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野分 尚人 編

『高度一万メートルの完全犯罪』

野分尚人は、神堂亘の遺稿を手にした瞬間、その表題に冷厳な論理の響きを感じ取った。ディスプレイに映し出された遺稿のタイトルは、『高度一万メートルの完全犯罪』。彼の脳裏には、かつて神堂と激しく対立した夜の記憶が蘇る。あの時、神堂は「論理破綻」を巡る俺の指摘を、ただ嘲笑うかのように受け流した。だが、この遺稿は、その嘲笑が、ある種の試練であったことを物語っているかのようだ。神堂先生は、常に完璧な論理を求める男だった。この“空の上の密室”に、いかなる欺瞞が隠されているのか。俺は、その論理の綻びを、この目で確かめてやる。

遺稿からは、インクの匂いとともに、航空機の機内を思わせる、消毒液とわずかな燃料の混じったような、無機質な空気が漂ってくるようだった。まるで、高空の気圧変化が、指先に直接伝わってくるかのようだ。


1. 密閉された空間、計画された死

それは、東京発久留米行きの夜間フライトだった。機内は、深夜にもかかわらず、ビジネスマンや観光客でほぼ満席だ。俺は、客室乗務員として、いつものように冷静に業務をこなしていた。しかし、その夜のフライトは、日常のルーティンを打ち破る、非日常の事件の幕開けとなった。

深夜2時過ぎ、機体が安定飛行に入って間もない頃。ビジネスクラスの最前列に座っていた、著名なIT企業のCEO、たちばなが、突然苦しみ始めた。隣の乗客が異変に気づき、すぐに客室乗務員が駆けつける。しかし、橘は顔色をみるみるうちに蒼白に変え、口から泡を吹いて、数分と経たずに息絶えた。彼の瞳は、虚空を見つめたまま、凍り付いていた。

機内は、瞬時にしてパニックに陥った。まさか、この高度一万メートルの密閉された空間で、殺人事件が起こるなど、誰が想像しただろうか。遺体の検死結果は、青酸カリによる毒殺。しかし、橘は機内で一切飲食物を口にしていないと証言する者ばかりだった。そして、彼の周りの乗客や客室乗務員にも、不審な行動は見られない。

フライト中の航空機内は、まさに動く密室だ。気圧、酸素濃度、機体の振動。全てが厳密に管理された空間。この中で、いかにして毒が盛られたのか?そして、犯人は、一体どうやって毒物を持ち込み、誰にも気づかれずに実行したのか?すべての論理が、ここで破綻しているかのように見えた。


2. 錯綜するログ、時間の欺瞞

着陸後、警察が乗り込んできた。捜査は、すぐに難航した。電子機器のログ、フライトレコーダーのデータ、客室乗務員たちの証言、乗客たちの証言——すべてが錯綜し、矛盾をはらんでいた。

「被害者は、食事も飲み物も一切口にしていません。毒を摂取した形跡がありません」

捜査官の一人が、困惑した顔でそう言った。しかし、毒殺であることは間違いない。これは、物理的な侵入経路のない密室と同じくらい、あるいはそれ以上に不可能に近い状況だ。

俺は、頭の中で全ての情報を整理した。航空機内という特殊な環境。気圧の変化が人体に及ぼす影響。搭乗時間と、それぞれの乗客が過ごした時間の差異。そして、電子機器のログが示す、僅かなズレ。

客室乗務員の同僚である先輩が、神経質そうに指を組みながら言った。 「そういえば、離陸直後、橘CEOの席の真後ろに座っていた乗客が、気分が悪いと言って、一度お手洗いに行ったんです。でも、すぐに戻ってきましたけど…」 その乗客は、無口で目立たない男だった。

フライトレコーダーのデータは、機体の揺れや高度の変化を正確に記録している。しかし、その中に、ごくわずかな、まるでノイズのような「時間的な歪み」があることに気づいた。それは、人間の目には気づかないほどの、しかし、精密機械であれば検出できるレベルのズレだった。

「殺人は空の上で起きたが、計画は地上で完了していた」という神堂先生の言葉が、俺の脳裏を駆け巡った。それは、この事件の真実を暗示しているかのようだった。犯人は、地上で全ての準備を整え、空の上で、その計画を完璧に実行したのだ。だが、どのように?この時間的なズレが、何を意味するのか。


3. 論理の再構築、そして完璧な計画

俺は、あらゆる可能性を排除し、一つずつ論理を積み重ねていった。毒物の摂取方法。密室性。そして、犯行の時間軸。

「フライト中に、誰も橘CEOに近づいていない。だが、機内には、見えない『時間差』が存在する」

俺は、そう結論付けた。この事件の鍵は、物理的な接触ではない。それは、毒物が体内で効果を発揮するまでの「時間差」と、航空機内の「気圧変化」を利用した、極めて高度なトリックに違いない。

仮説を立て、検証する。 1.毒物は、地上で何らかの形で摂取されたが、即効性のないものだった。 2.航空機内の気圧の変化が、その毒物の効果発揮を促進させた。 3.あるいは、特定のタイミングで摂取されるよう、巧妙な仕掛けが施されていた。

「地上での準備…」

俺は、橘CEOが搭乗前に立ち寄った場所、接触した人物、そして彼が最後に口にしたものについて、再調査を要求した。フライトレコーダーの僅かな時間的なズレは、機内で何らかの「操作」が行われたことを示唆しているのではないか?あるいは、それは、毒物の効果が発現するタイミングを測るための、犯人にとっての「合図」だったのか?

全てのピースが、ゆっくりと組み合わさっていく。まるで、複雑な機械の歯車が、正確なリズムで動き始めるかのように。この事件は、人間の行動だけでなく、科学的な要素と時間の概念が、完璧に融合した「完全犯罪」だ。

そして、俺は気づいた。この遺稿は、単なるミステリーではない。それは、神堂先生が、俺に問いかけているのだ。「お前の論理は、この不完全な世界で、どこまで通用するのか」と。彼の言葉の深淵に、俺はまだたどり着いていない。しかし、この『高度一万メートルの完全犯罪』は、神堂亘という作家の、恐るべき思考の一端を垣間見せてくれた。それは、完璧な論理の先に広がる、美しくも冷酷な犯罪計画の、まさに設計図だった。



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