呪われたもの
夜闇を統べるものを中心とした祭儀、冬至の儀式は、一年の中で最も日が短くなる日の前後三日間を加えた一週間かけて行われる。とはいえ、本当に一週間かかるのは十二年に一度の大祭の時だけで、それ以外の年は前後含めて三日間に簡略化されている。
今年は大祭の年ではない。そして実のところ、中心となる冬至の日の儀式以外は神官が中心となって行うことなので死者の王は特にやることもないのだった。まあ大体供物を味わいながら玉座で待っているだけである。
彼は冥界の管理者であり、死者の冥界行を見守る神である。死者の全てが冥界に招かれ、最奥の支配者への謁見を迎え、次の生への輪廻を求めることになる。勿論儀式の日以外でも死者の魂は特別の理由がなければ冥界に落ちる。
冬至の儀式が特別なのは、この日の死者、選ばれた生贄は儀式の終わりに転生を迎えぬまま地上へ帰ってくるからだ。冥界行を終えて地上へ戻ってきた魂が、次の春の種を持ち帰る。これはそういう儀式である。
まあ冥界行が一日で完遂できるはずもなく、戻ってくるのは前年に出発した魂、生贄にとっては一年かけて冥界を巡ってくる儀式であるのだが。勿論、帰ってきた魂が生き返るというわけではなく、種を地上に届けた後には祝福を受けて輪廻に載せられることになる。
本来…というか、古くは、冥界の支配者とは彼とは別の神格であったのだが、今それは冥界と同化し冥界の機構も同然の存在となっている。元が彼より上位の神であるため、それに逆らうことは難しい。だから彼は藍月を今は神殿に入れないことを選んだ。彼が目を留めるものが、彼より純度の高い冥界の意志に目を付けられないわけがないので。まあ目を付けられたら直接何かするほどの現世干渉力はないが、神官にそれを生贄にしろという神託は下すだろう。そうなると色々と面倒なことになる。
冥界行は己の生、行業に向き合う旅だ。良くも悪くもその者の生前に成したことが道行きに影響する。ありていに言えば、無垢なものほど道は易しく、善きものほど邪魔する者はなく助け手が差し伸べられる。もっとも速く最奥までたどり着けるのは生まれたばかりの赤子である。ただし、奥から地上への道は強い帰還の意思がなければ踏破できない難行になる。
故に、冬至の儀式で冥界行に挑む生贄はそのために育てられた人間である。一年で踏破してこられるだけの無垢さ、必要な助けを得られる善良さ、そして困難な帰路をも踏破できる意志の力が必要なのだ。それが自然と備わることは稀である。普通の人間はそんなに純粋ではいられない。
藍月はきっと一年での冥界行を成せる魂を持っているだろう。冥界の主はそのような魂を歓迎する。冥界から逃げることは許さないし、そこから何か持ち出そうとすればそれを拒んで妨害するけども、それが世界が滞りなく続いていくために必要であることもわかっている。儀式は人間による神の偉業の模倣だ。成せる人間がいなくなれば世界は滅びる。
藍月がもっと人間に堕ちていけばいいと彼は思う。猿の純粋さは社会にもまれるまでの期間限定のものだ。一年では冥界行を終えられないくらい、世界を知ってからの冥界行であれば、その道行きを彼がゆっくり見守って、言葉を交わしたりちょっかいをかけたりすることもできるので。儀式の参加者のものではない冥界行にタイムリミットはないのだから。
「…畏れながら偉大なるヨワルテディア。ご気分のよろしくないご様子ですが、何か不手際がございましたか?」
「…いや。お前たちに非はない。俺が勝手に不機嫌になっただけだ。ヨワルテディアはお前たちを咎めるつもりはない」
彼は溜息をついて目を閉じる。
儀式における夜闇を統べるものの役目は生贄の首を刎ねて冥界に落とすことと、冥界行を終えた魂を祝福し輪廻にのせることである。地上に還った死者は大罪人であるため冥界に留まらせておくことはできない。
だから、もし藍月が生贄に選ばれることにでもなれば、彼は自らの手で藍月を手放さなければならないことになるのだ。それは神としてどうしても我慢ならないことだ。
「…我欲というのは、誠に度し難いものだ」
神の我欲など本当に厄ネタにしかならない。この世界が何度も滅びては再生してきたのは、いつだって神の我欲がきっかけだったのだから。