マイケル・ウォード 編
『神堂亘の最期の事件』
マイケル・ウォードは、差し出された原稿を前に、唾を飲み込んだ。その手触りは、かつてゴーストライターとして彼の作品を代筆していた頃の、あのざらついた紙の感触と酷似していた。神堂亘。俺は、先生の作品を裏側から知り尽くしている。だからこそ、今、目の前にある『神堂亘の最期の事件』というタイトルは、俺の胸に、拭い去れない悪寒を呼び起こした。アンソニー・ホロヴィッツ。先生は、俺に、メタ的な仕掛けと、読者を欺くトリックを仕込めというのか。久留米の、あの書斎の静寂の中で、先生は何を企んでいたのか。
原稿用紙からは、インクの匂いとともに、古びた屋敷の埃と、隠された秘密が混じり合ったような、陰鬱な空気が漂ってくる。まるで、その文字の一つ一つが、俺の過去と、そして先生の未来を暗示しているかのように。
1. 嵐の夜、孤立した屋敷、そして神堂亘
嵐の夜。雷鳴が轟き、豪雨が窓ガラスを激しく叩きつける。外界から完全に隔絶されたその屋敷は、かつての栄華を象徴するかのごとく、薄暗い照明の中で不気味な影を落としていた。そこに集められたのは、一癖も二癖もある面々。資産家の遺産を巡る相続人たち、そして、それぞれの思惑を秘めた使用人たちだ。まるで、往年の探偵小説の舞台装置が、そのまま目の前に現れたかのようだ。
その中に、あの男がいた。神堂亘。世界的に名高いミステリー作家。彼がなぜ、こんな場所にいるのか、最初は誰もが訝しんだ。だが、彼の冷静な眼差しと、場の空気を一瞬で掌握する存在感は、すぐに皆を納得させた。彼は、自らを「この事件の記録者」と名乗った。
事件は、夜半過ぎに起こった。屋敷の主人である老婦人が、書斎で死体となって発見されたのだ。胸元には、短剣が突き刺さり、床には赤い血溜まりが広がっている。完全に密閉された書斎。扉は内側から施錠され、窓も全て閉ざされている。完璧な、そして古典的な密室殺人。
「これは…小説の中だけの話ではない」
誰かがそう呟いた。まさにその通りだ。この状況は、神堂亘の作品に登場する事件そのものだった。だが、今回は、彼自身がそこにいる。彼は、この事件をどう記録し、どう解決するのか。
2. 探偵の思惑、崩壊するフィクション
神堂亘は、静かに書斎の中を歩き回る。鋭い眼差しは、微細な証拠も見逃さない。彼は、被害者の遺体を検分し、書斎の配置図を頭の中に描く。そして、集められた容疑者たち——遺産相続人の遠野まゆ、書斎を管理していた宇佐美純也、屋敷の警備責任者の野分尚人、そして、私、マイケル・ウォードを含む使用人たち——に、次々と質問を投げかけていく。
「さて、皆さんに問いたい。この密室で、彼女を殺すことができたのは、一体誰だとお考えか?」
彼の声は、まるで台本を読み上げているかのように抑揚がなく、しかし、その言葉一つ一つに、人を惹きつける魔力があった。彼は、一人一人の証言の矛盾を指摘し、彼らの隠された感情や動機を暴き出していく。その過程は、まるで彼が、我々一人一人の人生を、すでに書き終えているかのように見えた。
彼の推理は、あまりにも完璧だった。密室のトリック、毒物の摂取経路、アリバイの崩壊。全てが、論理的かつ鮮やかに解き明かされていく。だが、俺は、その完璧さに、ある種の違和感を覚えた。まるで、この探偵が、最初から結末を知っているかのように。
「これは…本当に神堂亘の書いた物語なのか?」
俺は、ふと、そんな疑問を抱いた。彼が、あまりにも事件に詳しすぎる。いや、詳しすぎるというよりは、この事件そのものが、彼のために用意された舞台なのではないか。彼が、探偵役として振る舞っているのではなく、彼自身が、この物語の作者であり、同時に登場人物なのではないか。
その瞬間、俺の目の前で、「フィクション」が壊れ始めた。物語の登場人物であるはずの俺が、物語の作者である神堂亘の「意図」を感じ取り始めたのだ。まるで、舞台の背景が、突然、崩れ落ちるように。あるいは、台本の文字が、突然、意味を持ち始めるように。
神堂亘は、容疑者の一人、キャロライン・モスに鋭い視線を向けた。 「あなたは、この事件を『記録』していた。しかし、あなたの記録は、一部、改ざんされているようだが?」 キャロラインは、顔色を変えた。その時、俺は、この物語に登場する他の弟子たちの名前が、犯人候補として巧妙に散りばめられていることに気づいた。遠野まゆ、宇佐美純也、野分尚人、そしてキャロライン・モス。彼らは、なぜこの物語に登場し、なぜ容疑者として名を連ねているのか。どこまでが小説で、どこからが現実なのか、その境界線が曖昧になっていく。
3. 真実の露呈、作者の最期
神堂亘は、全ての謎を解き明かした。犯人は、屋敷の使用人の一人。動機は、遺産相続にまつわる長年の確執だった。彼の推理は、寸分の狂いもなく、完璧だった。
「これで、事件は解決した」
彼は、そう言って、静かに微笑んだ。その笑みは、どこか寂しげで、しかし、深い達成感に満ちていた。
その瞬間、屋敷にいた全員が、一つの恐ろしい事実に気づいた。 神堂亘は、この事件の全ての真相を、最初から知っていたのだ。そして、彼は、この事件の結末で、自分自身が殺されることも、すでに知っていたのではないか。
嵐は、まだ激しく吹き荒れている。 彼の言葉が、俺の脳裏を駆け巡った。「物語は、作者が書き終えた瞬間に、終わりを告げるのではない。読者が、その物語の真実を掴んだ時に、初めて完成するのだ」。
その直後だった。 パチン、と、部屋の電灯が、一度だけ瞬いた。 そして、闇が訪れる。 俺は、そこで意識を失った。
……次に俺が目を覚ました時、そこは、久留米市の神堂邸の書斎だった。机の上には、真新しいインク壺と、使い古された万年筆。そして、七つの封筒。
俺は、神堂亘が遺した『神堂亘の最期の事件』というタイトルの遺稿を、もう一度見つめた。その最終ページには、血のようなインクで、たった一言だけ、こう記されていた。
『お前たちは、まだ、何も知らない』
これは、神堂亘という作家が仕掛けた、最期のトリックだった。俺たち弟子は、彼の遺稿を読み解くことで、まるで彼の死を追体験しているかのような錯覚に陥る。この小説は、神堂亘の失踪という現実と、巧妙に絡み合っていたのだ。
そして、この遺稿には、他の弟子の名前が犯人候補として登場している。遠野まゆ、宇佐美純也、野分尚人、キャロライン・モス、そして俺、マイケル・ウォード。俺たちは、この物語の中の犯人なのか。それとも、現実の犯人なのか。神堂亘は、どこまでが小説で、どこからが現実かの境界線を、曖昧にしたまま、消え去ったのだ。




