第四齢「火酒の導火」
旧都アイビス 街区
「うっ……くっ……」
倒れていた男が目覚める。縦に突き刺さった茎を視界に入れて、男はふらつきながらも立ち上がる。
「なんだ、ここは……」
男は掠れた視界で眺め、街区の道路から壁面まで、びっしりと黒い炎を灯した白百合に覆われていることに気付く。
「街区には……着いたか……」
右手で顔に触れてから、生唾を飲み込んで周囲を確認する。
「フレス……」
だが人の姿は無く、深く溜息をついて捜索を終える。
「家……」
男は断片的な言葉を発して、白百合の花畑の中を進んでいく。花弁が揺れるたびに火の粉が舞い、頭が痛くなるような深紅の中に昏く淀んだ空気を流す。今までより更に朧気な足取りで、だが目的地は最初から決まっているとばかりに真っ直ぐ進んでいると、どこからともなく先程の魔女風の少女が現れて、男の手を取る。
「ふふふ……えへえへ……」
少女は妙に上機嫌に、男が握り返した手の中で、もぞもぞと自分の手を動かして、男の手首を長く手入れされた爪でカリカリと削る。執拗に削られた皮膚がやがて剥がれ、出血を引き起こす。ドクドクと脈打って、二人分の手汗を飲み込みながら白百合に落ちていき、よりどす黒い炎が花弁を包み込む。
「……」
男は驚くでも痛がるでもなく、二人の手が繋がれた、そこだけを見つめている。少女は男の様子を見てこの上なく嬉しそうに微笑み、開いた傷口に爪を突き刺す。深く抉り込まれたにも関わらず、なおも男は不思議な表情で、ともすれば呆けているように眺め、促されるままに歩く。爪を引き抜くと同時に男が躓いて倒れ、手を離して両膝立ちになり、廃人にも見える、口をあんぐりと開けて生気の籠もっていない目で虚空を見上げる。いつの間にか舞い上がっていた黒く燃える花弁が視界に移り、少女は男の左耳へ囁く。
「大好きだよ、お兄ちゃん」
甘ったるく、媚びているのを隠そうともしない声色にも特段の反応を示さず、男は惹かれるように右手を伸ばして、掌に花弁を迎え入れる。男が頭を下げて花弁を見つめ、そこへ不意に少女が耳へ舌を捩じ込んでくる。耳奥まで刮ぎ取るように舐め回しながら、男は脳が犯されるように感じつつも、花弁から視線を逸らそうとはしない。
「ふへへ……」
少女は舌を引き抜いて、そのまま男の正面に立ち、出したままの舌先から唾液を垂らし、花弁を消火する。
「家に帰ろっか、お兄ちゃん」
「ああ……」
男が言葉を取り戻し、頭を上げると、少女の姿はどこにも無かった。手首の傷も治っており、花弁も、唾液も、その痕跡も。再び立ち上がり、正面を改めて認識すると、それは見慣れた一般邸宅だった。
「俺の……家……」