第1話 血塗られた左手
人はどこからきて何をしてどこへ行くのか――それは誰にも分からない。ただ、どこかへ行く際に“何を”したかの“内容次第“で人生の満足度は大きく満足度は変わっていくだろう。
そうした人生の”内容”は重要な選択肢の連続。そしてその選択の結果の後悔か満足の繰り返しである。
この話は、それぞれの独自の理想を掲げ、独特の選択を繰り返していった人々の歪んだ末路までを描いたものである。
――いつの間にか寝ていたのだろうか? 胃の中から食べ物が逆流するような気持ち悪さを抑えながら、手をコンクリートの地面について何とか立ち上がった。
どうしてこんな道路で寝ていたんだろう? と思いながら時間が経つにつれ徐々に視界のボヤケがはっきりしてくる。
どうなっている? 見たことのない白黒の町だ。僕の眼が色彩を捉えることが出来なくなってしまったのか?
次に左手が水滴で濡れているなと思って見ると、腕まで血で真っ赤だった。
白黒の中で真っ赤だったためにより衝撃度は高かった。
そして左手には銃が握られている。もちろん、こんなものを持った覚えはない。
あまりのショックでバランスを崩しかけたのを何とか踏ん張って堪えた。
しかし、自分の体にどこも痛みは無く、傷は無さそうだ――つまりは誰か他人の血なのだ。
そして視界を彷徨わせると更に信じられない光景が広がっていた。
人が転がっていた。血だまりが至る所に出来ている。遠くを見るとそんな人が何人も転がっている。
白黒の世界の中、赤の血はとても良く映えているようにすら見えた。
全く動かないところを見ると彼らは完全に死んでいる。絶望的な気持ちで僕は左手を見た――まさかこの人達を僕が……。
「こ、こんなの知らないっ! 何かの間違いだ。僕は誰も傷つけてなんていない!」
僕は銃を投げ捨てた。バキッと銃のどこかが壊れた音がした。その後は自分の荒い息遣いだけが聞こえる。
「嘘を吐くな」
低い声が真後ろからする。僕以外誰もいないはず……背筋がゾッとしたので震えながらゆっくりと振り返る。
「っ!?!?」
声にならない声が出た。
見るとどす黒い影が迫ってくる。巨大なスライム状の生命体に金属のような性質の人間の手足が無数に生えており、この世のものとは思えない異形だ。
「なぁに、今更恐れることはない。
俺はお前によって殺された者達の集合体だ。
お前を殺すためだけに、地獄の底から這い上がって集まってきたのだ」
「だ、だから僕は誰も傷つけていない。ましてや殺してなんてッ……!」
「愚かで追い詰められた犯罪者は皆そう言う。そんな戯言が通じると思うのか? お前は書類上ではあるが確かに人間を殺している。それも何人も何百人もだ!」
「ふ、ふざけるな! ぼ、僕は何も知らない!」
“何か黒い影”が迫ってきた。コイツは僕を殺すつもりに違いない!
声にならない声をあげながら灰色の街を全力疾走していた。自分の激しい呼吸音と靴の足音が木霊する。
背後からは黒い影が自分の全力疾走と同じぐらいの速度で猛然と迫ってくる。
無数に転がる死体をかき分けるようにしながらとにかくあらん限りの力を振り絞って走り続ける。
角を曲がる際に少し後ろの様子を一瞬見たが影も速度を緩める様子はない。
黒い影が諦めるまで走り続けるしか無かった。
「だ、大体ここはどこなんだ? いつもの住んでいる街なのか?」
同じような白黒の街をぐるぐると回っているので焦燥感が募る。
そして次第に走っている速度が低下しているような気がして追いつかれていやしないかと何度も何度も後ろを振り返る。
「あっ!」
そんな風に前への注意が散漫になっていたせいか、突然何かに躓いて前かがみになりながら転んだ。唇か舌を切ったのか鉄の味が口の中に広がった。
どす黒い顔になっている死体と目が合った。恨みと憎しみに満ちていた。
あまりの恐ろしい表情に驚愕していると、
ものの2、3秒で黒いスライムの影が追い付いてきた。
足をくじいてしまったのか立つことができない。
無数の黒い手のようなものが伸びてきて足首をつかみ一気に僕の体を深淵より深い闇へ引き込もうとする。
ベタベタとした気持ち悪い感触の野太い手だった。
「お前を、俺たちのいる所に引きずり込んでやる。
なぁに心配することはない。
俺たちが味わったような苦しみ、悲しみ、絶望を無限に味わうだけなんだからな!」
どす黒い声が後ろから聞こえてくる。
このまま取り込まれてしまう必死に体を左右にもがいて逃れようとしてもズルズルと闇の中に引きずり込まれる。
そして引きずり込まれた部分は感覚がなくなっていくのが分かる文字通り“消滅”していっている――絶望的な気持ちに支配されつつあったとき、
左手が空中にグイっと引き上げられた。柔らかいが力強い手のように感じた。
「た、助けてくれ!」
この手の感触は自分の味方だとなんとなく思えたので思わずそう声を出した。
もちろん敵である可能性もある。しかしそんなことを考慮に入れていられない。
「じゃぁ、聞くけど日々“ありがとう”と言われるようなことをしている?」
その声とその内容で誰なのかは分かった。明らかに味方だ。
