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遠野 まゆ 編

『黒板の裏の殺人』

 遠野まゆは、差し出された原稿用紙を恐る恐る開いた。そこには、神堂先生らしい端正な文字で、彼女が最も愛するジャンル——学園本格ミステリーが綴られていた。タイトルは『黒板の裏の殺人』。その瞬間、彼女の脳裏に、先生の言葉が蘇った。「密室に必要なのは、物理よりも心理だ」。あの時、先生はどこか楽しそうに、けれど真剣な眼差しでそう言った。まるで、これから解き明かす謎の奥底に、人の心の澱みが潜んでいるとでも言うかのように。

 原稿から立ち上るインクの匂いは、どこか懐かしかった。まるで、放課後の部室に漂う埃っぽい空気と、夢を語り合う熱気がないまぜになったような。ページをめくるたび、目の前に広がるのは、まさに青春の舞台だ。

 1. 夏合宿の始まり、そして不協和音

 ジリジリと肌を焼く夏の陽射しが、久留米市外れの廃校になった高校の窓ガラスを照りつけていた。演劇部の夏合宿。本来なら笑い声と熱気で満ちるはずの旧音楽室は、どこか重苦しい空気に包まれている。部長の神崎ハルトは、いつものように白いシャツをまくり上げ、額に汗を滲ませながら台本を睨んでいた。彼の隣には、いつも飄々とした天才肌の演出家、佐倉シンが座っている。いや、座っていたはずだった。

「佐倉、またサボりかよ!」

 神崎の怒声が、静まり返った音楽室に響き渡った。佐倉は練習の途中で姿を消したのだ。いつものことだ、と皆は諦め顔だった。しかし、今回は違った。佐倉の姿は、合宿所にある部室棟のどこにも見当たらなかったのだ。

 まゆは、いつも通り明るく振る舞っていた。けれど、内心は穏やかではなかった。佐倉と神崎の間には、最近、微妙な溝が生まれていた。脚本の解釈を巡っての衝突、演技指導を巡る意見の相違。まるで、舞台の裏側で繰り広げられる、もう一つの劇を見ているかのようだった。

「なあ、遠野さ」

 隣に座る小柄な照明係、森下ヒカルが声を潜めた。彼女はいつも、まゆの影のようについて回る、控えめな後輩だ。

「佐倉先輩、最近変じゃない?なんか、いつもと違う感じがして…」

 ヒカルの言葉に、まゆはハッとした。確かに。佐倉の表情には、以前にはなかった苛立ちや、焦りの色が浮かぶことが増えていた。まるで、何かから逃れるように。あるいは、何かを隠すように。

 その日の夜、夕食後。雷鳴が轟き、激しい雨が降り出した。まるで、何かが起こる前触れのように。部員たちはそれぞれの部屋に戻り、まゆは一人、古い部室棟の自販機まで飲み物を買いに来ていた。廊下は薄暗く、誰もいない。その時、部室の方から、微かに話し声が聞こえた。

「…頼むから、俺のやり方を尊重してくれ…!」

 神崎の声だ。

「無理だよ。君には、”そこ”が見えてないんだ」

 そして、佐倉の声。いつもと違う、張り詰めた声。彼らは、また言い争っているのだろうか。まゆは、これ以上立ち聞きするのは良くないと思い、足早にその場を後にした。その時、彼女の足元に、何かが落ちていることに気づいた。それは、佐倉がいつも首から下げている、古い真鍮製の懐中時計だった。

 2. 密室の演劇、そして舞台裏の死

 翌朝、雨は止んでいたが、空は厚い鉛色の雲に覆われ、湿った空気が肌にまとわりつく。まゆたちが音楽室に集まると、そこに佐倉の姿はなかった。 「またかよ、佐倉!」 神崎が苛立ちを募らせる中、部員の一人が悲鳴を上げた。 「佐倉先輩が…!部室で…!」

