は、彼の言葉に耳を傾けながら、心の中でカウントダウンを続けていた。毒が彼の体内で効果を発揮するまでの、残り時間。完璧な計画だった。誰にも気づかれずに、彼を殺す。そして、その罪を、別の誰かに擦り付ける。

書斎の扉が開かれ、入ってきたのは、彼の助手である高野だった。高野は、いつも神堂先生に付き従い、忠実な犬のように振る舞っていたが、その実、先生の才能を嫉妬し、密かに憎んでいたことを、私は知っていた。高野は、部屋に入るなり、不自然に落ち着かない様子で、テーブルの上にあった薔薇の花瓶に触れた。その指先が、わずかに震えているように見えたのは、私の錯覚だったのだろうか?

私が用意した紅茶を一口飲んだ後、神堂先生は、ゆっくりと目を閉じた。彼の顔に苦痛の表情はなく、まるで眠りにつくかのように静かだった。そして、彼の口元には、かすかな笑みが浮かんでいるように見えた。まるで、全てを理解し、受け入れているかのように。


2. 愛の錯覚、視点の欺瞞

警察の捜査は、私が仕組んだ通りに進んだ。書斎に残された証拠、高野の不審な行動、そして、彼の動機。全てが、高野が犯人であることを指し示していた。彼は逮捕され、罪を認めた。私は、完璧な勝利を収めたのだ。

だが、私は、どこか満たされない感情に囚われていた。この勝利は、本当に私が望んだものだったのか?彼の死は、本当に私の手によってもたらされたものだったのか?私の胸には、甘い勝利の代わりに、苦い疑問が残った。

私は、夜な夜な、彼の遺稿を読み返した。『赤い薔薇は誰の手に』。そのタイトルが、まるで私を嘲笑っているかのようだった。その中に、彼の“愛した女性”について記された箇所があった。

「彼女は、私の孤独を理解し、私の狂気を許容してくれた唯一の存在だった。彼女の指先が触れるだけで、私の心は凍てつく氷から溶け出し、赤い薔薇が咲き誇るように温かくなった」

この描写は、紛れもなく私のことを指していると、私は確信した。彼が愛したのは、私なのだと。

しかし、読み進めるにつれて、私はある奇妙な事実に気づいた。この物語は、私が「私」として語っているはずなのに、時折、私の知らない「私」の行動や感情が描写されているのだ。それは、まるで、私ではない誰かの視点が、私の視点に巧妙に織り交ぜられているかのようだった。

「彼女は、彼の隣で、密かに微笑んでいた。その瞳には、隠された悲しみが宿っていた」

これは、私が微笑んだ時のことだろうか?しかし、私は、悲しみを隠していた記憶はない。私は、彼を殺そうとしていたのだから。

私は、この遺稿に仕掛けられた視点の錯誤という心理トリックに気づき始めた。私が「犯人」だと思っていた人物は、本当に「私」だったのか?この物語の「私」は、本当に現実の「私」なのだろうか?


3. 神堂の真意、そして愛の告白

私は、何度も何度も遺稿を読み返した。そして、最後のページに辿り着いた時、私は、背筋が凍るような真実に直面した。

そこには、彼の筆跡で、一枚の手紙が挟まれていた。

「沙耶へ。君がこの遺稿を手に取っているということは、私の計画は成功したということだろう。君は、いつも私を理解しようとしてくれた。君の愛は、私の孤独を癒してくれた。だが、私は、君を守りたかった。愛していたからこそ、あの人の名前は書かなかった」

私は、その手紙の意味を、すぐに理解した。彼が愛していたのは、私だった。そして、彼は、私を守るために、自らの死を偽装し、そして、私にこの罪を負わせることで、私を「犯人」と錯覚させていたのだ。私を「犯人」とすることで、真の犯人、あるいは彼の死の裏にある、より大きな陰謀から私を遠ざけようとしたのかもしれない。

この物語は、私が自分を犯人だと思い込むように仕向けられていた。彼の愛情が、私を心理的に操作していたのだ。

『赤い薔薇は誰の手に』。その赤い薔薇は、毒に染まった私ではなく、彼の愛の象徴だった。そして、その愛は、私を欺き、守ろうとした、彼の最期の告白だったのだ。

神堂先生は、消え去ったのではない。私を守るために、私の中から姿を消したのだ。その真意に気づいた瞬間、私の心には、深い悲しみと、そして、彼への途方もない愛が、同時に押し寄せた。彼は、私に、真の愛の姿を、ミステリーという形で教えてくれたのだ。

そして、手紙には、こう続く。

「愛していたからこそ、あの人の名前は書かなかった。だが、君は、この物語を最後まで読んだことで、その真実に気づくだろう。私の愛は、決して君を裏切らない」

彼の真意は、愛。私を愛していたからこそ、彼は自らの死を偽装し、私にこの遺稿を残したのだ。これは、彼の最期の、そして最大の愛の告白だった。




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