「そ、それは……」
しかし、僕はそれに対して答えることが出来なかった。
僕が答えに窮しているのを見るとその手はスルっと僕の手を離した。
「あ……」
声にならない声を出すとともにあっという間に野太い黒い手に引きずり込まれた……。
「お前は何もできないダメなやつだ。
人に責任を擦り付け自分はのうのうと生き延びる。ここで俺たちと同じ苦しみを味わえ!」
どす黒い声が響く。地獄の底へ僕を引きずり込むように――。
「そ、そんなことはない! ぼ、僕はあの時とは違う!」
しかし、黒い手に更に引き込まれ自分が自分でなくなっていくような気がした。
2055年(恒平9年)10月24日日曜日
「うわあああああっ!!!」
布団を跳ねのけながら意識が覚醒した。
見ると、白黒の街ではなく、いつもの自分の部屋。いつもの布団、いつものベッドだ。
ふぅ、とんでもない悪夢を見た……いや、『夢で良かった』と言って良かった。
あんな白黒の世界など非現実的な夢だということは直ぐに分かりそうなものだが、
そうと考えさせる余裕すらも無かったのだ。
時計を見ると5時40分。普段起きる時間より1時間以上は早い。
背中には寝汗のせいかパジャマとシャツがまとめて体に張り付いている。
なるべくそうならないような高級素材だったはずなのだが、それを無意味にしてしまうほどの汗が出てしまったということだろう。
「ひぃっ!」
ふと手元を見ると、何と夢の中で見たように左手が血まみれになっている……シーツは血塗れで、その血は窓の外まで続いている。
窓の鍵を解除してその周辺を調べてみると窓の外より先は無さそうだった。
僕自身はどこも怪我していないようだ。とりあえず家族の誰にも見られないようにコソコソと洗面所に行き、手にこびりついた血を洗い流す。
血は洗っても洗っても中々落ちない……これが“人殺しの罪”の証拠だとでもいうのか? そんなバカな……僕は何も悪いことはしていない。ましてや人殺しだなんて……。
「はぁっ! はぁっ!」
そんなことを考えると心臓が飛び出そうになるほど動悸が激しくなりしばらく洗面所でうずくまる。数分うずくまった後、荒い呼吸がしばらくしてようやく収まるとようやく立ち上がって自分の部屋に戻る。
「何……?」
部屋の窓まであった血の跡は消えていた。ベッドに駆け寄るとシーツの血塗れだったのも消えていた。気が付けば手の血も無くなっていた。
何だかキツネにつままれたような気分だ。さっきまでのは幻影なのか?
しかし、こうなると先程見た夢が気になった。
夢診断をしてみようと思い、右のこめかみを押してコスモニューロンを起動する。
今から20年前の2035年から急速に技術が進歩しついに人間の体とCPUを接続するインターフェースを導入するのが当たり前の世界になった。
そのシステム名がコスモニューロンという。
僕はこめかみをタッチすると、14インチの仮想ディスプレイが出現する。
コスモニューロンは自分だけが内容が見えて他人からは見えない(更に共有や見せることもできる)というかなりの優れものだ。
“思考“しただけでインターフェースのマウスや文字入力が可能であり、
かつての携帯電話やスマートフォンとしての電話機能もある。
動画や音楽も愉しむことができ、最初は使っていて戸惑うこともあるだろうが、慣れれば人生でもこれ以上のツールは無いように思える。
当初は頭にデバイスを埋め込むことによる健康被害も出たそうだがここ数年で急激に改善されているので安全性もバッチリだ。
というわけでそんなコスモニューロンの脳内からアプリを検索して開き夢診断にアクセス。そこでザっと今見た夢の内容を入力……診断結果はすぐに出た。
「なになに……あなたは何か後ろめたいことに追われています。
身近な頼れる存在の言うことを聞いてみましょう」
何だかどこかで見たようなありきたりな内容だった。まぁ、AIによる診断なんてこんなもんだろう。
だから人間はまだまだ必要なのだからある種の安心感はあるが、今の僕にとっては有り難くない。
その後、メジャーではないその他のアプリを使ってみても似たり寄ったりの内容だった……
「なぁに、僕は頂点に存在している絶対的な成功者。虻利ホールディングス副社長で、eスポーツ世界大会で5冠王。年収は手取りで50億や100億円にもなる年がある。貯金は500億円と億万長者と言って良い。
僕の名前を聞けば誰もが平伏すほど、この世界での圧倒的な強者、そして勝ち組の筆頭ともいえる存在なんだよ。何も恐れることは無い。夢なんて所詮は夢さ現実に影響する筈も無いんだ」
全て脚色の無い事実だ。しかし自分でその言葉を言ってみて安心するどころか、何故だが逆に胃の中の物が逆流するような気持ち悪さを覚えた。
事実を口に出しただけなのにどうして……。
このピラミッド階層社会の頂上にいる“絶対的成功者”と僕は認知されている。
しかし、その抱えている“闇“は一般人とはその性質が全く違う。
身から出た錆とは言え、僕は頭を抱えた。このままでは自分の過去によって全てを潰されてしまう……。