神のうつわ
夜視点の契約時
何に惹かれたものやら。或いはそれは、天命や信託だったのだかもしれなかった。
「流石に寝すぎたか」
眠り続けて強張った躯をほぐし、伸びをする。空気のにおいが嗅ぎ慣れた街のものと異なっており、彼に己が異国にいることを認識させる。以前漂泊した地ともまた異なる、見知らぬ土地。遠くへきてしまったのだろう。空腹を覚えていた。ここまで無断乗船していた貨物船を見る。異国と異国を繋いで積み荷のやり取りをする商売船だ。ちなみに彼を信仰する民のものではない。けれど、いずれかの吸血鬼の庇護下にあるらしく、さもただのコウモリのようなふりをしていた彼を無理に追い払いはしなかった。
何か空腹を満たすものを探すか、と彼は翼を広げる。流石に無断乗船の上に積み荷や乗員に手を出すというのは、敵対者でもないのにするのはどうかと思うので。
風に乗ってのんびり滑空していると、ふっと彼は香しい血の匂いに気付いた。チスイコウモリとしての本能に任せて匂いを辿っていくと、彼の故郷のものとは別だが、神への祭壇を見つけた。まさに儀式をしていたのか、床には血で紋様が描かれ、まさに首を掻き切られたばかりらしい生贄が仰向けに倒れていた。彼の嗅ぎつけた血の匂いはそれに由来するものらしい。そして刃物をもつ男ととりあえず大人らしい人影が幾つか、祭壇上に立っている。この地の神が怒っているらしいピリピリした空気を感じながら、彼はそこに静かに降り立った。
「香しい匂いがするかと思えば、随分なことをしている」
捧げた血を受ける器もなく撒き散らすなど、勿体ないにもほどがある。人の形を取ろうとすれば圧力を感じたのですぐ立ち退けるよう翼は生やしたままにした。男たちは彼の存在の持つ威圧に耐えられなかったのか、或いは彼という神の代弁者が祭壇に立ったことでこの地の神の怒りを感じ取れるようになったのか、重圧に押しつぶされるよう床に伏していた。その中で生贄の子供だけはそのような威圧を感じないかのようにじいっと彼を見て、唇を震わせた。たすけて、とそう動いたようだった。
重圧の中で必死に己がこのような行動に至った理由を話し、助力を請う男を無視し、彼は子供に問う。
「お前は、俺の糧になるか?」
子供が頷いたので、彼は子供の首の傷口に口を付けて喉を潤した。匂いの香しさに違わぬ、美味しい血だった。この場で飲み干してしまうのは惜しいと思うほどに。だから、死んでしまわないように傷を塞いだ。
「お前の血は俺の舌に合う。一度で飲み干すには惜しい。…それにその目も気に入った。お前が変わらずその目で俺を見て、血を捧げるのであれば、守ってやろう。助けてやろう。さて、どうする?お前はこの慈悲深き夜闇の化身と契りを結ぶか?」
子供の目に恐怖の色は一切ない。ただひたすらに無垢に彼を見上げている。それが薄く歓喜の色を帯びた。
「…藍月は、それを受け容れる」
「ならば契約成立だ。これから、お前は俺のものだ」
そう言って子供を抱き上げると、この地の神の怒りが彼にも向けられた。どうやらこの子供は神の気に入りであるらしかった。己の気に入ったものを自ら守ることもできないような神のことなど、彼の知ったことではないが。
そのあたりでやっと自分たちが彼に無視されていたことに気付いたのか、あるいは神の注意がそれて多少なりとも威圧が弱まったのか、男たちが身を起こして彼らを見る。
「このヒトはパパの望んだ悪魔じゃないよ」
初歩的な誤りを正すように子供は言う。その通りである。そして彼は自らの血は流さないものは救わない神だ。男たちに手を貸す理由はなかった。
「俺を悪魔と間違うとは…異国の地とはいえ、本質もわからぬ無知蒙昧の徒らしい。そもそも、現役の神の祭壇に悪魔が降りるわけもなかろうよ」
男たちはぽかんとしていたが子供にいい加減なことを言うなと喚きだした。それを見て彼は自分の言葉が男たちに伝わっていないことに気付いた。言語体系が違う上に信仰心もないので理解できないらしい。そんな中で、ふっと子供が笑いだした。
「…うふふ。はは、きゃははははは。あーおかしい。馬鹿だとは思ってたけど、これほどとは。俺本当にアンタと同じ血ぃ引いてるの?マジで?」
面食らった男に、子供は嘲るように言う。
「神を信じられないくせに、悪魔ならいて助けてくれると思うの?何で?」
キラキラと輝く瞳が愉悦に歪んでいる。それは思わず見惚れるほどに美しく、そして悍ましかった。
「藍月は望まないだろうけど、俺は望むよ、神さま!この家にいるやつ皆、死んじゃえばいい!」
「…ならば、供物代わりに受け取ろう。俺が全て飲み干そう。お前のその怒りごと、この屋敷にいる猿ども全ての血潮を」
事情はわからないが、きっと彼はその為に此処に呼び寄せられたのだろうと思った。