見るものが決めること
死者の王が再び翡翠の風の神殿に現れたのは冬至の翌日の夕方になった頃だった。神殿上部の採光部からコウモリの姿で降りてきて、話をしていた翡翠の風と藍月の前に人型をとって着地する。
「夜さま、おかえりなさい!」
ぱ、と笑みを浮かべる藍月に、ふっと表情を緩め、彼は腕を開く。
「…ああ、藍」
藍月が歩み寄ると抱き上げ。鼻先に口付けた。
「夜さま?」
「…良い匂いがするな」
「?」
確かめるように匂いを嗅いで、ふっと眉をしかめて目を細めた。そして、藍月の肩口に噛みついた。鋭い牙のような歯が服を貫通して柔らかな肉に突き刺さり、切り裂く。
「ぎっ」
「ヨワルテディア?!」
近づこうとした翡翠の風(人型)を翼で跳ねのけ、血に酔ったような顔で傷口から漏れだした血を舐めている。多分正気ではない。翡翠の風はキッと死者の王を睨みつけ、言う。
「ヨワルテディア、私の神殿で何おっぱじめてるんですか!!」
翡翠の風(本体)の尾が思い切り死者の王の背をどついた。死角からの奇襲に、彼も流石に衝撃で吹っ飛ばされ壁にぶつかったが、翼をクッションにして彼も藍月も無事だった。しかし正気付けにはなったらしく、しっかりした目で翡翠の風を見る。
「何をする」
「こっちの台詞ですが?何ですか突然。あなたにとって血は嗜好品のはずでしょう?そういうのは帰ってからやってください」
「は?」
眉をしかめ、ついで自分の口が血に汚れていること、それが藍月の血であること、そして藍月が自分の腕の中で痛みと混乱に泣いていることに気付いた。慌てて傷を塞ぎ、涙を舐めとる。
「…藍、すまない。少し我を失っていた」
「夜さま…服、やぶれちゃった」
「…そうだな」
「TPOは守ってくださいよね、まったく」
「…そう、だな」
彼は自分の頭を押さえる。
「俺は器を保つために血が必要というわけではないのだが」
死者の王としてはともかく、夜闇を統べるものとして血を受け取るのは、その血を通じて人間と冥界の縁を繋ぐためである。夜闇を統べるものに血を捧げることで、その人間は死後迷う事なく冥界へと招かれることになる。それが血を通じて行われるのは、彼が基はチスイコウモリであることに由来しているので、血が好物というのも間違いではない。
生物として肉体を保つためであれば、昨今は血に拘る必要はない。別に人間と同じ食事もできるので。今は血より栄養効率の良い食物もある。どちらかといえば必要なのは糧と共に捧げられる信仰心の方だった。
「じゃあ何で突然おっぱじめたんですか」
「むぅ…そういえば、儀式の捧げものに少し、いつもと味わいの違うものがあったな。あれは、そう…ヨワルテディアを神と崇めるのではなく、吸血鬼として畏怖する信仰の味だ」
「もうそれが答えじゃないですか。あなた、吸血鬼としての信仰で"傾き"かけましたね?どこぞの悪趣味神じゃないんですから、己の信者の手綱くらいとりなさい。あなたが神としての信仰を喪ったら私たちの方にも影響が出るかもしれないでしょう」
「…ヨワルテディアも流石に危機感を持っている。ヨワルテディアも理性ある神の筈だったのだが…」
彼にとって藍月の血が魅力的なものであるのは事実だ。血を捧げる契約も結んだ。しかしそれは、突然噛みつくことを良しとするものではない。それなのに血を飲みたいという欲望のまま相手の了承も得ずに噛みついてしまった。己の制御ができていない。
「…きちんと躾けてやらねばなるまいな。慈悲深きヨワルテディアも全てを許すわけではない。神を貶めようというなら尚更だ」
「夜さま…」
「寧ろ今まで放っておいたのが間違ってるんですよ。神としての誇りがないのですか?」
「ヨワルテディアは恥知らずではない。新たな形の信仰かと思っていただけだ」
実際、吸血鬼としての信仰でも死者の王に求められることは彼にできることに相違ない。コウモリのように夜闇を飛び回り、血を糧として、人より強大な力を持つモノ。人に非ずしかし人のような姿をしたもの。神ではなく鬼として扱われるのが問題なだけで。間違っているというわけではない。
神としての信仰は彼に冥界での安寧を願うものだが、吸血鬼としての信仰は血を捧げる代わりに現世での庇護と助力を求めるものである。およそそれがカルトとなるのは、己自身のものではない血を捧げることを始めた時だ。
「それで神格を堕としてたら世話ないんですよねぇ。優しいのと甘いのは違うんですよ、ヨワルテディア。己の本分を忘れないようにしてくださいね」
「…わかっているとも。ヨワルテディアは冥界の神。生者のことは、本来であれば管轄外だ」
一応、部族神、都市の守護神という側面もあるので、己を崇めるものを守るのは道理ではあるのだが。
喉に噛みついたら殺してしまうという最後の理性




