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プロローグ

 風は、かつての神堂亘の筆致のように静かで、それでいてどこか冷たく、書斎の窓を叩いていた 。それは、世界的に名高いミステリー作家、神堂亘がこの世から消え去ってから三週間目のことだった 。彼の失踪は、最初、警察によって「事件性なし」と判断された 。ただの、天才作家の気まぐれな失踪。そう、誰もが鷹を括っていた 。だが、その静寂の裏には、まるで古びた書物のページをめくるかのような、深淵な謎が隠されていた 。書斎には、微かに墨と古書の匂いが混じり合い、遠くで古時計が規則的なリズムを刻んでいるのが聞こえた。

 神堂邸は、久留米市の中心部から少し離れた、緑豊かな高台にあった 。その煉瓦造りの建物は、まるで彼が紡ぎ出す物語の世界そのものが具現化したかのようだ 。沈黙の中、玄関の扉がゆっくりと開かれる。招かれたのは、かつて神堂の薫陶を受けた七人の弟子たち 。彼らは、それぞれの胸に異なる思惑を抱きながら、恩師の書斎へと足を踏み入れた 。

 書斎は、時間の流れが止まったかのような空気に包まれていた 。磨かれた木製の机の上には、真新しいインク壺が置かれ、使い古された万年筆が静かに横たわっている 。そして、その筆記具の隣には、七つの封筒が、まるで何かを語りかけるかのように並べられていた 。封筒には、それぞれの弟子の名前が、神堂の端正な筆跡で記されている 。

 遠野まゆは、白いブラウスの袖をわずかにまくり上げ、不安げな視線を書斎の奥に向けていた 。彼女の視線の先には、学生時代、神堂に初めて褒められた時に贈られた、使い古された万年筆が転がっていた。「あのトリックは、君だけのものだ」——その言葉が、今も耳に残っている。しかし、過去の盗作疑惑が、彼女の心に拭えない影を落としていた。

 彼女の隣に立つ宇佐美純也は、どこか諦めたような表情で、壁一面に並べられた書棚を眺めている 。彼の胸には、「才能が足りない」と神堂に突きつけられた、あの辛辣な一言が刻み込まれていた。書棚に並ぶ神堂のホラー小説の背表紙が、まるで嘲笑うかのように彼に迫る。

 野分尚人は腕を組み、その鋭い眼差しは、空間のわずかな歪みさえ見逃すまいとしているかのようだ 。彼の脳裏には、神堂と「論理破綻」を巡って激しく対立した夜の記憶が蘇る。あの時、神堂はただ笑っていた。その嘲笑にも似た笑顔が、彼の胸の内をざわつかせた。

 キャロライン・モスは、スマートフォンを握りしめ、何かを記録しようとしているのか、指先が微かに震えていた 。彼女の視線の先には、神堂がいつも使っていた、旧式のタイプライターがあった。SNSで常に承認を求めていた彼女にとって、神堂は唯一、虚飾を剥ぎ取ってくれた存在。しかし、その厳しさが、時として彼女を追い詰めることもあった。

 マイケル・ウォードは、その表情から感情を読み取ることはできないが、彼の瞳の奥には、燃え盛る炎のようなものが宿っているのが見て取れた 。彼は書斎の片隅に置かれた、自身のゴーストライター時代の原稿用紙の束を睨みつける。失脚した今、神堂への恨みは、彼の中のマグマのように煮えたぎっていた。

 そして、藤咲沙耶は、まるで深い悲しみに包まれているかのように、ただ静かに佇んでいた 。彼女の目は、神堂が愛用していた、赤い装丁の詩集に向けられていた。それは、かつて彼女が「先生が好きそうな本ですね」と贈ったものだった。恋慕と、そして彼の安否への募る不安が、彼女の心を締め付けていた。

 彼らの背後には、この「事件」の行く末を見守るかのように、二人の人物が立っていた 。一人は、神堂の長年の担当編集者である牧村 。もう一人は、小説コンテストの審査員として、文学界の巨匠たちと肩を並べる重鎮、佐伯だった 。

「これらは、先生が遺された『未完の遺稿』です」

 牧村の声が、静寂を切り裂いた 。その声には、悲しみと、そして何かを確信しているかのような響きが混じっていた 。

「そして、それぞれ、あなた方一人ひとりに宛てられたものです」

 弟子たちは、それぞれ自分の名前が書かれた封筒を手に取った 。紙の微かなざらつきが、彼らの指先に神堂の最後の息吹を伝えているかのようだ 。封を開けるのを躊躇する者、ためらいなく開く者、その反応は様々だった 。不可解な沈黙が場を支配する。

 佐伯は、その光景を静かに見つめていた 。彼の脳裏には、ある確信が芽生えていた 。「この七通は…」 彼はゆっくりと、だがはっきりと口を開いた 。「パズルのピースだ。この七通を繋ぎ合わせれば、神堂先生の失踪の、いや、殺人事件の真相が、おのずと見えてくるはずだ」

 その言葉は、書斎に集まった者たちの心に、冷たい刃のように突き刺さった 。殺人事件。その重い響きが、彼らの間に新たな疑念の波紋を広げていく 。それぞれの遺稿が持つ意味、そして、それぞれの弟子が抱える秘密が、まるで月の光に照らされた水面のように、ゆっくりとその姿を現し始める予感がした 。神堂亘が残した七つの「未完の遺稿」。それは、消えた作家からの、読者への挑戦状だった 。


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