 全員が部室へ駆けつけた。扉は内側から鍵がかかり、窓も全て施錠されている。完全に閉ざされた空間。その密室の中で、佐倉シンは、胸元をナイフで刺され、息絶えていた。彼の顔は、まるで最期の演劇を終えた役者のように、静かで、そしてどこか満足げな笑みを浮かべているようだった。血の匂いが、部室に充満し、部員たちの動揺は頂点に達する。床には、血の赤が花びらのように散り、その光景は、あまりにも劇的で、現実味がなかった。

 警察が到着し、捜査が始まった。部室は完全に密室。侵入経路は見当たらない。これは、不可能犯罪だ。刑事たちは頭を抱えた。しかし、まゆは知っていた。神堂先生なら、この密室を解き明かすだろう。なぜなら、「密室に必要なのは、物理よりも心理だ」と、先生は言っていたのだから。

 まゆは部室の中を冷静に見渡した。部室の隅には、次の演劇で使うらしい大道具の数々が積み重ねられている。埃を被った古い黒板は、裏側が壁にぴったりとくっついていた。そして、佐倉の遺体の傍らには、彼の真鍮製の懐中時計が、止まったまま落ちていた。

「どうして…佐倉先輩が、こんな…」

 ヒカルが震える声で呟いた。彼女の瞳には、恐怖と混乱の色が深く刻まれている。 「佐倉先輩、昨日、変なこと言ってたんです…」 ヒカルは、消え入りそうな声で、まゆに告げた。「僕が消えたら、全部、黒板の裏を見てくれって…」

 黒板の裏。開かずの黒板裏。そして、昨日まゆが拾った懐中時計。点と点が、かすかに繋がるような予感がした。この密室には、物理的なトリックだけでなく、きっと佐倉の、そして誰かの“心理”が深く関わっているに違いない。

 3. 軽やかな推理、そして忍び寄る影

 刑事たちの捜査が続く中、まゆは独自に調査を始めた。部員たちへの聞き込み、部室の再検証。彼女は、神堂先生の教えを胸に、論理の糸を紡いでいく。

「なあ、昨日の夜さ、誰か部室の前にいたやついた?」

 まゆは、軽い口調で部員たちに問いかけた。まるで、他愛もない雑談のように。しかし、その瞳の奥には、鋭い光が宿っていた。

「あー、いたかも。夜中に目が覚めて、トイレ行こうとしたら、なんか音楽室の方から、変な音がしたような…」

 食いしん坊の美術担当、吉田タケルがそう答えた。 「変な音って?」 「なんか、カチカチって。目覚まし時計みたいな音だったような…」

 その瞬間、まゆの頭の中で、全てのピースがカチリとはまった気がした。神崎の怒声、佐倉の張り詰めた声、ヒカルの証言、そして吉田の「目覚まし時計のような音」。そして、あの開かずの黒板裏。

「ねぇ、みんな。佐倉先輩が死んだのは、本当に今朝だと思ってる?」

 まゆの問いかけに、部員たちは顔を見合わせた。 「え、だって、さっき…」 「でもさ、もし、死んでいたのが、もっと前の時間だったら?」

 その言葉は、波紋のように広がり、部員たちの表情から、明るい青春の色がゆっくりと薄れていく。代わりに浮かび上がったのは、疑念と、そして恐怖の色。この密室トリックの裏には、誰かの意図的な「時間操作」が隠されている。そして、その背後には、佐倉と、そして犯人の“心理”が深く絡み合っているのだ。

 まゆは、部室の壁に立てかけられた大道具の一つ、古びた舞台用の木の扉を見つめた。その扉の裏側には、何かを隠すかのように、僅かな血痕が付着していた。そして、その血痕の先には、チョークで走り書きされた、小さな文字があった。

『見えないものが、見えるものを殺す』

 その言葉は、まるで神堂先生からの最後のメッセージのように、まゆの心に深く刻み込まれた。この事件は、単なる物理トリックではない。それは、人の心の闇が織りなす、複雑な心理劇なのだ。そして、その闇は、まゆ自身の心にも、小さな影を落とし始めていた。



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