祝福されたもの
「クカルコトラリ、頼みがある」
苦虫を何匹も噛み潰したような顔をして神殿に現れた男を見て、クカルコトラリ、翡翠の風はきょとりと目を瞬いた。
「珍しいですね、親愛なるヨワルテディア。私に頼み、だなんて。どういう風の吹き回しですか?まあ風は私なのですが」
そういってからりと笑う翡翠の風に死者の王は増々渋い顔をした。
「俺も頼まずに済むなら頼みたくないが、お前に頼むのが一番良さそうだからな」
「それはそちらのおチビさんのことですか?」
翡翠の風は死者の王の片翼に抱えられた子供に目をやる。といっても翡翠の風の本性は美しいエメラルド色の羽翼を生やした巨大な蛇なので、大抵の人間は"小さい"のだが。大体大きく口を開ければ大人一人丸呑みにできる大きさがあり、神殿の中は大きく空間を開けられたピラミッド状にも関わらず中でとぐろを巻くとその空間の大半を蛇体が占めることになる、まあその気になれば躯の大きさを"加減"できるし、出かける時は人型を取っているのだが。
「…ああ。儀式の間ここで預かってほしい」
「もしかして、ヨワルテディア。私の神殿のことを託児所だと思ってたりします?違いますからね。確かに私は子供とか小さな生き物が好きですけど」
翡翠の風の神殿は内部を子供の遊び場として解放されている。上部の儀式の間は神官以外の立ち入りを禁じているが、それ以外では子供たちが球技をしていたり水遊びをしたり転寝をしたりしていても咎められない。なんなら祭神である翡翠の風が尾の先で遊んでやったりする。そういう場所である。
「違うのか?」
「違いますよ。私は託ってはいません。場を解放しているだけです」
そうは言っても、翡翠の風も死者の王の頼みを断ろうとまでは思っていない。子供は好きだし、悪さをするような子には見えないので。何故預ける必要があるのかは気になるが。
「儀式というのは当然、明日の、あなたが主役のアレですよね?あなたの神殿の控えの間にでも大人しくさせておくのはダメなのですか?」
「駄目だ。生贄になる」
「これだから供物に命を求める神は…」
その点、翡翠の風が供物として求めるのは主にトウモロコシである。動物系を受け付けないわけではないが。ちなみに受け付けないのは酒である。過去にやらかしたことがあるので禁酒している。
「ヨワルテディアは冥界の神だからな」
「それはそうですが。…まあ、預かること自体はいいですよ。面倒見てあげられるかはわかりませんが。あなたの名前は何というのです?おチビさん」
「藍月は藍月。ひまつぶしのご本と、おやつのクッキーは持ってきたの。ひなたぼっこしながらのんびりしてるの」
「ランゲツ。異国の響きですね。いえ、見目からしても異国の猿に見えますが。何処から連れてきたんです?ヨワルテディア」
「極東だ」
「ああ、条件が揃えば人が神になることすらあるという魔境の…よく無事でしたね?」
「あそこは、要はどう認識されているかだからな」
死者の王は藍月に気を付けるべきことを伝え、完全にコウモリに姿を変えた。
「では、儀式が終わったら迎えに来る」
「いってらっしゃい、夜さま」
コウモリの羽がかすめるように藍月の頭を撫で、高速で飛び出していった。それを見送って、藍月は翡翠の風を見上げる。本来蛇には瞼がないので、表情に乏しいのだが、翡翠の風は飛行能力を持って必要になったのか瞼がある。ほとんど瞬膜に近いが。
「ではランゲツ。神殿内は私が見える場所であれば自由に行って大丈夫ですよ。外側の階段を上った先だけは立ち入り禁止ですが」
「じゃあ、ポカポカしてそうなところに行く」
「では熱中症に気を付けてくださいね。この国と極東では結構気候が違うでしょうから」
なにしろ、この神殿は熱帯雨林の中に築かれている。日中はかなり暑くなる。対して、極東はおよそ温帯に分類されている。暑いの種類もレベルも違うのだ。
「暑いの?」
「直射日光は避ける方が賢明でしょうね」
藍月は少し悩むようなそぶりを見せた。体験したことがないのでうまくイメージできないのだろう。
「ずっと日に当たっているのはよくないというだけですから、完全に日を避けねばならないわけではないですよ」
「うん…」
頷いた後、藍月はふっと首を傾げる。
「翠さまは暑くならないの?」
神殿は中に日差しが差し込む構造になっていて、特に中央は下まで光が届くようになっている。翡翠の風の蛇体も、大体日が差せば光を浴びるところにあった。
「私も暑い時は暑いですよ。そういう時は躯を縮めて水で涼むんです」
主に神殿下層に、近くの川から取り込んだ水が流れる水場が作られている。人間から見ればちょっとした溜池のようなものだ。翡翠の風からすれば水浴びできるかな、くらいの大きさだが。
「水」
「あなたは止めた方がいいですかね?泳ぎが達者でなければ。猿の子は簡単に死にますからね」
「藍月は泳ぐの、あまり得意じゃない…」